▶「ブレークニーは何を弁じたか」全文(高22期 高橋克己)

▶「ブレークニーは何を弁じたか」全文(高22期 高橋克己)

- ポツダム宣言 -

初めに、“条例”の根拠であり大東亜戦争を終結させたポツダム宣言について詳しく見ていくことにする。ポツダム宣言は、その事実関係を詳しく見てみると、その作成過程や体裁および公表の仕方のみならず、その受諾に至る経過も、時々刻々と変化する状況と各国内外の関係者の思惑とが錯綜した、極めて特異なものであったことが判る。はじめに結論を言ってしまえば、ポツダム宣言は、日本をしてそれを直ぐには受諾せしめないように、つまり直ぐには戦争を終わらせないように、米国のトルーマン大統領とバーンズ国務長官によって周到に計算されていたことが、今に至れば、その内容の変遷と発表の仕方の両方から明らかに推察できる、と筆者には思えるのである。

先ずポツダム宣言に係る出来事を時系列に沿って追ってみたい。時間は、断りない限り米国東部戦時時間EWT、日本時間はJSTとしている。但し、一部に混淆があるかも知れない。

◇宣言の発表から受諾までの経過
1)発表 1945年7月26日21時20分(JST7月27日午前4時20分)
宣言発表以降の日本が受諾するまでの米国とのやり取りは、中立国スイスを通じて行われた。しかし宣言自体の発表は、ポツダムの米国代表団宿舎において報道陣に対して行われたのみで、日本への送達は中立国などの公式ルートを介しては行われなかった。米国国内向けにも、ホワイトハウスや国務省宛にではなく、戦争の広告宣伝を担当していたOWI(戦時情報局)に送られ、そこから国内の各政府機関や報道に対して流されるという異例なものであった。このOWIの放送を日本は受信したのだが、これは日本をして宣言を、重要な通牒ではなく単なる宣伝に一つとして軽視させる思惑があったからであろう。

2)日本側の認知(JST1945年7月27日午前6時頃)
ポツダム宣言は日本側に公式ルートを通じては送達されず、OWIが各基地の短波送信機を使ってJST27日午前5時から開始した放送を、外務省情報室が27日午前6時頃に傍受することで、日本側は宣言の内容を知ったのであった。それ以降、時の総理大臣鈴木貫太郎がこれを‘黙殺’したことが原爆投下に繋がったとして、後に人口に膾炙する約2週間の時が流れるのだが、これは米国の思惑通りだった。その間に日本国内では宣言受諾の可否に関し、「国体の護持」を巡って激しい議論が展開された。

3)鈴木貫太郎首相の会見と新聞報道(JST1945年7月28日午後)
この時の鈴木首相の正確な発言記録はなく、あるのは新聞報道と鈴木貫太郎本人と周辺にいた者らの回想記のみである。政府は27日と28日に報道機関に対して、「論説不可、個々の条件の内容是非論議不可、但し、日本の名誉と存在に触れる点については、反駁、冷笑は可」といった趣旨の内容の縛りをかけた。これを受けた28日の朝刊報道、例えば朝日新聞は、「米、英、重慶 日本降伏の最後条件を声明、三国共同の暴力放送」「政府は黙殺」「多分に宣伝と対日威嚇」との見出しを付けた。後年、鈴木貫太郎は「この宣言は重視する要なきものと思う」と言ったと回想記に書き、当時同盟通信の海外局長だった長谷川才次も、「総理ははっきりしたことは何も言われなかった」と回想録に記している。

日本の報道を注視していた米国の反応はと言えば、後年トルーマンはその回想記に、「・・7月28日の東京放送は、日本政府が戦いを継続する意向である、と発表した。米国、英国、中国が共同で出した最後通告への正式回答ではなかった・・」と書いている。つまりこの時点では、日本側は「この宣言は重視する要なきもの」と考えており、米国側も日本の反応を「正式回答ではなかった」としていた。

4)日本の回答(JST1945年8月10日。以下もJST)(以下の翻訳は断りない限り筆者)
その発表方法の異例さもあって、当初は「重視する要なきものと思う」と考えていたポツダム宣言の受諾に、日本が動いた理由は二つある。一つは広島(6日午前8時15分)と長崎(9日午前11時2分)への原爆投下であり、一つは日本が最後まで望みをかけていたソ連の和平仲介に対して、ソ連から8月8日午後5時に、宣戦布告を以って回答がなされたからである。9日午後11時から始まった御前会議で、日付が変わった午前二時過ぎに「聖断」が下された。

翌10日、スイス日本大使館から米国側にスイス政府を経由して以下の内容が伝えられた。すなわちポツダム宣言の12項「The occupying forces of the allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible Government.」「前記の諸目的か達成されて、かつ日本国国民の自由に表明された意思に従って、平和的傾向を持ち責任ある政府が樹立されたならば、連合国の占領軍は直ちに日本国から撤収されるであろう」という文言について、次のように解釈する前提の下で受け入れる旨を、日本側は回答した。

「The Japanese Government are ready to accept the terms enumerated in the joint declaration which was issued at Potsdam on July 26, 1945, by the heads of the Governments of the United States, Great Britain, and China, and later subscribed by the Soviet Government with the understanding that the said declaration does not comprise any demand which prejudices the prerogatives of His Majesty as a Sovereign Ruler.」「日本国政府は、米国、英国および中国の首脳によって、ポツダムにおいて1945年7月26日に発せられ、そして後にソ連政府によって署名された、その共同宣言の中に列挙された前提を、その宣言が、統治者としての天皇陛下の大権を損なういかなる要求も含んでいないと了解して、受け入れる用意がある。」

5)米国からの日本側回答への返答:バーンズ回答(JST8月11日)
下記の米国側回答は、日本のそれの逆をたどって、バーンズ米国務長官からスイス政府を経由して日本側にもたらされた。日本側は、JST12日午前零時45分米国ラジオ放送によってその内容を知った(スイス政府から日本政府に送達された時刻は不詳)。が、以下の内容を含むために、軍などの徹底抗戦派は拒否を求めた。最終的にここで外務省が歴史的な誤訳を意図して行ったことで、受け入れ、となった。

「From the moment of surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.」(略)「The ultimate form of government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people.」「降伏の時点から、天皇および国を治める日本国政府の権限は、降伏条件を適切に実施する義務を有する者として行動する連合国最高司令官に従属する。」(略)「日本政府の究極の形態は、ポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明せる意志によって設立される。」
 
外務次官松本俊一は、この「従属する」という部分を「制限の下に置かれる」と意図的に表現を和らげて誤訳し、東郷外相の承認を得て、それを外務省の正式訳文として天皇の裁可を仰いだ。すなわち「降伏のときから天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏条件を実施するため、その必要を認むる措置をとる連合国最高司令官の制限のもとに置かれるものとする。」と。

6)日本政府に対する通知(8月11日)
追ってバーンズ国務長官からスイス経由で、以下の通知が日本に対してなされた。日本国内の意図的な誤訳などの内情を知る由もないバーンズは、ポツダム宣言と11日付のいわゆるバーンズ回答が、日本側に受け入れられた前提で事を運んでいる。

「With reference to your communication of today's date, transmitting the reply of the Japanese Government to the communication which I sent through you to the Japanese Government on August 11, on behalf of the Governments of the United States, China, the United Kingdom, and the Union of Soviet Socialist Republics, which I regard as full acceptance of the Potsdam Declaration and of my statement of August 11, 1945, I have the honor to inform you that the President of the United States has directed that the following message be sent to you for transmission to the Japanese Government:」「米国政府、中国、英国およびソ連を代表して私が、貴兄を通じて日本国政府に8月11日に送った通信に対する、ポツダム宣言および1945年8月11日の私の声明の完全な受け入れとして私が見做すところの、日本政府の回答を送達する本日付の貴兄の通信に関して、米国大統領が、次の声明書が日本国に送達するために貴兄に送られることを指示したことを貴兄に報告することを私は光栄に思います」

7)日本の最終受諾(JST8月14日)
日本政府は、8月14日にスイス政府と通じてポツダム宣言の受諾を連合国側に通知した。スイス政府による米国への通知の書き出しは次のようである。以下の日本政府の表明の詳細は省略するが、「天皇の権限」に関する特段の言及はない。

「The Japanese Government would like to be permitted to state to the Governments of America, Britain, China and the Soviet Union what they most earnestly desire with reference to the execution of certain Provisions of the Potsdam Proclamation. This may be done possibly at the time of the Signature. But fearing that they may not be able to find an appropriate opportunity, they take the liberty of addressing the Governments of the four Powers through the good offices of the Government of Switzerland.」「日本国政府は、彼らが最も切望しているポツダム宣言の条項の確実な履行に関して、米国、英国、中国およびソ連各政府に声明することをお許し願いたいと望んでいます。このことは署名の時点になされるでありましょう。しかし適切な機会が得られないことを危惧して、彼らは失礼を顧みず、スイス政府の善良な政権を通じて、四強国政府に表明しています。」

◇米国側における宣言文案の策定経緯
事の後先が逆になるが、ここで米国側の宣言文案の策定過程、および日本側の宣言受諾までの経過を少し詳細に追ってみたい。すでに開戦以前から日本の外交暗号、いわゆるパープル暗号の解読(解読文書はマジックと称された)の解読にも成功していた米国は、1941年春から始まった日米交渉における日本の方針はもちろんのこと、択捉島単冠湾から真珠湾へ向かう連合艦隊の航跡や、数時間手交が遅れたがために米国国民に「Remember Perl Haber」を植え付けた、日本の最後通牒の内容までも事前に知っていたことが、今日では公開された米国公文書によって明らかになっている。

1945年に入る頃には、欧州だけでなく太平洋の戦線でもほぼ戦況が決していたので、米英ソの三国首脳は、2月4日から11日までクリミア半島のヤルタに会した。議題は主として最終盤を迎えていた欧州での対独戦であり、ドイツ降伏までの最終計画や欧州の戦後計画、国連会議の日程などが話し合われた。加えて、ドイツ降伏後2~3カ月以内にソ連が日本に参戦するとの密約(ヤルタ密約)がなされた。この密約を知る由もない日本は、ソ連の和平仲介に最後の望みをかけて、天皇親書を携えた近衛文麿公の訪ソを、駐ソ大使佐藤尚武を通じて再三再四申し入れたのであった。

ソ連を頼む東郷茂徳外相と佐藤尚武駐ソ大使とのやり取りの外交暗号を傍受解読して、日本国内の様子を知悉していた米国の関心事は、原爆の完成が近づいていたことも相俟って、何時どのような形で日本の降伏を実現するかに移っていた。他方、対ドイツ戦の終盤およびドイツ降伏後におけるソ連スターリンの振る舞いを見るにつけ、前任のローズベルトがヤルタで密約してしまったソ連の対日参戦は、原爆を持つに至ったトルーマンの米国の利害にとって、痛しかゆしの諸刃の剣となりつつあった。

米国は日本を降伏に追い込む最後の方策として、45年11月以降に南九州(オリンピック)と関東平野(コロネット)への二つの上陸作戦を準備していた。ほぼ決している戦況とはいえ、44年9月15日~11月25日のペリュリュー島、45 年2月19日~3月26日の硫黄島、そして3月26日~6月23日の沖縄と、それまでの突撃玉砕型から籠城しての徹底抗戦型に変化した日本の戦法によって、戦死者を激増させていた米軍には、何としても本土上陸作戦による米兵損耗を避けたいとの強い思惑があり、ソ連参戦による日本の早期降伏への期待が大きかった。

しかし一方、一つには、参戦によるソ連の見返り要求が、ヤルタ密約の範囲(日露戦争で失ったソ連の全権益の回復+千島列島)に止まらず、朝鮮半島や北海道など及ぶ可能性があること、一つには、原爆投下によってソ連参戦前に日本の降伏が実現するかも知れないこと、のためにソ連参戦(8月9日)と原爆実験成功・投下(7月16日、8月6・9日)そして日本降伏(8月15日)の3つの要素が、米国にとって時間との競争になったのだった。

そのポツダム宣言だが、ステティニアス国務長官の能力を評価せず国連に専念させるつもりだったトルーマンは、その草案作りを、日米開戦まで10年間駐日大使を務めた知日派で、ハーバード同窓のローズベルトの信任厚かった国務次官兼長官代理ジョセフ・グルーに行わせた。トルーマンは回顧録に「5月末にグルーがやって来て、日本に降伏を促す宣言を出したらどうかと言う。宣言では天皇が国家元首としてとどまるのを米国が許す旨、日本に保証するとされていた。」「私は彼に、自分もこの問題をすでに考慮しており、それ(グルー提案)は健全な意見のように思われる、と告げた。」と書いている。

44年11月に国務次官、翌年1月には国務長官代理になっていたグルーは、45年3月頃には、在スイス日本公使館の海軍顧問藤村吉郎中佐と接触していた米国戦略情報局スイス支局長のアレン・ダレスを通じて、日本が考えている降伏条件は“国体護持”のみであるというインテリジェンスを得ていた。長年の駐日大使歴からこれを理解したグルーは、表向きは日本に対する最後通告でありながら、事実上は条件付き降伏案と受け取れる宣言を作成し、大統領に日本向けに発表させることを考えたのであった。

その当初案の日本の“皇室の存続”を保証する文言と最終実施の文言(第12条)は次のようである。
当初案・・「連合国の占領軍は、これらの目的(侵略的軍国主義の根絶)が達成され、いかなる疑いもなく日本人を代表する平和的な責任ある政府が樹立され次第、日本から撤退するであろう。もし、平和愛好諸国が日本における侵略的軍国主義の将来の発展を不可能にするべき平和政策を遂行する芽が植え付けられたと確信するならば、これは現在の皇室のもとでの立憲君主制を含むこととする」。
最終分・・「前記の諸目的か達成されて、かつ日本国国民の自由に表明された意思に従って、平和的傾向を持ち責任ある政府が樹立されたならば、連合国の占領軍は直ちに日本国から撤収されるであろう」。

グルーはこの最後通告案を45年5月31日に大統領声明として出すことを、5月29日の三人委員会(陸軍、海軍、国務省の検討機関。メンバーはスティムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官、グルー国務長官代理)に諮った。契機になったのは、少し前にスティムソンから原爆の開発計画について知らされたからであった。が、トルーマンからは回顧録にある通り同意を得たものの、スティムソンが先送りを主張し、これが結論になったのだった。スティムソンの部下だったジョン・マクロイが、スティムソンがこのように主張した理由を、「原爆の使用準備のことも考えなければならなかったからだ」と後に証言しているように、日本の降伏は原爆使用の後であることが、当時の米国の方針だったのである。

ローズベルトは、1944年にコーデル・ハルが健康問題で国務長官を辞した時、次官のステティニアスを昇格させ、次官にはグルーを充てた。しかしトルーマンが7月3日に国連大使に転出したステティニアスの後任の国務長官に選んだのは、次官兼代理のグルーではなく対日強硬派のジェームズ・バーンズだった。バーンズは1944年7月の民主党大会で現職副大統領ヘンリー・ウォーレスと副大統領候補指名を争った有力議員であり、トルーマンが、結局は自分が就任したローズベルト政権の副大統領にバーンズを推薦していた経緯もあった。そこで、トルーマンとバーンズには共通点が二つある。一つは共に日本に対する知識が極めて乏しかったことであり、他は共に大卒でない上院議員だったことだ。

トルーマンは父親の事業失敗で大学に進めなかったことを気に掛けていて、そのせいか軍人は好きだが外交官は嫌いだったと言われる。ステティニアスは事業家出身の好人物だが仕事振りに不満があったし、生粋の外交官のグルーはトルーマンの癇に障るミスを5月半ばにしていた。それは対ドイツ戦終了に伴う対ソ武器貸与中止に関係していた。武器貸与法を停止する法律自体は大統領も承認していたのだが、それに従って出港済みの船を杓子定規に引き返させたグルーの命令を、トルーマンが外交上の影響懸念から撤回せざるを得なくなったことが、ある種の冷酷さをもつトルーマンの気に障ったのだった。

当時の米国の「大統領継承法」も、トルーマンがステティニアスを半ば更迭し、グルーでなくバーンズを国務長官に据えた理由の一つだったに違いない。大統領が欠けて副大統領が昇任した場合、その在任期間は副大統領を置かず、国務長官に大統領継承順位が繰り下がる決まりであった。つまり、万が一自分が欠けた時、ステティニアスやグルーが大統領に昇任することをトルーマンは避けたかったのだ。

だが筆者は、トルーマンが原爆の存在を知ったことが、バーンズを国務長官に据えた最大の理由であると考える。副大統領だった82日の間に、ローズベルトから、原爆はおろか政務全般についても何も知らされていなかったトルーマンは、ローズベルトの急死で‘偶然’大統領になった直後にスティムソンから原爆開発を聞かされた。それを聞いたトルーマンが、原爆の使用こそがローズベルトに縛られることなしに自ら下すことのできる決断だ、と考えたとしても不思議はない。と同時に、20億ドルもの巨費が議会の承認も経ず原爆開発に費やされていることも知った。これを投下して日本を降伏させることでしか、これを正当化できないともトルーマンは考えたに違いない。そしてバーンズこそはマンハッタン計画の責任者の一人として原爆開発の経緯を知悉する人物だったのである。

バーンズは、その少し前にローズベルト政権の戦時動員局長官を辞したばかりだった。彼がヤルタ会談にも同行していたので、ヤルタの詳細を知りたいと考えたトルーマンは、バーンズを呼んで会議の様子を聞こうとした。しかしこの頃ローズベルトの信頼を失っていたバーンズは、側近のハリー・ホプキンスやアルジャー・ヒスと違って重要会議に陪席してはおらず、会議の詳細は何も知らなかった。バーンズに対するローズベルトのこの冷遇が、ヤルタから帰国後のバーンズ辞職の理由の一つと言われる。

少し横道に逸れるが、ヤルタ会談の米国代表団の多くが、ヤルタの直後に相次いで世を去っている。ローズベルトは2か月後の4月、ホプキンス顧問は翌年1月、同じく大統領顧問のパトソンは帰途の船上で、ステティニアスも3年後に、相次いで死亡した。他方、同じく大統領顧問だったアルジャー・ヒスは後に転向した元ソ連スパイで、当時タイム誌で働いていた元ソ連スパイのウィタカー・チェンバースにソ連のスパイとして告発され、偽証罪で有罪となったものの1996年に92歳の天寿を全うした。

もう一つ余談。トルーマンはポツダム会談中に一報が入った原爆実験の成功を、スターリンにどのように伝えるべきか苦慮していた。結局、チャーチルの助言も入れて、日程終盤7月24日の会議終了後にスターリンの席に歩み寄り、原子爆弾とは言わず強力な新型爆弾という言い方でさりげなく伝えた。まったく平静なスターリンの反応に拍子抜けしたトルーマンは、回顧録に「彼はその意味するところが判らなかったらしい」と書いた。他日スターリンもお返しに、その期に及んでも日本がソ連に和平の仲介依頼をしている件をトルーマンに告げた。が、その反応も同様にそっけなかった。スターリンは在米スパイからの報告で、他方、トルーマンはマジックで、共に疾うに知っていたのだった。

閑話休題。トルーマン政権内では、バーンズ国務長官が強硬派(ハードピース派)だった以外は、文官のスティムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官、最長老のリーヒ統合参謀本部議長、マーシャル陸軍参謀長などの要人は概ね対日穏健派(ソフトピース派)であった。しかし政権の外に忘れてはならない対日強硬派が一人いた。日米開戦の引き金を引いたハルノートで知られる元国務長官コーデル・ハルである。7月3日に国務長官に就任したバーンズは、その4日後の7月7日にポツダムに向け出発したのだが、そのポケットには、スティムソンらの合意を得てその第12項に「国体の護持」を謳ったグルーの草案がねじ込まれていた。しかしトルーマンを説得して、穏健派のスティムソンをポツダムへの代表団から外させたバーンズは、草案から「国体の護持」のフレーズを削るべく蠢動したのであった。

このバーンズの動きには二つの「表面的」な理由があった。一つは、天皇制の存続に極めて批判的な当時の米国内の世論であり、いま一つはコーデル・ハルの助言である。出発前日の7月6日、バーンズはハルに電話で相談していたのだった。ハルは、バーンズに次のように返事をしたことを自身の回顧録に書いている。「・・天皇と支配階級の特権がすべて剥奪され、他のすべての人たちと法の下の平等の立場に置かれなければならない・・」。斯くしてグルーの苦心は水泡に帰したのであった。

バーンズは、ポツダム宣言における大逆転劇をもう一つ演出している。それは宣言発出の直前に、会談の主役の一人だったスターリンを宣言署名者から降ろし、蒋介石に差し替えたことである。ソ連が対日戦争に参戦していないことが「表面的」な理由であった。(「国体の護持」の文言を削った二つの理由も「表面的」と書いたが、その訳は、真の理由が別にあったからだ。その真の理由こそは「原爆を使う前に日本を降伏させないため」という、実におぞましいが故に決して表には出せない理由だった。)

原爆開発のマンハッタン計画の責任者の一人でもあったバーンズは、1945年5月末に「できるだけ早く日本に対して原爆を使用する」、「目標は都市とする」、「事前警告をしない」という三項目を含むいわゆる「バーンズ・プラン」を決定していた。原爆実験成功の詳報は7月17日にポツダムに届いたのだが、ポツダム宣言にスターリンの名前を連ねることは、最後の和平仲介をソ連に託していた日本を絶望させ、原爆を投下する前に降伏させてしまう懸念があった。ポツダム宣言から「国体の護持」と「署名:スターリン」の文言を削った真の理由は、日本の降伏を遅らせること、そこにあったのである。

トルーマンにとって日本の降伏は、原爆投下後、かつソ連参戦前でなければならなかったので、原爆投下後は、一刻も早い日本によるポツダム宣言の受諾を期待したに違いない。そこで米国は天皇の大権問題をソ連参戦に比べて過少評価した。それは8月10日の日本の前提条件の取扱いに現れている。もし米国が天皇の大権問題を重視するなら、日本の受け入れ条件にある「その宣言が統治者としての天皇陛下の大権を損なういかなる要求も含んでいないと了解して」との文言にもっと拘っているはずだ。が、米国は11日にバーンズ回答を出し、同日に追って、「ポツダム宣言および1945年8月11日の私の声明(バーンズ回答)の完全な受け入れとして私が見做す」として性急に事を進めた。

当時ホワイトハウスの副報道官だったイーブン・エアーズは、その著書「ホワイトハウス日記 1945-1950」の中で、8月11日の日記に次のように書いている。「大統領との朝の会議を行った。米英ソ仏の四か国が協議中であるということ以外いうべきことはない、と大統領は言った。(主任報道官の)ロスは10時30分の記者会見でこれを記者団に伝えた。そのすぐあと国務省は我々に一言の断りもなく、日本提案に対する米国の回答を発表した。その返事は、日本は天皇制を維持できるが、天皇も日本国民も連合軍最高司令官に従う、という内容だった」。

つまり、原爆を投下したからには、日本にはソ連の参戦前に速やかに降伏させねばならない。そこでトルーマンはバーンズと図って宣言から一旦は削った「国体の護持」を容認する内容、つまりグルーの原案に戻したのだった。但し、それと判り難いような表現に替えて。即ち、次のような言い回しである。「十二 前記の諸目的か達成されて、かつ日本国国民の自由に表明された意思に従って、平和的傾向を持ち責任ある政府が樹立されたならば、連合国の占領軍は直ちに日本国から撤収されるであろう。」

だが、ソ連はローズベルトの置き土産であるヤルタ密約に基づいて参戦し、宣戦戦布告前日の8月9日に満洲と北朝鮮に殺到した。日本降伏後には樺太と千島に侵攻し、9月2日の降伏文書調印の翌日3日にその占領を完了した。ソ連は、満洲と北朝鮮に日本が残した膨大な資産の大半を、60万人の抑留者と共にシベリアへ持ち去ってしまった。ここに東西冷戦が表面化したのであった。

大統領就任後に初めてその存在を知り、唯一ローズベルトの遺志に縛られずに、トルーマンが独自に下すことのできた原爆の投下は、戦後しばらくはその言い訳を何度もスティムソンに書き直させねばならないほど、彼のその後の余りに大きな重荷であり続けたに違いない。

◇日本側における宣言受諾までの経緯
ポツダム宣言受諾の立役者としては、世紀の誤訳の張本人である当時の外務次官松本俊一に、まず指を折らねばならないだろう。ジャーナリストの大森実は昭和50年に上梓した「戦後秘史全9巻」の第2巻「天皇と原子爆弾」に松本のインタヴューを載せている。これに日本側の対応が詳述されていると思われるので、少々長いが一部を捨象しつつ下記に引用する。7月27日午前6時頃に外務省情報室が傍受したポツダム宣言の内容を読んだ時のことを松本は次のように述べている。()の補足は筆者による。

「これは無条件降伏の条件だ、と言ったんですよ。向こうが講和をやる以上は、条件がない訳にはいかないですわね。そこで私は外務省の幹部会で、これをただちに飲もうじゃないかと言ったんです。そうすれば終戦できるじゃないかと」。「原則として受諾することが必要だが、当分は知らん顔することが必要だと言ったんです。まさか原爆があるとは知らなかったけれども。しかし拒否したらやられますよ。ところが軍なんかでいろいろ問題になりましてね。それであれは日本が拒否したということになっちったんですよね。しかし私の考えは、いずれポツダム宣言を受諾して解決する以外にないと。」

松本の話は続く。「(8月)10日の最高戦争会議を受けて、12日に近衛訪ソの勅命が降りる訳です。私は15日に近衛公を箱根に訪ねました。近衛公からソ連の見込みを聞かれたので、国際環境から言ってソ連はなかなか同意しないだろう、と答えたところ、近衛公は、芦田均からソ連を利用するのは危ないという手紙が来たが、こうなってはソ連を利用する以外に手がないね、自分は白紙で行くつもりだ。この際は無条件降伏以外に戦争終結の途はない、まだ名誉ある講和、交渉による講和を考えている人がいるようだが、もう手遅れだ。天皇にもその趣旨のことを申し上げた。とのことでした。」

大森:「ソ連側が佐藤(駐ソ)大使に、近衛が来ても天皇の親書は内容のある提案とは思わん、近衛密使についても意義は認めない、と(近衛の訪ソは)宙に浮いてしまったんですね。」
松本:「スターリンがポツダムに行って、宙に浮いちゃったんです。東郷(外相)さんが佐藤さんに何度も電報を打ち、何しろ陸海軍がやかましいですから。そこへパッとポツダム宣言が出た訳ですよ。」
大森:「8月9日夜11時からの御前会議で受諾を決定して、天皇の大権を変更する要求が含まれていないとの了解の下に受諾する、との条件付き受諾をスウェーデンとスイスを通じて出した。それに対して12日に米国は米国側回答なるもの(バーンズ回答)を出しますね。」
松本:「連合国側の回答は‘顧みて他をいう’(答えに窮して辺りを見渡し、本題とは別のことを言うこと)ような回答でした。」
大森:「subject to、というやつですよね。」 
松本:「それをそのまま出せばダメになっちゃうでしょう。そこで私は最高会議スタッフと迫水(久常)書記官に、それは過渡的なことであって、占領される以上は当然あることだ、と言ったんです。そして東郷外相と鈴木首相に、この回答は‘顧みて他をいう’類で、こっちの回答に対してはっきりイエスともノーとも言っていないと。スティムソン辺りが相当努力した?」 
大森:「はい、そうです。グルーも。」「あとはポツダム宣言の解釈だけですわね。」
松本:「そうです。それでポツダム宣言の中に、‘日本国国民の自由に表明された意思に従って、平和的傾向を持ち責任ある政府が樹立されたならば・・’私はそのときね、これで日本をデモクラシーにするという解釈だから、私はむしろ積極的に賛成すると言ったんです。あの字句は、やかましく言えば本当は日本の国体を護持していないですね。国体を護持していることは詔勅には書いてあるけどね。」

松本俊一による当時の回顧談は、平成14年に原書房から出版された、終戦に関わった要人達への取材を集めた「終戦史録 GHQ歴史課陳述録終戦史資料(上)」にも、バーンズ回答に対する日本側の対応に関する昭和24年11月16日のインタヴューとして載っている。少々長いが以下に引用する。

「八月十二日午前一時か二時頃迫水(内閣書記官長)から私に電話があった。・・同盟(通信社)に連合国側回答の放送が入ったから直ぐ来てくれと言うのである。・・同盟電はモールス符号で受けたものである。外務省から加瀬も来合わせた。四人集まって『此の回答内容では日本は受諾できぬことになるだろう』と落胆してしまった。併し私は強気に『これで行こうではないか』と主張し一同を激励した。素人の間で問題にするのは『サブジェクト・トゥー』であるが玄人の間で問題になったのは『アルティメイト・フォーム・オブ・ガヴァメント』である(The ultimate form of government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people.→追記⑤参照)。・・外相も直ぐそこを問題にされた。私共は『そんなに問題になさらぬ方が宜しいでしょう。私共がそれを問題にすれば軍部が反対論に利用しますから』と言った。

午前十時頃宮中から東郷外相にお召しがあった。外相は拝謁して、此の回答で満足して宜しい旨上奏されたところ、陛下も同意である旨申されたそうである。然るに午後になって閣議の途中十六時頃外相から私に電話で『形勢は非常に悪い。難しいよ』と言って来られた。・・外相は閣議が済んで帰ってこられた。その話では『自分は今朝陛下に申し上げた際はあれでいいと仰せられたのであるがその後枢相、陸相等が陛下に再交渉が必要である旨を申し上げたらしい。その結果陛下は総理に再交渉をするように申されたとの総理の話である。こうなったら外相を辞職するより外ないかも知れぬ』と言うのである。そこで私は『今外相が辞職されては大変です。凡てが混乱してしまう。今日はゆっくりお休み下さい。明日で直しましょうと』と申し上げた。・・外相は帰邸された

そうして居る中にその夕六時四十分に正式回答が着いた。その後之に引続いて瑞典に居る岡本公使から注意すべき電報が入った。『今度の先方回答は米側が纏めるのに大変苦労して居るらしい。ソ連と中国は天皇制に反対である。英国ですら天皇制の承認は暫定的だと主張して居るらしい。ロンドンタイムズの如きですら神格化された天皇制を葬れとの論説を掲げているという。』そんな趣旨の内容であった。私はこれを正しく私共の観測と一致した国際情勢の実情であると思った。即ち再交渉など企てようものならトルーマンも折角そっとして置いた天皇制に対する態度をハッキリせねばならぬ。そうすれば結局天皇制を保障するとは此の状況ではハッキリ言い切れまいから交渉はぶち壊しになるだろう。(略)

当時の主張の分野は大別して三つになると思う。①連合側の回答を拒否する。これは継戦派である。②連合側の回答を其の儘受諾する。これは終戦派である。③此の中間、即ち再交渉する。此の中間の立場の人達は、終戦は是非ともやらねばならぬと思いつつも『未だ外交的余裕はあるだろう、終戦の目的さえぶち壊しにせずに達し得るものならば、軍部や右翼の言い分を容れて事態をハッキリさせるに越したことはない』というような考えではなかったろうか。即ち外交交渉上の技術的な点やコツと言ったものが解らぬ為に起こって来た考え方である。

更に突っ込んで言えば日本側の八月十日の申し入れそのものも拙かった。私共外務当局の意見は『ポ宣言は受諾する。そして之に依って皇室の地位には影響がないものと考える』と一方的に言い放ってしまうと言うのであった。ところがこの申し入れ案を審議した御前会議で、平沼さんが『天皇統治の大権』と言うとても法理論的な厳密な用語を主張された。この問題では平沼さんは第一人者だから他の者は彼の主張に従う外ない。ところがこれは政治思想に根本的に相違を持つ連合側には難解であったろう。その用語を翻訳するのに「プレロガティブ(prerogative)」と言う英語を使った。それは外務省でも特に英語の出来る加瀬君(俊一)が訳したのである。私もその訳語は、一寸『これでいいかナ』と思ったけれども別に適当な訳語も思い付かなかったのでその儘にした。(略)」

この松本談話に出て来る岡本公使とは、当時スウェーデン駐箚特命全権大使だった岡本李正である。彼も昭和25年7月29日にこの件についての「終戦史録 GHQ歴史課陳述録終戦史資料(上)」にあるインタヴューで次のように答えている。

「私は瑞典(スウェーデン)で見て居ると米英はなるべく速やかに対日戦争を終結したい意向であるが、ソ連はやっと参戦したばかりであるから、もっと兵力を極東に進め既成事実を作り、講和条約に於いて大きな分け前を獲得せんと狙っているらしく判断された。又、ソ連が天皇制廃止を主張して居り之を米英に要求して居ることも良く判った。中国側も別の意味で日本に対する態度は強硬で、かれこれ条件がましいことには一切応ずまいと言う建前を取ろうとして居るらしく思われた。

米国はこのような強硬な態度を宥めてやっとあれだけの回答を作ることが出来たので、あれがあの際連合国から期待し得る最大限度のものと考えられた。之等情勢を無視し日本が強く天皇制問題で頑張れば、その再交渉期間戦争の惨禍を不要に塁ね、ソ連の進出を大ならしめることは勿論、恐らく交渉はぶち壊しになるという最悪の事態になると思った。それで私はこの観察は甚だ重要なことだと考え急いで外相に電報したのである。・・尚、八月十日付日本政府の対連合国申し入れは、私は英国とソ連とに対し瑞典政府を通じて取り次いで貰うよう訓令を受けた。米国と中国に対しては瑞西(スイス)を経由して居る。その後バーンズ米国務長官が連合国を代表して交渉に当たることが明らかになった。従ってそれから後の終戦交渉は瑞典政府を経由しなかった。」

松本俊一のこの回想を読む限り、昭和天皇が、ポツダム宣言およびバーンズ回答の「日本国国民の自由に表明された意思に従って、平和的傾向を持ち責任ある政府が樹立されたならば・・、及びThe ultimate form of government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people.」の文言の受け容れについて、少なからず揺れ動いていたような様子が東郷外相の口から語られている。

だが一方、小室直樹はその著書「奇蹟の今上天皇」にその様子を以下のように書いている。
「“国民の自由意思”とは何か。このことを巡って政府、軍部に大論争が巻き起こった。天皇の地位が連合軍回答によって曖昧な状態に置かれた。天皇を救う上で日本に残された唯一の道は戦い続けることしかない。神聖なる天皇を“国民の自由意思”になんぞ任せてたまるか、というのである。しかし天皇のとった行動は、他のいかなる国の元首とも違っていた。“国民の自由意思”に対する信頼、そして国民に対する責任の引き受け方において、これ以上に感動的な例を歴史上に見出すことは難しい。

・・木戸内大臣は天皇に拝謁して情勢報告をしながらこの“国民の自由意思”問題に触れた。すると天皇は、かえって不思議そうに木戸内大臣を眺めた。“それで少しも差し支えないではないか”。はっ、と意外な様子で眼を見張る木戸内大臣に天皇は続けた。“たとえ連合国が天皇統治を認めて来ても、人民が離反したのではしょうがない。人民の自由意思によって決めてもらって、少しも差し支えないと思う”。」

確かに昭和天皇は、1941年9月6日の御前会議で内閣が一致して決めた開戦を、明治天皇御製の歌を詠むにとどめて裁可した。が、内閣が瓦解していた二・二六事件時の反乱軍の鎮圧と、内閣の意見が二分したポツダム宣言受諾については、躊躇なく聖断を下した。これらのこと及び小室の描く上記のエピソードは、昭和天皇が、明治憲法下の立憲君主制における天皇と民主主義の在り方について、如何に深く理解していたかを髣髴させて余りある。従って、筆者は、バーンズ回答受け容れ時の昭和天皇に関する限り、先述の松本回想の東郷外相談には与しない。

纏めれば、ポツダム宣言受諾に関する聖断は二度に分かれていたのである。一度目はポツダム宣言そのものの受諾に係る8月9日午後11時からの御前会議において、深夜2時頃に下されたものである。日本側はこれに基づき、「(宣言が)陛下の大権を損なういかなる要求も含んでいないと了解して、受け入れる用意がある」と回答した。二度目は「subject to」と「ultimate from」を含むバーンズ回答に係る8月14日の御前会議で下されたものである。一般に後者の8月14日が「日本の一番長い日」として人口に膾炙している。が、小堀桂一郎は「宰相鈴木貫太郎」の中で、「八月九日もまたそれに劣らず『長い日』であった」と記している。

以上が、米国が開戦以前から協議して来た戦後日本の占領政策に基づいて策定され、1945年7月27日に発出されたポツダム宣言の内容と、それを日本が8月14日に受諾するに至るまでの経緯である。そこには米国要人の異動、即ちローズベルトの予期しない死に伴う主役とそのスタッフの大幅な入れ替えがあり、それが良くも悪くも大戦の最終章を演出したと言える。そして宣言発表後の米国と日本の駆け引きは、「顧みて他をいう」をそのものに、互いに自国の都合の良いように条項の文言を解釈し合うという、外交交渉の収まり方の典型をみる思いがする。天皇は「聖断」を下して連合国最高軍司令官に従属したものの、それは松本が言った通り過渡的なことであった。そして日本側が付けた前提条件の通りに、国体は見事に護持された。それは無条件降伏ではなかったのである。

なお、ポツダム宣言の邦文口語訳を以下に掲げて置く(原文は追記④参照)。
一 我ら、合衆国大統領、中華民国主席および大英帝国総理大臣は、我らの数億の国民を代表し協議の末、日本国に対し今次の戦争を終結する機会を与えることに意見が一致した。
二 合衆国、大英帝国および中華民国の巨大な陸、海、空軍は、西方から自国の陸、空軍による数倍の増強を受けて、日本国に対し最後的打撃を加える態勢を整えた。右の軍事力は、日本国が抵抗を終止するまで、同国に対し戦争を遂行するという一切の連合国の決意により支持され、また鼓舞されているものである。
三 決起した世界の自由な人民に対するドイツ国の無益で無意義な抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものである。現在日本国に対し終結されつつある力は、抵抗するナチスに対して適用された場合に全ドイツ国人民の土地、産業および生活様式を必然的に荒廃に帰させた力に比べて、測り知れないほどに強力なものである。我らの決意に支持されている我らの軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避でまた完全な壊滅を意味するであろうし、また同じく必然的に日本国土の完全な破壊を意味するであろう。
四 無分別な打算によって日本帝国を滅亡のふちに陥れた我儘な軍国主義的助言者により、日本国が引き続き統御されるべきか、または理性の経路を日本国が踏むべきか、を日本国が決定すべき時期は到来した。
五 我らの条件は次のごとくである。我らがこれらの条件から離脱することはない。またこれに代わるべき条件もない。我らは遅延を認めることは出来ない。
六 我らは無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和、安全および正義の新秩序が生じえないことを主張するものであるから、日本国民を欺瞞して世界征服の挙に出でるという過誤を犯させたものの権力と勢力とは永久に除去されなければならない。
七 右のような新秩序が建設され、また日本国の戦争遂行能力が破壊されたという確証があるまでは、連合国の指定すべき日本国領内の諸地点は、我らがここに指示する基本的目的の達成を確保するために占領されるべきである。
八 カイロ宣言の条項は履行されるであろう。また日本国の主権は本州、北海道、九州および四国並びに我らが決定する諸小島に限られる。
九 日本国軍隊は、完全に武装解除された後、各自の家庭に復帰して、平和的かつ生産的な生活を営む機会を与えられるだろう
十 我らは、日本人を民族として奴隷化しようとし、または国民として滅亡しようとする意志を持つものではないが、我々の俘虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重な処罰が加えられなければならない。日本国政府は、日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する、一切の障害を除去するべきである。言論、宗教および自由並びに人権の尊重は確立されなければならない。
十一 日本国はその経済を支持し。そして公正な実物賠償の取り立てを可能にするような産業を維持することが許されるだろう。ただし、日本国をして戦争のための再軍備をすることを可能にするような産業はこの限りでない。この目的のための原料の入手(その支配とは区別する)を許可されるであろう。日本国は将来世界貿易関係への参入を許されるであろう。
十二 前記の諸目的か達成されて、かつ日本国国民の自由に表明された意思に従って、平和的傾向を持ち責任ある政府が樹立されたならば、連合国の占領軍は直ちに日本国から撤収されるであろう。
十三 我らは、日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつその行動における同政府の誠意について適当かつ充分な保障を提供するよう同政府に対して要求する。それ以外の日本国の選択は、迅速かつ完全なる壊滅があるのみである。

次に、参考までに米国の関係要人の異動を見ておくと、以下のとおりである。
大統領・・世界恐慌のあおりでハーバート・フーバーが退いた後、フランクリン・デラノ・ローズベルトが第32代大統領に就いた。彼の在任期間は、33年3月4日から45年4月12日に脳卒中で亡くなるまでの4期12年にわたった。従来その任期を2期8年に限っていた憲法を、戦時を理由に改正してのことだった。ローズベルトの急逝を受け、副大統領のハリー・トルーマンが第33代大統領に昇任した。それはトルーマンがその年の1月20日に副大統領に就任してから僅か82日目のことであった。

副大統領・・米国憲法には、「大統領が死亡・辞任・免職などにより欠けた場合は副大統領が大統領に昇格する」とあり、文字通り大統領に次ぐ重要ポストである。33年3月4日から41年1月20日まで務めたジョン・ナンス・ガーナーはローズベルトとしばしば対立、40年には大統領選にも立った。41年1月20日から45年1月20日まで務めたヘンリー・ウォーレスも、当初こそローズベルトの信頼が厚かったが、後に衝突して更迭された。このためローズベルトは、才に長けたジャームズ・バーンズではなく、自らの地位を脅かす心配のないトルーマンを副大統領に据えたとも言われる。

国務長官・・日本でいう外務大臣職である。ハルノートで知られるコーデル・ハルが、ローズベルト政権発足の33年3月から44年11月30日まで、ローズベルトの在任期間とほぼ重なる形で務めた。健康問題でハルが辞任するとエドワード・ステティニアスが国務次官から昇任し、45年7月3日まで務めた。トルーマンは買っていないステティニアスを体よく初代国連大使に追い出し、45年1月から国務長官代理を務めていた知日派のジョセフ・グルーではなく、対日強硬派でマンハッタン計画にも参画していたジェームズ・バーンズ上院議員を国務長官に起用した。

ここで五百旗頭真の労作「米国の日本占領政策」に、ローズベルトとハルの関係を知る上で興味深い記述があるので、一部捨象しつつ以下に引用する。
「・・当時、ハル上院議員は既に25年の議員経験を積んでいた。また民主党全国委員会での経験も14年間に及び1921年から24年までは委員長を務めていた。・・その力はローズベルトを民主党(の大統領)候補に決定するうえで貴重であったし、それはまた新大統領がその後も引き続いて最も必要とするものであった。それゆえローズベルトはハルを国務長官に迎えるために意を尽くした。33年1月突然の要請を大統領予定者から受けたハルは、・・実に30日もの間長考し・・ついに一つの重要な条件を示して受諾した。それは国務長官が“単に外国政府との通信を行う”だけでなく“外交政策の立案と実施の双方について、あらゆる可能な方法を以って大統領を助ける”という実質的権限の保証であった。ローズベルトは言下にそれを約束した。・・約束したからといって外交全体をハルに任せきるほどローズベルトは政治的に淡白ではなかったし、外交に無関心ではなかった。彼は誰に対してもそうであったように、ハルを働かせながらもハルが外交に関する全権を独占することを好まなかった。ローズベルトは国際政治におけるバランスオブパワーの止揚を主張したが、少なくとも政府内政治の運営に際してはこの伝統的技術に極めて忠実であった。競争こそ能率の維持を可能にすると信じて、彼は常に権限を分割して部下に争わせ、最終的な決定者としての自己の立場を強化した。そのことは国務長官としてのハルを苦しめ続けた。」

さて、45年4月12日に急逝したローズベルトを継いで副大統領から昇任したハリー・トルーマン大統領と、同年7月3日に国務長官に就任したばかりの対日強硬派ジェームズ・バーンズは、ポツダム宣言第12条の文言をポツダム到着後、先述したように「連合国占領軍は、その目的達成後、そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるに置いては、直ちに日本より撤退するものとする」と、皇室の存続を曖昧にした表現に修正した。そして宣言は、トルーマン、チャーチルおよび土壇場でスターリンに代わった蒋介石の連名で45年7月26日に発せられた。

 歴史にイフはないが二つ言う。
一つ目。もしもローズベルトが45年4月12日に脳卒中で倒れずに残り3年の任期を全うしていたら原爆が使われることはなかったであろう。確かにローズベルトは、母方のデラノ家が中国相手のアヘン貿易で財を成した親中派であったし、親類筋のセオドア・ローズベルトが日露戦争直後に立てた対日政策:オレンジ計画(41年にレインボー計画5に改定)を継承、推進し、また開戦前年からは原爆開発に着手した。しかしそれを使うことに関しては、トルーマンが憑かれたような複雑で屈曲した精神状態には、ローズベルトは陥りようがない。

二つ目。もしもトルーマンがステティニアスの後任の国務長官に、バーンズではなくグルーを昇格させていたらどうであったろうか。この場合も、45年3月下旬に始まる沖縄戦の前は難しいとしてもその直後か、少なくとも原爆が使用される前、恐らくは原爆が完成する前に日本の降伏が実現していた可能性が高い。二つのイフが重なれば更にその時期は早まったはずである。そうなれば広島、長崎の惨禍も起きなかっただろうし、日ソ不可侵条約を破って満州や樺太や千島列島に殺到するソ連軍の蹂躙を日本が受けることもなかったであろう。

- ジョセフ・グルー -

 そのグルーについて少し触れよう。ジョセフ・グルーは、1880年5月にボストンの名士の家庭に生まれ、ローズベルトより二年早い1902年にハーバード大学を出て、外交官試験に合格し国務省に勤務した。グルー家もローズベルトの母方同様に中国との貿易に従事した名門であった。グルーはトルコ大使を経て32年に駐日特命全権大使として来日、日米開戦によって42年6月に駐米大使野村吉三郎や駐米特命全権大使来栖三郎らとの戦時交換で帰国するまでの10年間在職した。夫人のアリスは黒船のマシュー・ペリー提督の兄、オリヴァーの曾孫で、彼女も慶応大学で英文学を教えていた父トマス・ペリーに同行して来日し、3年間日本で過ごしことがあった。

一級の昭和史史料でもある「滞日十年」なる日記を、グルーは1944年5月に上梓した。着任早々の天皇への謁見に始まり、二・二六事件や盧溝橋事件から日米交渉決裂を経て日米開戦に至る10年間に日本の多くの人々と交際し、知日派として日米関係の悪化を食い止めるべく奔走した日々を、グルーはそこに克明に記した。このタイミングでの同書の出版は、その時期からも、また記述内容を考量して日記全体の約1割に限っていることからも、ソフトピース派が主流を占めつつあった当時の米国政府内の意向を反映して、親中反日傾向が顕著な米国国民を対日融和に向かわせることを企図したものであった。

城山三郎は33年から36年まで外務大臣を務めた廣田弘毅を描いた「落日燃ゆ」の中で、グルーの「滞在十年」から引いて、廣田が34年2月にソ連からの東支鉄道買収交渉を再開した件について次のように書いている。

「ソ連を説得するだけでなく、国内のこうした勢力をなだめながら、とにかく交渉をまとめて行こうというのである。荷の重い、そして根気の要る仕事であった。廣田はその役割に耐え黙々と努力し続けた。こうした廣田の姿についてグルーは友人宛に次のような手紙に書いた。『この数カ月間、廣田は絶え間なく、また私の見るところでは真摯に、中国、ソ連、英国及び合衆国と取引する友好的な基礎を建設することに努めました。彼の打った手は、新聞の反国主義の調子が即座に穏やかになったことや、日ソ間の諸懸案を一つ一つ解決しようという努力が再び取り上げられたことに現れ、また廣田と私との会談で、日米関係を改善に導く何らかの可能的通路を見出そうとする熱心さを見せたことによって、強調されました。廣田が本心からの自由主義者で、小村、加藤以来の名外相だと考える人もいました。』」

 グルーと廣田に関するエピソードは竹山道雄の「昭和の精神史」にも出て来る。この裁判の判事の一人で、廣田ら数名の無罪判決を書いたオランダ代表のベルト・レーリンクは、偶さか休日に訪れた鎌倉の海岸で竹山と出会い、親交を深める。職業法律家として、竹山の話の聞き役になることが多かったレーリンクが次にように述べた、と竹山は書く。

「判決の後に、氏は沈痛な面持ちで『グルーが廣田のために最高司令官に電報をうってきた』と話してくれ、『自分は出来るだけのことをしたが….』と言っていた。帰国の前に氏は、その少数意見を私にも一部くれた。この意見書の中には、私が氏に向って言った言葉が二つ入っている。それは、『彼(廣田)は魔法使いの弟子であった。自分が呼び出した霊共の力を抑えることが出来なくなったのである』また『もし外交官が戦時内閣に入ればそれは戦犯の連累であるという原則がうちたてられたなら、今後おこりうる戦争の際に、戦争終結のためにはたらく外交官はいなくなるだろう』というのである。判決は私にははなはだしい不当と感ぜられた。しかし、何分にも歴史の真相を知っているという自信はないのだから、黙っているほかはなかった」。

- 無条件降伏ではなかった -

 そのグルーが草稿作成の一端を担ったポツダム宣言の受諾について、筆者が“無条件降伏”ではなかったと考えていることは、宣言の作成過程、発表過程、そして受入れ過程を検証して先述した。ここで念を入れて前掲の宣言条文からも検証すれば、第五条に、「われらの条件は左のごとし」として、第六条から十三条までの「降伏条件」が示されており、また第十三条には「われらは日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し」とある。つまり、“軍隊こそ無条件降伏”したのであるものの、日本国は宣言に謳われた条件を受け入れての“条件付き降伏”をしたのである。

パル判事も判決文で「無条件降伏」を次のように否定している。「本官はここで、(ポツダム宣言の)降伏要求の条件並びに最後の降伏条件に関する限り、それらの条件の中には、日本国又は日本国民に関する絶対的主権を、戦勝国家乃至は最高司令官に付与するものは全然ないということを指摘すれば十分である。更にこれらの諸条件の中には、明示的にもまた必要な黙示を以ってしても、戦勝諸国若しくは最高司令官に対し、日本国及び日本国民のために法律を制定し、或いは戦争犯罪に関して立法することを、許可するというようなものは存在しないのである。」難解な文章だが、要するに“日本の降伏は無条件降伏ではない”、“連合国や最高司令官に日本や日本人を裁く権利はない”と言っているのである。

 他方、ドイツの場合はどうであったか少し見てみよう。ドイツはヒトラーが45年4月30日に自殺してナチ党が倒れ、首都ベルリンは連合軍に占領された。連合軍の発したベルリン宣言前文には「ドイツの軍は陸上・海・空において完全に敗北したことで無条件に降伏し、戦争責任を負う。それによってドイツ国は無条件降伏した。ドイツには戦勝国の要求を履行し、管理できる中央政府は存在していない。米・ソ・英・仏政府はドイツ国中央政府が持っていたドイツに対する最高指揮権と権威を掌握する」とある。つまり降伏の主体であるべき国家自体が征服され、崩壊してしまったのである。

 斯くして連合軍に征服され、実質的に一旦消滅したドイツは、米国、英国、フランスおよびソ連の四カ国に分割占領されて、連合軍軍政期に入った。その後ようやく1949年になって、ソ連が占領していたボンを暫定的な首都とするドイツ連邦共和国(西ドイツ)と、米英仏が占領していたベルリンの東部地区(東ベルリン)を首都とするドイツ民主共和国(東ドイツ)とに分裂して、改めて建国された。つまり、大戦前のドイツと分裂後のドイツは国際法上、別の国と言えるのである。

 従って、ドイツの平和条約締結は、1990年のベルリンの壁崩壊による東西ドイツ統一まで待たねばならなかった。国家が消滅していた間も、東西に分裂していた間も、平和条約を結ぶことは困難だ(因みに、同じく分裂した朝鮮半島の場合、連合国は南朝鮮、すなわち韓国を唯一の政府とした)。1980年代後半からのソ連と東欧の民主化の流れに伴い、東西ドイツが再統一されることとなり、それまでドイツに対して権益を持っていた米英仏ソの4カ国と統一されるドイツとの関係を定める必要が生じた。このため東西ドイツは「ドイツ最終規定条約」を調印し、ドイツ統一政府によって批准されたのである。

 東京裁判は、そのドイツを裁いたニュルンベルグ裁判に、裁判条例のみならず、法廷の配置からシャンデリアに至るまでの何もかもが模されたのだが、連合国側の最大の誤算は、日本の戦争に“ホロコースト”が存在しなかった上に、日本に“天皇”が存在したことであろう。加えて、連合国側は、憲法と政府が機能し、四百万とも言われる軍隊が本土決戦に備えていた日本の条件付きの降伏に対して、政府が崩壊し首都を占領され、国家として降伏文書の署名すら出来なかったドイツの完全な無条件降伏を裁いたニュルンベルグドクトリンを用いようとした。連合国側は、これらのことに深く思いを致すことないまま、東京裁判を準備し進行させたのであった。

- 東京裁判 -

いよいよ東京裁判に入ろう。公判の開始から間もない1946年5月14日、弁護側から、裁判所の管轄権の否認と公判棄却に関する動議が提出され、引き続き東郷・梅津両被告担当の弁護人ブレークニーが弁論を開始したが、弁論の途中で日本語通訳が中断したまま休憩に入ってしまうという事件が起きた。日本語速記録のこの部分は「以下通訳なし」と記されているのだが、1982年8月に封切られた記録映画「東京裁判」(小林正樹監督)の実写フィルムの字幕によって、日本人は裁判から37年の時を経て、初めてブレークニーのその衝撃的な弁論の内容を知ることになる。

記録映画「東京裁判」は封切りから3年後の85年8月12日にテレビでも放映された。筆者が何故その日付を覚えているかと言えば、その日は日本航空123便が御巣鷹山に墜ちた日だからである。同僚と食事を楽しんで、家族が帰省して誰もいない大阪高槻市の社宅に戻ったのは夜9時を回っていた。テレビを点けて映し出された記録映画らしきモノクロ画面の下部に、次から次へと人名が流れている。しばらくしてそれが墜落した飛行機の乗客名であり、記録映画は「東京裁判」と知った。そんな訳でその時点ではブレークニー発言の字幕に関する印象は薄い。しかし今日では手許の講談社版DVDでもまたYou tubeに依っても、何時でも繰り返しそれを見ることが出来る。

以下がそのブレークニー発言である。
「国家の行為である戦争の個人的責任を問うことは、法律的に誤りである。なぜならば国際法は国家に対して適用されるものであって、個人に対するものではない。個人による戦争行為という新しい犯罪を、この法廷が裁くのは誤りである。戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪ではない。戦争は合法的だからであり、犯罪としての責任は問われなかった。キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪(注:訴因39)になるならば、我々は広島に原爆を投下した者の名を挙げることが出来る。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名も承知している。彼らは殺人罪を意識していたか、してはいまい。我々もそう思う。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからでなく、戦争自体が犯罪ではないからである。何の罪科で、如何なる証拠で、戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる、この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認した者がいる、その人達が裁いているのだ。」

 ブレークニーの東京裁判における発言の白眉を紹介して本稿の導入部とするため、これまで縷々、トルーマン大統領の原爆投下に関するエピソードや筆者の考える二つのイフなどを書いた。戦争裁判関係事務を処理する大臣官房臨時調査部員として東京裁判の全てを傍聴し、後に「私の見た東京裁判」を編んだ冨士信夫氏が、ローガン、ブラナンと共に、米国人弁護士中の三羽烏と称賛した中の一人ベン・ブルース・ブレークニーは、今日読み返してみても、我々日本人の溜飲が下がる数々の優れた弁論を、起訴対象期間の中でも極めて重要な段階において行っているのである。

以下に、裁判の進行に沿って、本稿の主題であるブレークニーの弁論を追ってゆくことにする。

- 裁判の概要 -

 先ず東京裁判の概要と進行及びそれらに纏わる幾つかのエピソードを示す。

◇起訴状
主として英国代表の検察官コミンズ・カーの手になる起訴状は、意図的かあるいは偶然か、天皇誕生日にあたる1946年4月29日に、A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に拘禁中の以下の被告人28名に送致された。これら被告らのうち平沼、廣田、星野、賀屋、木戸、松岡、大川、重光、白鳥、鈴木及び東郷の11名が文民、あとの17名が軍人であり、軍人のうち永野、岡及び嶋田の3人が海軍でその他の14名が陸軍であった。

起訴状が対象とした期間は、その年の6月4日に張作霖爆殺事件が起きた1928年の1月1日から降伏文書に署名した1945年9月2日までの、17年9カ月の長きにわたった。その間、日本を牛耳っていた「犯罪的軍閥」の「政策は、重大なる世界的紛議及び侵略戦争の原因たると共に平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益の大なる毀損の原因をなせり」とし、被告らは「侵略国家に依る世界の他の部分の支配と搾取との獲得及び本目的のため本件裁判所条例中に定義されたが如き平和に対する罪、戦争犯罪並びに人道に対する罪を犯し又は犯すことを奨励する」一つの共同謀議に加わったとする。

起訴状が「日本国民自身の利益」を「平和愛好諸国民の利益」と並べて述べているのは、ニュルンベルグ裁判において、ナチスの余りの蛮行に驚愕した連合国が、ドイツ国民をナチスと一般国民に分け、ナチスに罪を背負わせるために用いた論法である。最近の中国も日本との歴史問題で、“為政者と国民との分断”を狙ってしばしばこの二分法論法を用いる。だがこれに日本人、少なくとも筆者は、大いに違和感を懐く。この違和感は外国人が理解し得ない“日本人の祖型”から来るのであり、それは連綿と皇室を戴きつつ、鎌倉幕府の“一所懸命”に由来する“武士道”や明治以降の“公の精神”を育んだ日本と日本人にしか理解し得ないものである。この“日本人の祖型”が、日本人をしてそれを潔とせず、“ドイツ流の割り切った戦後処理”を行わし得ないのだ、と筆者は思うのである。

◇公判期間(1946年5月3日~1948年11月12日)
東京裁判の公判は、1945年9月2日の戦艦ミズーリにおける降伏文書調印から9カ月を経た46年5月3日に開廷し、48年11月12日に閉廷した。因みに、ドイツを裁いたニュルンベルグ裁判は45年5月8~9日のパリとベルリンでのドイツ軍降伏から6カ月後の同年11月20日に開廷し、翌46年10月1日には閉廷した。つまり、降伏から判決言い渡しまでの期間は、ニュルンベルグ裁判では1年5カ月であったのに対し、当初は6カ月間と言われていた東京裁判では、ニュルンベルグの先例をなぞったにも拘らず2年6カ月余りを要したのであった。

◇被告氏名と量刑
 被告の氏名と所属・肩書および量刑は次の通りである。死刑は、唯一の文民であった廣田弘毅を含む7被告に、それなりの敬意が払われる銃殺刑ではなくて、絞首刑として宣告された。刑の執行は当時の摂政宮(今上天皇)の誕生日にあたる1948年12月23日になされたのだが、後述する理由によりこれは偶然であった、と筆者は考える。

◆絞首刑7名:土肥原賢二(陸軍)、廣田弘毅(官僚・外相・首相)、板垣征四郎(陸軍・陸相)、木村兵太郎(陸軍)、松井石根(陸軍)、武藤章(陸軍)、東條英機(陸軍・陸相・首相)

◆終身刑16名:荒木貞夫(陸軍・文相)、橋本欽五郎(陸軍)、畑俊六(陸軍)、平沼騏一郎(官僚・首相)、星野直樹(官僚・企画院総裁)、賀屋興宣(官僚・蔵相)、木戸幸一(政治家)、小磯國昭(陸軍・首相)、南次郎(陸軍)、岡敬純(海軍)、大島浩(陸軍・駐独大使)、佐藤賢了(陸軍)、嶋田繁太郎(海軍・海相)、白鳥敏夫(官僚・駐伊大使)、鈴木貞一(陸軍・企画院総裁)、梅津美治郎(陸軍軍人)

◆禁固刑2名:7年重光葵(外交官・外相)、20年東郷茂徳(外交官・外相)

執行翌日の24日に、GHQは巣鴨に拘置されていた大川周明、岸信介、児玉誉士夫らを含むA級戦犯容疑者19名を釈放すると共に、A級戦犯裁判はこれで終了すると声明した。翌49年12月25日には服役中のBC級を含めた既決囚62名も減刑して釈放した。

終身刑を含む禁固刑を宣告された18名の被告らも、1952年4月28日に結ばれたサンフランシスコ平和条約11条に基づく、数次にわたる全会一致の国会決議と連合国11か国の同意を経て減刑され、56年までに全員が出所した。これには国民4千万の嘆願署名も後押しした。同時にこれまで刑死した者についても「公務死」扱いとなり、ようやく彼らは恩給の支給対象となったのである。

 公判の様子について、公判開始から程なく前席の東條英機の禿頭を二度ピシャリと叩くパジャマ姿の大川周明の様子が記録映画「東京裁判」に映っている。大川が脳梅毒による進行麻痺の疑いで精神鑑定を要するとして裁判を免除された経緯には、演技説や発狂説など諸説ある。日本人弁護団副団長の清瀬一郎は、その著書でまだ定説がないとし、自分の見方とは少し異なるとしつつ菅原裕(荒木担当弁護人)の著書の一説を引いた後に、大川を次のように評している。

「あれからもう二十年余である。今日の青年の中では、大川周明君の名を知らぬ者も少なくなかろう。明治十九年生まれであるから、あの裁判が始まった昭和二十一年ではちょうど六十歳であった。学校は東大文科。はじめマルクス主義や印度哲学を学んだが、後、激烈な国粋主義者、今の言葉で言うならば民族主義者となり、東印度会社以来の白人の東亜侵略を憎み、これを追放することを主張していた。」

因みに、清瀬の引いた菅原の著書の一説は次のようである。「いやしくも指導者中の指導者として敵国の軍事裁判に捕えられた以上、死刑は万が一にも免れるべくもない。この際、被告たる者の対策如何?これはまさに大正、昭和に亘る右翼理論家として、また革命指導者として自他共に許した、東亜の論客大川周明に与えられた“天の命題”であった。黙殺?論駁?脱出?黙殺は博士の熱血が許さない。論駁-そんな小児的な猿芝居のお相手は博士の理知が許さない。残るはただ脱出の一途あるのみだ。」
 
 被告28名の人選に関して、ソ連による2名の入れ替え説がある。それは児島襄がその著書「東京裁判」で書いていることだが、このネタ元は、被告の一人である重光葵が「巣鴨日記」に、裁判で被告に不利な証言を連発し“怪物”と称された元田中隆吉陸軍中将から聞いた話として記した、「ソ連の主張を入れて既にリストアップされていた阿部信行と真崎甚三郎を梅津と重光に入れ替えた」、であると思われる。日暮吉延は著書「東京裁判」でこの説を事実でないと否定しているが、梅津と重光が被告に加えられた背景に、ソ連の強い要望があったことは事実である。

― 廣田弘毅 ―

 少し長く横道に逸れる。グルーの紹介時に触れた城山三郎の「落日燃ゆ」は、この裁判で死刑になった廣田弘毅の生涯を描いている。単行本が74年に、文庫が86年にいずれも新潮社から刊行された。筆者はこの単行本をいつどこで手に入れたかを今でも鮮明に覚えている。85年8月12日の記録映画「東京裁判」のテレビ放映から程なくしてこの本のことを知った筆者は、自宅周辺や仕事で出向いた街々の本屋を、転校した初恋の人の行方を探すように片端から覘いて回った。が、見つからずに諦めかけていたその年の秋、顧客を訪問した帰りに立ち寄った某市の書店でようやく巡り会ったのである。

30年近く書棚で埃を被っていたその頁を捲ると、奥付に昭和49年1月20日刊行、昭和60年3月25日47刷とある。記憶は間違っていなかった。あと半年待てば文庫本が書店に並んだことだろう。その書き出しは、処刑翌日の横浜久保山火葬場での出来事である。占領軍は48年12月23日の夜中に処刑して、その朝直ぐに荼毘に付したのだが、後々偶像視されることを恐れて遺灰は遺族に渡さず、ドイツでの顰に倣って空中に散布された。が、その残りを捨てた穴から遺灰を掘り出した者がいた。

このエピソードは城山が清瀬の著書から引いたものに相違ない。清瀬の「秘録東京裁判」には、小磯の担当弁護人で保土ヶ谷在住の三文字正平が、24日午後クリスマスイブの隙を突いて遺灰の残り一升ほどを掘り出し、受け取りを辞退した廣田を除く6遺族にその一部を渡し、残りが、復員直後に松井石根が日中両戦没者慰霊のために熱海に建てた興亜観音に隠され、その後、昭和34年にこれも松井の郷里愛知県幡豆郡の三河湾公園の一角に設けられた「殉国七士之碑」に埋葬されたことが書かれている。

廣田は公判を通じて、傍聴席の娘二人と目を合わせる以外は終始沈黙を貫いて、罪状認否で“無罪”と発することすら拒んだのだが、城山はその理由をこう廣田に言わせている。「たとえ自衛戦にせよ、戦争を正当化できない。自分には戦争を防止し得なかった責任がある」。「私は自分からしゃべるつもりはない。しゃべれば、誰が強いことを言った、誰がこうした、などと言わざるを得ない。それでは向こう(検察側)の作戦に乗ってしまうことになる。向こうは、こちらが責任をなすりあうのを狙っているから、それには乗らないよ。」

廣田と言う人物やその生き方に城山が心底惚れ込んで書いた本だから、廣田がその外務省時代に、あるいは外相や首相の地位にあった当時に、事に臨んでの彼の周囲、それは陸軍であったり、他の閣僚であったり、上司や同僚、同期の吉田茂であったりするのだが、勢い、彼らとの考え方や立ち居振る舞いの違いを際立たせることによって廣田を持ち上げる内容にならざるを得ない。が、この城山の執筆姿勢は、皮肉なことに廣田がこの裁判に臨んだ姿勢と逆のものとなってしまったように筆者には思える。廣田以外の人物描写もその分通俗的である。城山は近衛を「スタンドプレイを好む名門中の名門の人の人柄」と書き、また木戸との関係について「近衛は親友である木戸幸一を文相として入閣させた」と書く。

そこで本題に戻る。木戸と近衛の関係について、市井の近現代史家の鳥居民は、論考「昭和史を読み解く」で、「第一次内閣で木戸を文相に据えた近衛には、木戸を引き上げたとの思いがあったが、これに反して木戸は内閣を自分が支えたと考えていた」とし、「近衛の中国撤兵努力の芽を摘んだのは、木戸の自己保身と近衛への嫉妬だった、そしてその根は二・二六事件に遡る」との趣旨のことを書いている。鳥居のこの記述の根拠は、ブレークニーの弁論とも無縁でないので、その要旨を以下に引用する。

「二・二六事件の発生時、政治家や軍幹部らの多くが処置の判断に迷う中、内大臣秘書官長だった木戸は、殺害された斉藤實内大臣に代わって湯浅倉平宮内大臣を通じて決起将校の“鎮圧”を奏上した。股肱の臣を殺された昭和天皇も同じ気持であり、自ら“反乱軍”を鎮圧するとまで激怒した。陛下の生涯二度のご聖断の一度目である。これによって事件は俄かに終息に向かい、決起将校に同情的であった陸軍皇道派の真崎甚三郎や小畑敏四郎らは退役させられ、代わって杉山元や梅津美治郎ら統制派が主流となったのだった。この統制派が後に中国での軍事行動を拡大したである」。

そこで鳥居はこう推理する。「(終戦のために)近衛らの主張を入れて中国から撤兵することになれば、それは二・二六事件以来陸軍の主流となって中国での拡大政策を進めてきた陸軍統制派の路線を否定することを意味する。そうなると陸軍皇道派が復権することになり、その時は二・二六事件で皇道派の処分に強く関わった自分も身を引かざるを得なくなる、と木戸は考えた。ここに木戸の自己保身と近衛へのルサンチマンがある」と。加えて鳥居は、木戸はもう一つ日米開戦回避の機会を潰しているとし、次のように書く。

「開戦を決めた昭和16年12月1日の御前会議前日、海軍軍令部中佐高松宮は、天皇に拝謁して海軍の本心は日米開戦の回避にあると言上した。天皇は大いに驚き、木戸内大臣を呼んで相談する。木戸は日記に『直に海軍大臣、軍令部総長をお召しになり、海軍の直の腹をお確かめ相成りたく・・』と申し上げたと書いている。これほど的外れな助言はない。海軍大臣軍や令部総長は自ら開戦回避を言い出せない状況に追い詰められているからこそ、皇弟に直言してもらうという非常手段に訴えたのである。木戸はそれに気づかぬふりをしたのである」。因みに「木戸日記」だが、木戸はGHQにその存在を自発的に申し出ている。

木戸に触れたからには、天皇がなぜ被告とならなかったのかについて触れねばならないが、それはポツダム宣言の項で書いた8月10日から14日に至る日米間のやり取りにある通りである。すなわち、米国は当初のグルー原案の第12項から“国体護持”に関する文言を一旦は削除したものの、日本側の「その宣言が統治者としての天皇陛下の大権を損なういかなる要求も含んでいないと了解して、受け入れる用意がある」との受け入れ条件を認めたのである。ソ連の参戦前に早期に日本を降伏させたかったこと、および皇室を存続させることによって占領政策が困難に陥ることを避けるためであった。マイニアの著書にそのことを示唆する次のような記述がある。

「キーナン主席検察官は検察側の委員会に対して、『天皇は起訴されない』と報告した。英国の参与検察官は『それは決定ですか、それとも提案ですか』と鸚鵡返しに訊ねたが、キーナンは『この政策は決定済です。ここでは同意を求めるだけです』と答えた。英国の参与検察官は『こんなやり方にはついてゆけません』と言い返した。だがキーナンは激しく逆襲した。『占領政策を支障なく進めることは、連合国の利益に適っています。これは連合国最高司令官の意思でもあります。もしあなた方が最高司令官の政策に同意できないようでしたら、即刻荷物をまとめてご帰国下さって結構です。』」

粟屋憲太郎も「東京裁判への道」の中で、自ら発掘した機密文書の中から次のような事実を明らかにしている(一部内容を捨象している)。「1945年8月12日、早くも豪州政府は英連邦局に次のような緊急電報を発した。『天皇の有罪性及び裁判は、連合国当局により決定されるべきと考える。この問題を英国政府が確認されることを望む。….日本の侵略行為と戦争の諸々の罪に対して、天皇は責任を取るべきである。』これに対し英国政府は次のような文書を送った。『(豪が発した)文章は、天皇の取り扱いに関して偏見を持つものではない。この問題は連合軍によって考慮されるべきことがらである。しかしながら天皇を戦争犯罪者として告発することは政治的誤りだと我々は考える。日本国民を支配するために、天皇の玉座を利用することによって、人的資源及び他の諸々の資源におけるコミットメントを節約したいと我々は望んでいる。』

◇訴因
1.平和に対する罪、2.殺人、3.通例の戦争犯罪及び人道に対する罪、という3分類に、結局納まったのであるが、連合国側が当初想定した訴因は、ニュルンベルグ裁判の基本法で作られたものと同様の、A.平和に対する罪、B.通例の戦争犯罪、C.人道に対する罪、の3分類(下表参照)であった。ところで、これらはあくまで“分類”であるので、ABCは罪の軽重を意味するものではなく、イロハと同じような単なる符丁に過ぎない。もし“級”ではなくて、“類”とか“種”とかいう呼称であったなら、後々要らぬ誤解を招かずに済んだことであろう、と筆者は思う。

東京裁判は、「平和に対する罪」を十分条件とはせず、必要条件としてそれを犯した被告を裁くためのものであったことから、この裁判の被告が“A級”戦犯と呼ばれるのである。これに対して、東南アジア各国で行われたBC級裁判は「通例の戦争犯罪」と「人道に対する罪」を裁くものであった。ところで、A級戦犯と言う呼称であるが、これは少なくとも裁判中は、検察官と裁判官、すなわち連合国側だけがもっぱら使ったものであり、弁護側は一切使わなかった。

<ニュルンベルグ裁判の基本法で作られた訴因>

<ニュルンベルグ裁判の基本法で作られた訴因>
A.平和に対する罪・・・侵略戦争又は国際条約、協定、制約に違反する戦争の計画、準備、開始、遂行もしくは上記諸行為のいずれかを達成するための共通の計画又は共同謀議への参加。

B.通例の戦争犯罪・・・戦争の法規又は慣例の違反。この違反は以下のものを含むが、これに限定されるものではない。占領地所属ないし占領地内の一般住民の殺害、虐待、又は奴隷労働その他の目的を以てする強制移送、捕虜ないし海上にある者の殺害、虐待、又は人質の殺害、公共財産の略奪、都市町村の恣意的な破壊又は軍事的必要によって正当化されない破壊。

C.人道に対する罪・・・戦前又は戦中に全ての一般住民に対して行われた殺人、殲滅、奴隷化、強制移送、及びその他の非人道的行為、もしくは犯行地の国内法違反であると否とに関わらず、本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として、又はこれに関連して行われた政治的、人種的、宗教的理由に基づく迫害行為。

上記犯罪のいずれかを行おうとする共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に参加した指導者、組織者、教唆者、共犯者は、何人によって行われたかを問わず、その計画の遂行上なされた全ての行為につき責任を有する。

 最終的に東京裁判における訴因は、連合国側の意図に反して「平和に対する罪」、「殺人」及び「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」という、ニュルンベルグ裁判と異なる3つの訴因分類になったのだが、ここに東京裁判を、その政治的思惑から是が非でもニュルンベルグドクトリンで行おうと目論んだ戦勝各国の、日本と日本人および天皇に対する無知振り、誤解振りが垣間見える。日暮は、東京裁判におけるこの訴因形成過程について、次のように第一から第四に分けて述べている。( )の補足は筆者。

「第一に『平和に対する罪』の共同謀議は五つに分割された。その理由は弁護側が『広範すぎる』と抗弁する可能性に対処するためである。田中義一から鈴木貫太郎まで十七の内閣があり・・(共同謀議の立証には無理がある)。(訴因原案を起草した)コミンズ・カー自身は、『平和に対する罪』が事後法ではないかと疑念を抱いていた(パルは勿論のこと、裁判長のウエッブすら事後法との懸念を持っていた)。」

「第二に『通例の戦争犯罪』で東京の指導者にも残虐行為の責任を問う。その背景には(各検察官の)自国の世論を満足させるための関係諸国の主張、また『平和に対する罪』に付き纏う立証の困難さや事後法の疑い、などがあった。(略)『通例の戦争犯罪』は死刑の正当化に不可欠であった。」

「第三に、『殺人』という東京裁判独自の訴因が新設された。(略)実はマッカーサーが、東條内閣閣僚の『殺人』裁判構想を却下されても、『殺人に等しい』真珠湾攻撃を追及する独立訴因を入れるよう検察側に要望したのである。その結果、中国などにも適用する形で『殺人』訴因が追加された(しかし結局、判決でこの訴因が適用された被告は一人もいなかった)。」

「第四に、『人道に対する罪』はそれ単独での存在価値がなくなり、『殺人』と『通例の戦争犯罪』の補強手段とされた。(略)なぜ『人道に対する罪』が残されたかといえば、連合国がニュルンベルグと東京の両裁判に『統一性』を求めた手前削除できなかったためであり、また法的根拠のない『殺人』訴因の後ろ盾に使うためだった(このため判決で7被告全員にこの訴因が当て嵌められた)。」

先表の定義を読めば判るように、(C)「人道に対する罪」は、そもそもナチスのホロコーストを裁くためのものであった。ホロコーストの特異性は“ナチスが自国民(占領地を含む)であるユダヤ人や障碍者らの殲滅のために戦前から行ってきた行為”であったところに在る。これはどう考えても戦争に勝つための過程で行われる「戦争犯罪」とは次元の異なるもので、日本の戦争に当て嵌めることはそもそも無理であった。連合国側が「人道に対する罪」を「通例の戦争犯罪」とセットにせざるを得なかったことは、東京裁判の訴因形成過程で既にそれが判っていたことの証左であろう。

こうして出来上がった訴因は、3つの大分類と6つの中分類の合計55項目から成る膨大なものとなった。その概要は以下の通りである。しかしながら、さまざまな思惑に配慮して折角入れ込んだ「殺人」に関する第37~第52項の全てと、「平和に対する罪」の第2~第26項を含む合計45項目の訴因は、最終的にはいずれも判決理由にならなかった。

平和に関する罪
戦争に関する共同謀議 1~5項
(1. 侵略戦争の全般的共同謀議)
戦争の計画準備 6~17項
戦争の開始 18~26項
戦争の遂行 27~36項
(27. 満州事変の対中戦争遂行)
(29. 対米戦争遂行)
(31. 対英連邦戦争遂行)
(32. 対蘭戦争遂行)
(33. 対仏戦争遂行)
(35. 張鼓峰事件の対ソ戦争遂行)
(36. ノモンハン事件の対ソ及び対モンゴル戦争遂行)
殺人
宣戦布告前の攻撃による殺人 37~43項
俘虜及び一般人の殺害 44~52項
通例の戦争犯罪及び人道に対する罪 53~55項
(54. 交戦法違反)
(55. 交戦法違反行為防止義務の不履行)

 死刑判決を受けた7名の訴因は下記のようである。7~8項目の訴因に基づく者が多い中、裁判官11人中6対5の一票差で死刑となった廣田の訴因が3項目であったのは異彩を放つ。が、松井岩根が「通例の戦争犯罪」の第55項「交戦法違反行為防止義務の不履行」の1項目だけで死刑となったのは更に異様である。そもそもそれが“A級たる証”なのだから、被告は全員「平和に対する罪」を犯していなければならなかったのに、松井は南京事件での“防止義務不履行”の責任のみを問われた。つまり、松井だけはA級戦犯ではなかったのである。なお判決文は南京事件を、「日本軍が占領してからの最初の六週間に・・殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万以上・・」と認定した。

<被告人と訴因>
土肥原賢二 訴因8件:1-27-29-31-32-35-36-54
廣田弘毅  訴因3件:1-27-55 
板垣征四郎 訴因8件:1-27-29-31-32-35-36-54
木村兵太郎 訴因7件:1-27-29-31-32-54-55
松井岩根  訴因1件:55
武藤章 訴因7件:1-27-29-31-32-54-55
東條英機  訴因7件:1-27-29-31-32-33-54

 日暮は著書「東京裁判」で、清瀬の廣田判決に関する見解について次のように書いている。「清瀬は著書で『廣田が閣議で南京事件対策を講じなかった(注:訴因55)というだけなら死刑を免れたはずで、廣田内閣の“国策の基準”(注:訴因1、侵略戦争の共同謀議)こそが決定的だ』と分析したが、優先順位が逆だ。侵略だけなら終身刑で済んだはずだが、南京事件時の外相として職務怠慢の責任を問われたから死刑になったのだ。判決が『木戸は閣僚(文相兼厚相)だったが、それ(注:南京事件)を防止しなかった責任を彼に負わせるには証拠が充分でない』としたのは、判事団が南京事件をいかに重視したかの証左である」。清瀬は公判を通して、明治人の気骨溢れる、今読んでも胸の詰まるような極めて優れた弁護を数々行って、筆者は大いに称賛するが、日暮の清瀬評価はどうも低いようである。

◇裁判官
11名の裁判官に依る7名の被告に対する死刑評決は、廣田が6対5で他の6名はいずれも7対4であった。死刑に賛成票を投じた裁判官は、下表に多数派と括弧書きした同じ人物である(但し、ソ連のザリヤノフはソ連国内法に死刑がないとの理由から死刑には反対した)。通常は裁判官全員の賛成を要するとされる死刑判決が、これほどの僅差でしかない評決で決まったことは、全裁判官が戦勝国のみから選任されたことと共に、東京裁判の異常さを示すものの一つであると言えよう。

清瀬弁護人は、裁判開廷直後にウエッブ裁判長の裁判官資格について異議を申し立て、忌避動議を出した。ウエッブが、戦争中に豪州の戦争犯罪委員としてニューギニアでの日本の残虐行為を調査した事実があったからである。異議は、「当裁判所の各判事は、当裁判所の各判事別々に対する異議申立は許可しないことに決定しました」として却下されたが、この決定に関する根拠は“条例”のどこにもない。

ついでに言えば、比国のハラーニョは、いわゆる「バターン死の行進」の生還者であったし、米国のクレーマー少将も、真珠湾攻撃の責任に関する法書簡を大統領に提出した人物であった。中国の梅汝璈は、シカゴ大学で学位を得ていたものの終始政治家で、東京裁判の前後を問わず中国で裁判官になったことはなかったし、ソ連のザリヤノフは、裁判の公用語である英語も日本語も理解せず、常に通訳を伴った。マイニアは、ベルナールも日本語はもとより英語も判らなかったのではないかとの説がある、と書いている。いずれもその資格が疑われる、杜撰極まりない裁判官選任であった。

米国代表        ジョン・ヒンギス(裁判長期化の予想を理由に開廷直後に辞任)
米国代表(多数派)・・・マイロン・クレーマー(少将)
英国代表(多数派)・・・サー・パトリック(スコットランド高等法院判事)
カナダ代表(多数派)・・スチュワート・マクドゥーガル(高等法院判事)
中国代表(多数派)・・・梅汝璈(国民政府議会外交委員会委員長代理)
仏国代表(少数派)・・・アンリ・ベルナール
和蘭代表(少数派)・・・ベルト・レーリンク(ユトレヒト裁判所判事・同大学教授)
ソ連代表(多数派)・・・ザリヤノフ(少将、ソ連陸大法学部長)
新西蘭代表(多数派)・・エリマー・ノースクロフト(最高法院判事)
豪州代表(多数派)・・・ウィリアム・ウエッブ(豪州連邦高等裁判所判事)
印度代表(少数派)・・・ラダ・ビノード・パル(カルカッタ大学教授・高等法院判事)
比国代表(多数派)・・・ハラニーヨ(高等法院陪席判事)

 米国は当初、降伏文書に署名した9カ国から裁判官を出す予定であったところ、“条例”を見たインドがこれに対して強い不満を表明した。このため米国務省は、“裁判がアジア諸国から差別的だと見られるのを避けることが政治的に好ましい”と判断し、インドとフィリピンの2カ国を加えたのであった。これは“条例”唯一の修正であった。斯くして裁判官が増えたことで、“当事者主義の英米法系裁判”と“職権主義の大陸法系裁判”との、裁判手続きの違いによって混乱が生じた。

 東京裁判は、米国が実質的に主催した英米法系裁判だったので、ワイマール憲法に範を置く明治憲法下の日本人弁護士や大陸法系のソ仏の裁判官・検察官らは、その手続きに不慣れであった。島田被告担当のブラナン弁護人は最終弁論で、「日本人弁護人達は共同謀議なる英語の初めて直面してその意味を確かめることに当惑した」と述べている。すなわち、大陸法系裁判では、裁判官が自ら事件糾明するのに対し、英米法系裁判では、検察官と弁護人が訴訟を主導して、裁判官はジャッジ役であり、検察側証拠は陪審員への配慮から法廷で初めて開陳され、弁護人はそれを見た後に方策を決め、異議申し立てや反対訊問を行わねばならないのであった。

また裁判官の中で、ウエッブ、クレーマー、梅、ザリヤノフ及びハラーニョの5名が、裁判官としての資格に疑義があることには触れたが、マイニアは、「裁判官に任命された人々のうち、国際法の素養のあったのは幾名か。答えは一人。インドのパル裁判官のみであった。パルは世界的な組織である『国際法協会』の会員であった。」と、クイズを出して少し茶化すように書いている。そしてそのパルだけが、被告全員の無罪判決を書いたのだが、ここでパルのエピソードを四つ紹介する。

その一。パルは欠席が多かった。病床の夫人を見舞うために何度か長期帰国したためで、欠席日数は公判466日のうち109日に及んだ。次はウエッブの53日であった。
その二。遅れて来日したパルは、他の裁判官が既に宿舎にしていた帝国ホテルのスウィートが、ウエッブがそれに気づいて要求するまで、なぜか与えらなかった。
その三。他の裁判官が日本をエンジョイする中、パルは日比谷と市ヶ谷を往復する以外は、ひたすら部屋に籠って裁判に没頭した。
その四。パルは、裁判の長期化が予想されることが判って46年10月に一度辞意を表明したが(米国のヒンギスは実際に辞めてしまった)、その理由を次のように述べている。「(東京での任務は)短期間だけと明言さましれた。私はこの理解のもと、高等法院の長期休暇が終わるまで重要案件を持ち越してもらいました。私はカルカッタの依頼人と法廷への責任を果たすため帰国せねばなりません。」これにマッカーサーが反対し、インドも留任を説得したためパルは翻意したのであった。

さて、清瀬は裁判長の忌避動議が却下されると、続けて5月16日に、この裁判所には「平和に対する罪」の管轄権がないとの動議を出し、判事団は英国代表パトリック卿の正当論とそれへの反対論で割れた。実は判事団は事前に、もし判決で少数意見が出されても公表しないことを文書で合意していたのだが、遅れて5月17日から加わったパルはこれを拒絶した。これよって少数意見が公になることが判事団に付き纏うことになった。そもそもパルもウエッブも「平和に対する罪」に否定的であった。斯様に判事団は崩壊寸前であったが、それでもパトリック卿は多数派7名をまとめて「判決起草委員会」の組織に漕ぎ着け、判決文作成が始まったのである。

判決文は英文で1,218頁にわたるが、その内訳は、「管轄に対する異議却下」15頁、「事実の認定」1,053頁、「各訴因の検討」7頁、および「個々の被告の罪状」82頁であった。清瀬は著書で「判決起草委員会なるものができ、(中略)書類を参照して作った作文が判決となったようである」と書いているが、日暮は清瀬のこの認識を「これはもちろん事実に反する」と否定している。なるほど清瀬が引いているベルナールの“記事”からは、“事実の調査”に判決起草委員会が関わったことは読み取れるが、判決文全部の作成を起草委員会が行ったとまでは読めない。またベルナール自身も少数派であって多数派メンバーではないので、清瀬と同様に起草委員会で行われたことの詳細は知らないはずであった。

清瀬の記述・・「聞いたところでは、判決起草委員会なるものができ、その委員会に裁判官は出席せず、証人調べや法廷のやり取りを一切知らない人が委員となって、起訴状やその他二、三の書類を参照して作った作文が判決となったようである。フランス代表のアンリ・ベルナール裁判官の個別陳述中に、つぎのような記事がある。『判決文中の事実の調査結果に対する箇所全部は、起草委員会によって起草され、その草案は進捗するにつれ多数と称される七判事の委員会に提出された。このコピーは他の四判事にも配布された。そしてもし必要なら草案の修正のために、この四判事は自分たちの議論の内容に鑑みて、自分たちの見解を多数判事に提出することを要求された。しかし法廷を構成する十一判事は、判決文の一部または全部を論議にために招集されたことはなかった。ただ判決文の個人の場合に属する部分だけが、口頭審理の対象になった。』」

◇検察官
 検察官らは、それぞれ自国の意向を背景にして被告の人選や訴因の形成に動いたことには既に触れた。要するに、各国検察官は本国の政策の代理人であって、起訴状作成過程とは各国の法律家の外交交渉過程だったのである。下記の検察官の他に国際検察局のスタッフが500名も居り、その中には検察官そのもののごとく法廷で振る舞った者も少なからず居たと言われる。

米国代表・・・・ジョセフ・キーナン(主席検察官)
米国代表・・・・フランク・タヴェナー
英国代表・・・・コミンズ・カー
中国代表・・・・向哲濬
仏国代表・・・・ロベル・オネト
和蘭代表・・・・ボルゲルホフ・ムルデル
ソ連代表・・・・ゴルンスキー
ソ連代表・・・・バシリエフ
新西蘭代表・・・クイリアム
豪州代表・・・・マンスフィールド
印度代表・・・・ゴビンダ・メノン
比国代表・・・・ペドロ・ロペス

◇弁護人
担当弁護人のうち下記を含む延べ26人の外国人弁護人は全員が米国人であった。米国人弁護士採用の経緯は既に述べた。日本人弁護人は担当弁護人延べ34名、補助弁護人58人の多きに上った。これら米国人弁護人に対しては、初めのうちこそ日本側も警戒心を持っていたものの、彼らが日本側弁護人に成り切って“国家弁護の方針”を理解し、熱心に仕事をするので、次第に彼らを信用するようになったという。

ローレンス・マクマナス   (荒木)
フランクリン・ウォーレン  (土肥原、松岡、岡)
E.R.ハリス       (橋本)
A.G.ラザラス        (畑)
サムエル・クライマン    (平沼)
デビッド・スミス      (廣田)
ジョージ・山岡       (廣田、東郷)
ジョージ・ウィリアムス   (星野)
フロイド・マタイス   (板垣、松井)
マイケル・レヴィン   (賀屋、鈴木)
ウィリアム・ローガン   (木戸)
ジョセフ・ハワード   (木村)
アルフレッド・ブルックス  (小磯、南、大川)
ロジャー・コール   (武藤)
ジョン・ブラナン   (永野)
オーエン・カニンガム   (大島)
ジェームズ・フリーマン   (佐藤)
ジョージ・ファーネス    (重光)
エドワード・マクダモット  (嶋田)
チャールズ・コードル   (白鳥)
ベン・ブルース・ブレークニー(東郷、梅津)
ジョージ・ブルーエット   (東条)

◇裁判の進行
 裁判の進行は凡そ以下のようであった。※印は本稿で取り上げたブレークニーの弁論が行われた段階を示す。
※開廷、罪状認否、管轄権を巡る法律論争 
検察側立証
・キーナン主席検察官の冒頭陳述
・日本の政治及び輿論の戦争への編成替えに関する立証
・満州における軍事的侵略に関する立証
・※満州国建国事情に関する立証
・中華民国の他の部分における軍事的侵略に関する立証
・南京虐殺事件に関する立証
・日独伊関係に関する立証
・日ソ関係に関する立証
・※日英米関係に関する立証
・戦争法規違反に関する立証
・被告の個人責任に関する立証
公訴棄却に関する動議
一般問題に関する弁護側立証
・清瀬弁護人の冒頭陳述
・※一般問題に関する立証
・満州及び満州国に関する立証
・※中華民国に関する立証
・※ソ連邦に関する立証
・※太平洋戦争関係に関する立証
弁護側の被告人の個人立証
検察側反駁立証
弁護側再反駁立証
検察側最終論告
・キーナン主席検察官の序論
・被告の責任に関する一般論国
・被告の責任に関する個人論国
弁護側最終弁論
・審理経過に見る論告と弁論の相違
・鵜沢弁護人の総論
・一般弁論中の事実論
・各被告の個人弁論
10.弁護側最終弁論に対する検察側回答
11.判決

ウエッブ裁判長による判決朗読は、1948年11月4日から12日までの7日間をかけて行われた。ここで朗読されたのは多数派の判決のみであり、少数意見については、弁護団の要求にも拘わらずその存在が発表されただけで、法廷での朗読は実現しなかった。これはパル来日前に、判事団が少数派の存在は公表しないことを申しわせていた、と先に触れたことによる。なおこの判決には、マッカーサーに対して「刑の変更権」が「再審査」として付与されていたものの、実質的には“上訴審のない確定判決”であった。弁護団はこの「刑の変更権」に基づいて、11月19日、マッカーサーに死刑7人全員の「再審査」を請求したが却下されている。

パルの判決文が英文で1,235頁にわたることは冒頭に書いた。これに対して多数派7名による判決文は既述の通り1,218頁で、この朗読に実に7日間を要したのである。多数派の中の比国代表ハラーニョはわざわざ35頁の「同意意見」を書き、「パルを非難」すると共に一部被告の「刑罰が寛大過ぎる」こと、「原爆投下が終戦を早めた」こと、などを主張して米国に追従した。パル以外の少数派では、蘭国レーリンクが249頁、仏国ベルナールが23頁の反対意見を書いた。ウエッブ裁判長も21頁の個別意見を書き、天皇の不起訴には同意しつつ、その責任を踏まえて被告を減刑すべき、と極めて微妙な主張を行ったのであった。

「日本無罪論」として人口に膾炙するパル判決文の趣旨を見てみよう。パルがA級被告全員を無罪にしたのは、“戦勝国のこの裁判所は「通例の戦争犯罪」の管轄権を持つに止まり、事後的に「平和に対する罪」を制定する権限がない”、加えて“「侵略」は定義し難い概念であり、「人道」についても原爆を投下した米国にそれを語る資格はない”、との理由からであった。「通例の戦争犯罪」については、“日本軍の残虐行為の証拠は否定し難い”が、それらは検察側が主張した「政府の政策」でも「閣僚が命令や許可」したものではないとした。後年、マイニアがその著書で書いた次の一文が、パル判決を理解する上で大いなる助けになる。曰く「パルは、被告の行為が『不正ではなかった』のではなく、『違法でなかった』と論じたのである。」

刑の執行は11月12日の判決からひと月以上経過した12月23日になされた。その間には弁護側から19日に出されたマッカーサーへの再審査請求が却下された件があったが、実はこの他にも、ウエッブの逆鱗に触れて法廷から除外され帰国したスミス弁護人が米国で動いた一件が刑執行を遅らせた原因となっていた。スミスは裁判終了後に、米国連邦裁判所に東京裁判の米国憲法違反を訴え、被告らを人身保護法によって救済せよ、と願い出たのであった。「裁判を支配したマッカーサー最高司令官は、合衆国の指揮命令下に入るにも拘らず、米国の立法や司法の手続きを取らずに裁判所条例を設け、新しい犯罪を規定して刑を宣告した」との理由であった。

この訴願が米国連邦裁判所に受理されて審査に入ったため、マッカーサーは刑の執行を延期せざるを得なくなったのである。結局、訴願は却下されてその通知が12月21日に届いた。「連合国による裁判に対して米国の最高裁は審査権限がない」という、予想された却下理由であった。処刑はこの通知から2日後の23日になされたのであり、偶さかその日が摂政宮の誕生日であったに過ぎないのである。ところで、この訴願には、裁判当初から死を甘受するつもりでいた廣田だけは加わらなかった。廣田の覚悟を示す格好のエピソードなのだが、城山は「落日燃ゆ」で触れていない。恐らくこのことを知らなかったのではあるまいか。

- ブレークニーは何を弁じたか -

 それではブレークニーの弁論を公判の段階ごとに追ってゆくこととする。

◇1946年5月3~17日(裁判官忌避申立及び裁判管轄権に対する異議申立)
 5月3日の開廷後、弁護人から“裁判所の管轄権否認と控訴棄却に関する動議”が出される中、14日のブレークニーの弁論が、途中から日本語に通訳されなくなったことは先に述べた。弁護側からの一連の動議に対して検察側が異議を申し立てたことについて、ブレークニーは再反駁弁論に立ち「検察側の異議申し立ては、勝った方の殺人は合法的であり、負けた方の殺人は非合法的であるという議論のように思える」と述べた。

 この日、弁論のこの部分だけは通訳されたが、その後のコミンズ・カー検察官の反駁弁論や裁判長の発言も通訳がなく、英語のやり取りだけがイヤホンを通じて流れたと言う。冨士信夫氏は著書で「なぜこの日に限って通訳が途切れたのか。英語の速記録を読めばやり取りを理解できたであろうが、日本語の通訳文はついに配布されなかった。私がその内容を知ったのは36年後の記録映画によってであった」と書いている。果たしてそれは、先に述べた原爆投下に関しての発言だったのである。

 原爆投下についてパル判事は、その判決文においてニューヨークトリビューンの科学記者ジョン・オニールの言説を引いて次のように書いている。
「第二次世界大戦において、原子爆弾はその敵国の都市破壊よりも、より完全に、利己的な国家主義並びに孤立主義の最後の防御を破壊したと言われている。これによって一つの時代が終わりを告げ、次の時代-すなわち新しい、そして予測のできない精神時代が始まったと信ぜられている。オニール記者曰く『広島に落下した原子爆弾は一瞬にして我々の伝統的は経済的、政治的、軍事的諸価値を一変した。それは戦争技術の革命を惹き起こし、我々をして全ての国際問題を即刻考え直さずにはいられないようにしたのである』。

「それらの爆破によって『すべての人間が単に国内問題だけでなく、全世界の問題にも利害関係を持つということ』を人類は痛感させられたであろう。恐らくこれらの爆発物は我々の胸中に、全人類は一体であるという感じ-すなわち、『我々は人類として一体をなすものであって、これらの爆発の悪魔のような熱のうちに、完全に溶解され化合した絆によって、我々全ての人類は、人種、信仰ないし皮膚の色の如何を問わず結び付けられているのである』という感じを目覚めさせたであろう。」

「本官自身としては、原子爆弾を使用した人間が、それを正当化しようとして使った言葉の中に、斯様な広い人道観を見出すことはできない。事実、第一次世界大戦中、戦争遂行にあたって自ら指令した残忍な方法を正当化するために、ドイツ皇帝が述べたと言われている言葉と、第二次大戦後これらの非人道的な爆撃を正当化するために、現在唱えられている言葉との間には、さして差異があるとは本官は考えられないのである。」

ドイツ皇帝が指令した「残忍な方法」とは「毒ガス」を指し、「述べた言葉」とはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフへの書簡の次の記述を指す。「老若男女を問わず殺戮し、一本の木でも一軒の家でも立っていることを許してはならない。フランス人のような堕落した国民に影響を及ぼし得るただ一つの斯様な暴虐を以ってすれば、戦争は二ヵ月で終焉するであろう」。ウィルヘルム二世は1900年に北清事変に向かう将兵もこう叱咤激励した。「汝らは、我らが受けた非道に対して報復せよ。心に銘記せよ、敵を容赦するな、一人とて捕虜とはせずに汝らの武器を振るえ。ドイツ皇帝の鉄拳を示してやれ」。

さて、トルーマン‘偶然’大統領は、既述のようにローズベルトから原爆開発はおろか大統領執務に関わる機微をもほとんど知らされていなかった。このため戦争遂行に関しても須らくローズベルトの敷いた路線を走らざるを得なかったのだが、唯一の例外が“原爆使用の決断”であった。そこで、政府や軍の多くが反対する中、これを使用することによって自らの存在意義を示そうとしたに違いない。それは人体実験だったともいわれる。事実、投下先の選定や進駐直後からの現地調査における周到さはそのことを物語る。が、その存在を知ったばかりのトルーマンにそこまでの認識があり、かつその様に指示したとは到底思われない。

この“決断”を正当化するため、トルーマンは戦後スティムソンに、原爆使用の正当性を主張するための論文を書かせた。その要旨は「原爆投下は戦争の終結を早めて日本への上陸を無用にし、百万とも予想された米兵の命を救った」というものであった。米国はペリュリュー島や硫黄島、そして沖縄での結果を基に、九州と関東への上陸作戦での米軍の死者を想定したが、南九州上陸の被害見積もりは6万程度に過ぎなかった。だがその数は広島・長崎の犠牲者数を上回る必要があったので、スティムソンは何度も書き直さねばならなかった。加えて、20億ドルともいわれる膨大な予算と資源を使ったマンハッタン計画が、議会承認を得ていない極秘計画であったが故に“効果的に使う”ことによってしか表に出せないという国内事情もあったことは先述した通りである。

◇1946年8月16日~8月27日(満洲及び満洲国に関する検察側立証)
 満洲国の先帝溥儀は、キーナン検事の先導に従って、満洲国を当時支配したのは本庄繁関東軍司令官とその幕僚たちであり、自分その幕僚中で最も勢力のあった板垣に脅されて執政に就いたという我が身の悲哀をヒステリックに主張した。何かというと、脅かされた、怖かったと繰り返す溥儀に、裁判長も堪りかね、「こういうことを言うのは嫌だが、生命に対する危険、死の恐怖は、戦場における卑怯な行為や戦線離脱の口実にはなり得ない。我々は証人から、彼がなぜ日本軍と協力したか、その言い訳を聞かされたが、これ以上聞く必要がないと思う」と口を挟むほどであった。

 ブレークニーは、終始一貫、自らが日本の強制の下で全く自由意思にない傀儡政権であったことを主張する溥儀に対し、昭和6年9月以降、南次郎陸相宛に出したとされる、溥儀が復辟(復位)を受諾する意思がある旨を認めた親書に関して、次のような反対尋問を行って、溥儀の証人としての適格性を強烈に突いた。その手紙を見るなり、溥儀は顔色を変え証人席を立ち上ると、「お願いです」と悲鳴に似た叫び声をあげた。「お座りなさい」と注意する裁判長に、溥儀は中腰になって合掌しながら、「閣下、これは偽造です。いや、それだけでなく・・」と叫んだ。それに続く質問が下記のやり取りである。
 
ウエッブ裁判長:証人はこの手紙を書いたか、書かなかったか、ここではっきり申しなさい。
溥儀:私が書いたのではありませぬ。同時に、彼等はこの偽造したという罪を負うべきであると思います。
 ブレークニー:あなたは私に返事する前に、この手紙をお読みに見なりましたか。
 溥:もちろん読みました。そうしてこれは全く偽造のものに間違いありませぬ。
 ブ:あなたは宣統帝の御璽を確認いたしますか。
 溥:いいえ違います。全く私のではありませぬ。
 ブ:それではこう諒解して宜しいですか。この文書にあります皇帝の御印は、皇帝の御印でないという具合に・・
 溥:違います。存じませぬ。全く私の造ったものではありませぬ。
 ブ:あなたはその文書が書かれた筆跡を確認することができますか。
 溥:私が書いたものではありませぬ。全く偽造であります。
 ブ:あなたはその文書が誰によって書かれたか、その筆跡を確認することができますか。
 溥:私が書いたものではありませぬ。全く偽造であります。もう何回もお答えしている通りであります。
 ブ:法廷にお願いいたします。どうぞ証人がその質問に対して答えるようお取り計らい下さい。
 ウ:証人に一寸聞きますが、あなたは誰かにこれを書かせましたか。また書く許可を与えましたか。
 溥:全然そういうことはございませぬ。
 ブ:それではその文書の下の左側にあります署名をあなたは確認することができますか。それは誰によって書かれましたか。
 溥:鄭孝胥と書いてありますが、しかし私は全然存じませぬ。
 ブ:あなたは鄭の筆跡はよくご存じですか。
 溥:鄭孝胥の筆跡は非常に真似て書かれたものが沢山あります。
 ブ:それではあなたの解釈によりますと、これは鄭孝胥の筆跡であるや否や、ここで述べて下さい。
 溥:私が申し上げたように、これは完全に偽造で、鄭孝胥の書いたものではありませぬ。

鄭孝胥は皇帝溥儀の国務総理である。その鄭が溥儀の真筆であることを裏書きした親書を、休廷明けの午後の法廷で突き付けたのである。児島襄は「東京裁判」でその時の法廷の様子を次のように活写している。「溥儀の容貌は一変していた。額と頬には皺が刻まれ、眼鏡の奥の双眼は血走り、唇は小刻みに震え、突然に十歳以上老けたように見えた。ざわついていた法廷は瞬時に静まり返り、二十四人の被告も、五百人の席を埋める傍聴人も、十一人判事も、法廷執行官バンミーター大尉も、被告席の背後に立つ憲兵も、いや、記者、カメラマンも、ブレークニー少佐さえも、異様に取り乱した溥儀の姿に、しばし目を見張り、息を飲んだ」。

ついでに本件に関するエピソードを三つほど記しておきたい。何れも家庭教師として長く溥儀そばに仕えたレジナルド・ジョンストンに纏わるものである。①南次郎被告を担当する塩原弁護人は、ジョンストンの書いた「紫禁城の黄昏」を神田の古書店で求め、他の資料と合わせてブレークニーに提供した。②件の親書が筆跡鑑定に付されるにあたり、溥儀がジョンストンに与えた自筆の詩文が書かれた扇の文字が対照に使われた。鑑定結果は、中国側鑑定人が偽筆、日本側鑑定人が真筆、と割れた。③「紫禁城の黄昏」は東京裁判に弁護側証拠として提出されたものの不採用となった。後年、このことを嘆いた渡部昇一氏は、岩波文庫版で「主観的な色彩の強い前史的な部分」として訳出されなかった箇所こそ重要として、自ら監修して祥伝社から「完訳版」を出した。

◇1946年9月30日~47年1月17日(太平洋戦争段階検察側立証)
 日本からの最後の対米覚書(いわゆる最後通牒)が、在ワシントン日本大使館の不手際から暗号電信の英訳タイプに手間取り、真珠湾攻撃の開始に遅れて米国側に手交されたことが、「Remember Perl Haber」の合言葉となって、米国民の戦意を掻き立て、一致団結させたことは良く知られている。また米国が1940年代初め頃には日本の暗号電信の解読に成功して、通信傍受を開始し、大戦中を通してこれらをことごとく解読していたことも周知の事実である。

 他方、1930年代後半からローズベルトは、蒋介石からは、その夫人で米国留学経験のある宋美齢を通じて日中戦争への直接介入を、欧州大戦勃発後のチャーチルからはドイツへの参戦を、再三要請されていた。しかしローズベルトは、自身がモンロー宣言以来の米国の“孤立主義”に基づく戦争への不介入を宣言して大統領選に勝利した経緯から、侵略行為を非難する“隔離演説”に見られるように侵略者の特定は行わず、また英中へも武器貸与法に基づく物資援助という間接的な支援を行うに止めざるを得なかった。つまりローズベルトは直接参戦への口実を必要としており、このために日本の在米資産凍結や石油・鉄屑禁輸などを行う一方で、通信傍受によって日本の出方を知悉しつつ日米交渉を継続し、日本をして開戦に誘導したのであった。

 そこで1941年4月16日の「日米諒解案」によって始まり、11月26日の「ハルノート」の送達まで行われた、“日米交渉”の経緯を時系列的に追ってみよう。

4月16日  「日米諒解案」とは、陸軍省から派遣された岩畔元軍治課長と米側のドラウト神父らが纏めた案で、疎遠になっている日米による議論の開始や日米首脳のホノルル会談、米国による満洲承認などが提案されている。が、ここにはその後も米側が終始曲げなかったハル4原則、すなわち、中国の領土保全と主権尊重、内政不干渉、機会均等、そして太平洋の現状維持、が盛り込まれていた
5月12日  松岡案の提示。松岡案の趣旨は、支那事変解決に関する米国の協力、米国による三国同盟の承認、米国による日本のドイツとの協調行動への理解、などであった
6月21 日 米国の回答は、米国の欧州への関与は自衛のためであり、日本は三国同盟を欧州に適用すべきでない、南方及び太平洋の課題は平和的に解決されるべき、など基本的態度を維持した(翌22日に独ソ戦勃発)
7月25日  日本は7月2日の御前会議で“対英米決戦辞せず”、“南部仏印進駐決定”などを骨子とする「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を決め、23日に米国に伝達した。米国は“日米交渉を無用とするもの”と警告した後、25日に在米日本資産を凍結した
7月28日  日本は南部仏印進駐を開始
8月01日  米国の対日石油の全面禁輸
8月07日  近衛首相による日米首脳会談提案。ローズベルトから野村大使に前向きの回答あるもハルは否定的であった
8月26日  近衛からローズベルトに首脳会談の必要性を説くメッセージを送付
9月03日  米国から首脳会談前の予備会談実施の提案があったものの、米国中枢にはホーベックらの親中派が多くいたため、実質的な拒否回答であった
9月06日  「帝国国策遂行要領」決定の御前会議。「帝国は自存自衛を完うするために、対米英戦争を辞せざる決意の下に、おおむね十月下旬を目途として戦争準備を完整す」との内容
9月27日  日本側から日米首脳会談を督促
10月02日 米国側から事実上の首脳会談拒否回答
10月18日 東條内閣成立。天皇は東條に対し「9月6日の御前会議を白紙還元しても良いので、日米交渉を平和的に解決するように」と御諚。東條は天皇の意向を日米交渉に反映
11月05日 "「帝国国策遂行要領」決定の御前会議。「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設するため、この際、対米英蘭戦争を決意して次の措置を採る」
1武力発動の時期を十二月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完整す 
2対米交渉は別紙の要領(次に述べる甲案及び乙案)によりこれを行う"
11月07日 日本側から甲案提示
11月20日 日本側から乙案提示
11月26日 米国側からハルノート提示

 
日本側は11月5日の御前会議において、最終案ともいうべき「帝国国策遂行要項甲乙二案」を裁決し、野村大使に交渉要領を注書きして訓電した。ところが米国側が傍受したこれらの電信が誤った内容で翻訳されていたのだった。ブレークニーは、米国側のこの傍受電信の誤訳について、「この両者(原文と傍受訳文)を比較して一読すれば、国務省が読んだ電文を書いた無謀にして冒険的な賭博者と、その大使に慎重訓令した真面目な責任ある政治家の区別がつくであろう」と述べた。

 検察側が提示した傍受文英訳の誤った邦訳文と、ブレークニーが比較のため示した日本側原文との相違例は次のようである。(下線は筆者)
・甲案前文における日本の駐兵期間に関するもの。
原文・・本案は修正せる最終的譲歩案にして左記の通り緩和せるものなり。(註)所要期間について米国より質問ありたる場合は、概ね二十五年を目途とする旨を応酬するものとす。米側が不確定期間の駐兵に強く反対するに鑑み、駐兵地域と期間を示し、以ってその疑惑を説かんとするものなり。この際はあくまで「所要期間」なる抽象的字句により折衝せられ、無期限駐兵にあらざる旨を印象づくるように努力相成たし。
米国誤訳・・本案は修正せる最後通牒なり。左記の通り我が方の要求を加減した。(註)適当期間につき米側より質問ありたる場合は、漠然とかかる期間は二十五年に亘るものと答えられたし。米側が不確定地域への我が駐兵に強く反対しおるに鑑み、我が方の目的は占領地域を換え、官吏の異動をなし、以って米側の疑惑を解かんとするものなり。我が方は従来常に曖昧なる言辞を以って表し来るところ、貴官においては出来る限り不徹底にして、しかも快適な言辞を為し、これを婉曲に並べ、無期限占領にあらざる旨を印象付けるよう努力相成りたし。
・乙案におけるもの。
原文・・甲案にて妥協不可能なる際は、最後の局面打開策として乙案を提示する意向なるにより….
米国誤訳・・もし交渉妥協不可能なること明白となりたる際は、我が方は絶対的な最後の提案として乙案を提出せんとす

 日本は交渉開始後初めてこの甲乙二案で和平の成立後に、駐兵する地域を限定して、北支、蒙彊(内モンゴル中部)、海南島を除く全中国大陸及び仏印からの撤兵を約束したのである。ところがこの米国が傍受した通信文は、不幸にも著しく歪曲されて不誠実かつ敵意に満ちた訳文となった。このため日本側の真意が伝わらず、米国をして日本に誠意なしとの印象を強め、26日のハルノートに結び付いたのである。そしてハルノートの受領に至って日本は、12月1日の御前会議で「11月5日決定の帝国国策遂行要項に基づく対米交渉遂に成立するに至らず、帝国は米英蘭に対し開戦す」と決したのであった。

 パルも判決文で次のように述べて、この誤訳を難じている。
「確かに電報の起案者は、大使に訓令を送るにあたって、“いま一度交渉継続を賭す”というようなことは考えていなかったのである。彼の通信文にはそんな射幸的なものや、また何ら駆け引き的な精神はない。事態の重要性に対する彼の認識、交渉が、本当に打ち切られたままとなった場合の、自国の運命に対する彼及び閣僚全員並びに統帥部によっても同様に感じられていた深刻な憂慮の表示、その誠実さ、これらが全部傍受電文では失われているのである」。

因みに、この“電報の起案者”とは東郷外相を指すが、日米交渉の7カ月間に日本の外相は、7月16日まで第二次近衛内閣松岡洋右、7月16日から第三次近衛内閣豊田貞次郎、10月18日から東條内閣東郷重徳と3回変わっている。ついでに言えば、パルはハルノートについて、こんな通牒を受け取ったら「モナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも合衆国に対して矛を以て起ち上がったであろう」と、広く良く知られた一説を判決文で書いているが、実はこの一説は、ブレークニーが弁論の中で述べたものの引用であった。

ところで電報に関しては、41年12月7日にグルー駐日大使が、ローズベルト大統領から天皇陛下に宛てた親電を渡すべく、東郷外相に陛下への面会を求めていた一件がある。ブレークニーはこの親電の作成時期についても重要な弁論を行っている。この親電は、東郷が「外国使臣が陛下に直接お目にかかることは計らいかねる、その親電なるものを私が預かりたい」としたために、開戦前に天皇に届くことはなかったのだが、その親電の件をキーナン主席検察官が、11月の日英米関係立証段階で検察側証拠として持ち出したのである。

ワシントン時間6日(日本時間7日)に天皇宛ての親電を書き終えたローズベルトは、ハル国務長官に対し、「親電が日本側に解読されても差し支えないので、時間節約のため機密程度の低い『最大至急』で打電せよ」と指示した。ホワイトハウスは、6日19時40分新聞各社に対して大統領親電が送られる旨を発表し、21時ハル長官はグルー大使に親電を打電した。親電は日本時間7日正午に東京に到着したのだが、グルー大使の許に配達されたのは、それから10時間半後の22時半であった。

検察側は、この遅配理由を明らかにするため、当時逓信省電信室に勤務していた白尾干城氏を出廷させて証言させた。白尾氏は、「参謀本部通信課勤務の戸村陸軍中佐の依頼により、警戒のため、外国電報の発受信は5乃至10時間遅らせるよう中央電信局に命じた」こと、「証人は、7日の16時から18時の間に親電を見ている」ことなどを、宣誓口述書により証言した。

一方、ワシントンでは7日(日本時間8日)正午頃、野村大使が、その後いわゆる最後通告となった対米覚書を手交すべく国務省に13時のハル長官との会見を申し入れた。その後13時過ぎ国務省に野村大使から会見時間を45分延期したい旨の電話連絡が入り、結局、野村大使が国務省を訪れたのは14時5分、ハル長官と面会したのは当初のアポイントから1時間20分遅れの14時20分であった。野村大使は翻訳とタイプに手間取ったため遅延したと述べ、件の対米覚書をハル長官に手交したのであった。

再び大統領の親電に戻る。縷々記された親電の文末には、「余が陛下に書をいたすは、この明確なる危局に際し、陛下におかれても、余と同様に暗雲を一掃するの方法に関し考慮せられんことを希望するがためなり。余は陛下と共に日米両国民のみならず、隣接諸国の住民のため、両国民間の伝統的友誼を回復し、世界におけるこの上の死滅を防止するの責務を有することを確信するものなり」とあった。

ここで、このローズベルト親電なるものが、ローズベルトが、結果的に真珠湾攻撃後に手交されることとなった日本の対米覚書の内容を知っていて書かれたものか、または知らずに書かれたものかと言うことが、これによってこの大統領親電の歴史的意味が大きく違ってくることから、問題となった。これに関してキーナン検察官が、米国国務省で極東問題を取り扱った国務省顧問のジョセフ・バランタインを召喚して訊問した後、ブレークニーが反対訊問を行った。ブレークニーはバランタインに対する訊問の中で、ローズベルト親電に絡めて、日本の12月8日の通告に対する米側の認識についても重要な証言を引き出している。( )内の補足は筆者。 

 ブレークニー:大統領の親電を発したのは、日本側の十二月七日(ワシントン時間。日本時間は八日。以下同様)の通牒を知ってからか。六日の午後三時には、その通牒の前触れたるパイロットメッセージ(日本からの予備的電信)を国務省は(暗号傍受によって)入手したのではないか。
 バランタイン:パイロットメッセージは日本側通牒の内容を示唆していなかった。まして外交関係断絶を示すものではなかった。それはただ日本国回答が来つつあるものとのみ了解した。
 ブ:しかし国務省としては、日本側回答は恐らく事実上の外交断絶を意味するものと既に考えていたのではないか。
 バ:パイロットメッセージを読んで下さい。(ブレークニーがパイロットメッセージを朗読)
 ブ:大統領の親電は何時に発出せられたか。
 バ:午後九時(六日)。
 ブ:この親電(のグルーへの配達)が遅延した事情を明らかにせんと努力するが。
 ウエッブ裁判長:親電の真実性は疑うべくもない。親電が遅れたのは、それを故意に遅らせた者が、彼自身すでに決定した戦争を、親電によって回避されはしないかと恐れたためとみられる。弁護人はただ証人の意見を聞いているに過ぎない。
ブ:十二月七日の日本の最後通牒の問題に移ります。あなたは、これは全然宣戦布告でもなく最後通牒でもない云々と言っているが、十二月六日の夜、この電報が傍受された形式(暗号解読文)においてこれを初めて読んだ時に、大統領は、これは戦争を意味すると言ったことをご存じないか。
 バ:一人の将校が、そういう意味のことを証言したことを知っている。
 ブ:ワシントンにおける当時の高官全部、すなわち、陸海及び国務長官並びに参謀総長及び軍令部長は全部、この傍受電報を初めて読んだ時の第一印象は、同じものであることをご存じないか。
 バ:その答えを補足するのは難しいことだ(バレンタインは論点を変えようと試みる)。
 ブ:十一月二十六日の通牒(ハルノート)を日本側に手交する以前においても、大統領並びにワシントンにおけるその他の高官たちは、日本と早ければ十二月一日頃に戦争が起きることを予期しておったことをご存じないか。
 キーナン:その質問に異議あり
 ウ:しかしながらこの質問は、大統領が日本から攻撃されることを予期していたかどうかということを、証人が知っていたかどうかを聞かれている。証人は答えてよろしい。
 バ:私が知っているのは、(ハル)国務長官が言ったことです。すなわち、日本がいずれの方法にいたしましても、いずれかにおいて攻撃を開始することによって戦争を始めるかも知れないことを国務長官は知っていた。

 ハル国務長官がそういう認識であったことが明らかになった以上、ローズベルトが天皇宛の親電を書いた時点でハル長官と同じ認識でなかったこともまたあり得ないことであった。またブレークニーは一連の訊問の中で、十一月二十六日の米側からハルノートについても、バランタインから次のような重要証言を引き出した。

 ブ:十一月二十六日の覚書(ハルノート)は、交渉決裂を意味する覚書ではなかったか。
 バ:国務省の見解は、数カ月の交渉の結果として、日本側が、十一月二十六日の我々の提案をうけいれることはあり得ないことであると思っていた。
 ブ:ハル国務長官は、十一月二十七日、スティムソン陸軍長官に対して「私は交渉をやめてしまった、今後の問題は陸海軍にある」、と言明したのは事実か。
 バ:どのような言葉を使ったかは、はっきりとは覚えていないが、情勢が非常に重大になっているというようなことを示す言葉を使っていた。
 ブ:ハル長官は次の日に同様の言明を、英国大使と米国戦争委員会に対して行ったことを知っているか。
 バ:彼は、日本が突然奇襲攻撃を行うことによって、戦争を始めるかも知れないと思ったと言っていた。
 ブ:ハル長官は、この問題についてはもう足を洗った、後は陸海軍の手にあると言ったのではないか。
 バ:その様には言っていない。
 ブ:それではスティムソン陸軍長官が、ハル長官がこういうことを言ったと証言しておれば、結局、スティムソン長官が嘘を言ったことになりますね。
 キ:異議あり。その質問は適当でない。
 <ウエッブが介入し、異議を却下>
 バ:私ははっきりと言うことができる。ハル氏が今や事柄は陸海軍の手中にあると言ったことだ。
 ウ:誰に対してそれを言ったか。
 バ:多くの高官に、です。スティムソン長官にも戦争委員会でも言いました。

ブレークニーがここでバランタインから引き出したのは、“交渉を打ち切ったのは米国側である”と言う重大な証言であった。これらの立証によって、判決文は、「日本側は侵略戦争をしていて犯罪をおかしているのだから、それが同時にバーグ条約(注:開戦前の国交断絶または最後通牒)に違反するかどうかと問う必要はない」として、最後通告が遅れたことについての判断を避けたのであった。

- ジョセフ・バランタイン -

ここでバランタインについて、五百旗頭真の「米国の日本占領政策」から引いて紹介しておきたい。
「領土小委員会において“介入慎重論”を展開したのは、バランタイン、ブレイクスリー、ボーマン議長であった。このうち最も積極的に議論した日本専門家はバランタイン極東部長であった。バランタインほど日本経験の長い外交官を見出すことは困難であろう。彼は1888年にインドに生まれ、1909年にアモースト大学を卒業した後1911年から神戸・横浜の領事館での通訳の仕事に始まって、1936年にグルー駐日大使の下で一等書記官を務め終えるまで(1930年代初めの中国での総領事職を挟んで)、二十年間に及ぶ日本勤務を行った。1937年、ホーンベックが10年間務めた極東部長の職をハミルトンに譲って政治顧問に昇格した際に、バランタインは極東部次長となった。(略)

バランタインの日本認識を示す言葉を(領土小委員会の)議事録から拾ってみると、狂信的で不可解な日本人というイメージを改めさせようと努めたことが明らかである。“無学な農民を別にすれば、日本人は天皇が神であると本気で信じている訳ではない”。なるほど日本人は“天皇を不可侵”とは考えているが、それは“我々がその言葉を理解する意味”とは異なる。多くのアメリカ人が考えるほど日本人と西洋人が違う訳ではなく、むしろ“日本は西洋列強から学び、友好関係を築くことを以って近代化を始めた”。親西洋主義が近代日本の基調であり、米国は“日本国民には比較的容易に影響を与え得るし、また既に日本人は目まぐるしいほど変化を遂げている”。(略)

近代日本は日本なりの仕方で政治的発展を遂げて来たのであり、米国人が考えるような民主的代表性を欠くにせよ、日本の政治にも国民の意思が反映されて来た、とバランタインは自信をもって論じた。“日本は少数の徒党によってではなく、国民世論を代表するグループによって統治されて来た。国民の意思を代表しなくなったというだけの理由で倒れた内閣も多い”。西洋化を基調とする近代日本に“問題が生じたのは、日本がこうした伝統を破り、西洋諸国に逆らい始めてからのことに過ぎない”。彼は軍国主義日本が、ほんの過去十年ほどの間に生じた一時的・例外的脱線現象に過ぎない、との見方を示した。」

長い引用になったが、バランタインが極めて深く日本を理解していたことが良く判る。“領土小委員会”とは、日米開戦から遡ること約一年前の1940年1月に、欧州における戦争の戦後計画を考えるためにハル国務長官が発足させた“対外関係諮問員会”の下部委員会の一つで、世界各地の地域の専門的知識に基づいて具体的な処理案を“下から”積み上げることを目的としていた。議長ボーマンはジョンズ・ホプキンス大学学長を務める傍ら、第二次大戦時には国務省の領土問題に関する戦後計画の責任者を務めた。ブレイクスリー博士は、クラーク大学教授として、ラテンアメリカ、極東および国際社会全般の在り方を考察する、謙虚であるが知る人ぞ知る学者であった。その“偏見や狭い視野を克服し、他国についての幅広い理解を以って国際的協力関係の増幅を解く立場は、彼の研究の基本姿勢であり、その点で疑いもなく先駆的な国際派の学者の一人であった”。

ボーマン議長の下、ブレイクスリーやバランタインなどの日本を良く理解する、米国のいわゆる日本専門家たちによって、日米開戦のはるか前から日本の戦後計画が継続的に練られていたことは、米国の懐の深さを感じさせて余りある。その後、様々な紆余曲折を経たにせよ、マッカーサーの二千日に及ぶ日本支配の基本政策は、この“領土小委員会”における議論がベースとなっているのであり、そこに先に示したジョセフ・バランタインの日本観が反映されたであろうことは疑いのないことであった。

◇1947年2月25日~3月18日(一般問題に関する弁護側立証)
 冒頭陳述においてローガン弁護人は、「被告間に共同謀議の事実はなく、日本の国内状態は諸列強の包囲と相俟って、日本をして自存のための最後の手段として干戈に訴えざるを得なくなったものであったことを立証する」と述べ、その証拠を五項目に分類して提出しようとした。ところが、そのうちの第二項に関して検察側から出された異議を裁判長が認め、その朗読が省かれたため、その第二項を担当するはずであったブレークニーはこれに反発し、裁判長との論争になった。

 ブレークニーは、その当時、パリ不戦条約が既に侵犯されていたことを立証するため、先に検察側証拠として受理されていたリットン報告書の中から、1929年のソ連による満洲侵入について述べられている部分を朗読した後、ソ連のフィンランド攻撃に関する国際連盟日誌の抜粋を証拠として提出しようとした。これに対して検察側は、審理中の事柄に関係がないとして異議を申し立て、これをきっかけに弁護人、検察官、裁判長の論争に発展したのであった。

 ブレークニーはこう主張した。「国際法は条約文の内容だけで形成されるものではなく、これに署名した国々の行為によって形成されるものである。検察側は、日本の戦争行為は不戦条約違反で犯罪を構成すると主張しているが、もし不戦条約が戦争国際犯罪とし、個人責任を負うべきと規定しているとすれば、それは条約そのものではなくて、その解釈によるものである。」

「そこで弁護側はこれから提出しようとする文書によって、不戦条約調印後に世界で侵略戦争が行われたか否か、またその侵略戦争に対して国際連盟がどのような行動に出たか、更にその連盟の行動により、日本が訴追されている行為が侵略戦争と認められるほど国際社会に進歩があったかどうかを明らかにしようとするものである。もしこれが明らかにされなければ、侵略戦争が国際犯罪だということが一般法の概念であるなどと言うことはできない。」

「弁護側の本文提出の目的は、今次戦争で勝利を得た五大国で、現在本法廷に検察官を派遣している一国が不戦条約違反をしていたことを実証できれば、日本としては、これらの国が不戦条約を解釈していたのと同じ解釈をすることが出来る、と言うに在り、不戦条約は大国の行為によって形成され、解釈されるものである、と言うに在る。もし今後提出する文書によって、被告たちが訴追されている行為がなされたとき、どのような国際的基準があったかを知ることが出来れば、裁判所がこれらについて裁定を行うときに役立つものである。」

検察側は、コミンズ・カーが「もし弁護側がこの種の文書を提出しようとするならば、必然的に世界各国の行為行動にまで審理を進める必要が生じて来るが、そのようなことは当裁判所の管轄外である」などと述べた。裁判長も例によって口を挟み、「不戦条約が一、二カ国によって侵犯されたとしても同条約署名国は六十カ国以上あり、そのことによって条約が廃棄されるものではない、また、世界中で行われた侵略戦争に関する審理を行う権限は当裁判所にはない」などとした。この結果、これらの文書提出は全て却下されてしまった。

ブレークニーはそれでもめげずにその後も次々と文書提出を続け、スティムソン元米国国務長官が原爆使用決定までの経緯(注:先述した、トルーマンによる原爆使用の決断を正当化する論文)を発表したことに関する1947年2月20日付日本タイムズの記事を提出して、裁判初期において日本語通訳を中断させた原爆投下問題を蒸し返そうとした。コミンズ・カーはこれに驚いて立ち上がり、ブレークニー、ウエッブの3人による次のような論争となった。

ブ:弁護側文書を提出します。原子爆弾決定と題する日本タイムズの記事であります。
カ:異議があります。この文書は前陸軍長官スティムソンによる米国が如何に原子爆弾を使うに至ったかの理由であります。
ウ:それについて充分に説明してください。
カ:連合国においてどんな武器が使用されたかということは。本審理に何らの関連性を持ちません。
ウ:ただそれが使用された以後のことは別にして。
カ:このような武器を使ってはいけないというような戦争の法規は、かつて存在しませんでした。日本が捕虜に対してなした犯罪行為に対しての言い訳とはなりません。
ブ:もし検事がハーグ条約第四をご存じなら、その陸戦法規にある、一定の種類の型の武器(注:毒ガス、細菌など非戦闘員に害を及ぼす武器)の使用を禁ずる、という条項をご存じでしょう。
ウ:仮に原爆の投下が戦争犯罪であると仮定しても、それが本訴追にどのような関係があるのか。
ブ:いくつかの返答が出来るが、その一つは報復の権利です。(注:国際法では敵が違法行為をすれば、これに対して報復する権利が生じる。)
ウ:しかし報復と言うものは、一つの行動が行われた後から起こるものであって、その行動の前に行われるものではない。
ブ:この被告たちは、原子爆弾の使用前とその以後に関することについて訴追されています。
ウ:あなたの言っていることは議論の余地がある。私はそうは思わないが、原爆が二個投下されたことにより、その後の日本の行為のあるものが正当化されるかも知れない。あなたはハーグ条約第四が死文化されたということに基礎を置いているようだが、その他の点はどうなるか。
ブ:原爆投下以前のことについては別の証拠で立証します。原爆投下後のことは、(日本が)報復的手段をとったということで正当化できます。
ウ:それはわずか三週間ですよ。(注:8月6~9日から降伏文書調印の9月2日を指す)
ブ:しかしそのわずか三週間も被告の誰かを有罪にすることができます。この三週間にかかわる期間のことでの検察側の証拠書類は相当多量です。例えばマニラの事件・・
ウ:その件は考慮しよう。十五分間休憩する。
しかし三十分後に開廷した裁判長から出された言葉は、「多数決により却下した」であった。

ブレークニーは更に、「個人が政府の一員として行動した場合、そのことを以って個人の責任を追及するような規定は現行国際法には存在しない」ことの立証のため二通の文書を提出しようとした。そのうちの一通は戦後創設された国際連合憲章の抜粋であった。ブレークニーは「同憲章の中には個人責任について何の規定もないので、連合国は、同憲章作成時には個人には戦争責任があると考えていないという結論になる」ことを指摘し、検察側主張の不当性を突いた。

この件でも、裁判長とブレークニーの間に種々の論争があった。ブレークニーが「連合国の諸国自身が、個人には戦争責任があると考えていないという結論になる」と主張したことを受けて、裁判長は狼狽してか、「数週間の間に、ニュルンベルグ裁判の判決に基づいて新しい法律を採択し、あるいはそれを拒絶するかも知れない」と、それこそ本件審理には全く不必要と思われることを述べたのであった。

◇1947年4月22日~5月16日(中華民国関係弁護側立証段階)
 中国関係立証段階の終盤の5月12日、次に弁護側が行うソ連段階関係の冒頭陳述に関連して、裁判長の大失言があった。休憩直前に裁判長が「詳細は知らないが、弁護側がソ連段階関係文書の裁判所提出を拒んでいるということで私に注意喚起されたので、実情を調べておいて貰いたい」と発言した。これに対して午後の開廷冒頭にブレークニーが発言台に立ち、裁判長との間に次のような応酬がなされた。

 ブ:裁判長がどのような筋からその情報を得たか、またその情報が何であるかは、弁護側は前もって通知を受けていないので知らない。
 ウ:それはソ連関係の冒頭陳述に関するものである。少なくとも裁判官の一人は、その冒頭陳述が法廷に提出されるべき真面目な陳述ではなく、これを通じて連合国の一員に侮辱を与えようとしているものではないか、と懸念している。
 ブ:自分はその冒頭陳述作成の一部に責任を持っている。もし今の裁判長の言葉が自分に向けられたものとすれば、憤慨に堪えない。
 ウ:貴下を念頭に置いたものではない。
 ブ:しかし、本冒頭陳述作成に関与した他の弁護人全部も、この発言台に立てば同様申し立てるだろう。裁判長は弁護人が冒頭陳述の提出を拒んでいると言ったが、検察側立証段階では冒頭陳述をその朗読直前あるいは朗読後配布された場合があり、これに対して弁護側が抗議したとき裁判長は、裁判所条例中には冒頭陳述の配布について何の規定もなく、従って裁判所としては、これの配布について何ら支持する権限がないと述べている。自分としては、冒頭陳述は普通の方法で作成され、提出されるべきであると主張する。しかして、それが朗読されてその中に裁判所が不快を感じるような部分があった場合には、自分が個人的に責任を負い、処罰されるようにする方が良いと思う。弁護団全体として、自分を守ることが出来ないような“あてこすり“を、公開席上でしないようにしていただきたい。
 ウ:私の言わんとするところは、連合国を侮辱してはいけないということである。弁護側が法廷を侮辱しないということと、裁判所が弁護側の感情を考慮することとは、お互い相互の問題である。しかし、冒頭陳述に関しては、法廷は以前の採決に従う。

「その国名は明らかにされなかったものの、ソ連代表裁判官の示唆によって、弁護側の態度をはじめから疑ってかかっての裁判長の発言であったことは明らかであり、中立であるべき裁判長が、公開法廷の場で発言すべき言葉ではなかったと言える」と冨士信夫は著書に記している。

◇1947年5月16日~6月9日(ソ連関係弁護側立証段階)
 5月28日、前述したやり取りの後に行われたソ連段階関係の内、ノモンハン事件に関する弁護側立証をブレークニーが行った。その立証内容は主に「国境線」に関するもので、提出された地図をめぐって検察側提出のソ連側作成地図の真実性に関する論議にまで進んでいったが、それは検察側提出の証拠がソ連側に有利になるように捏造されていたのではないか、との疑念を抱かせるに充分なものであった。

 ノモンハン事件の余談。1939年5月11日から1939年9月16日の4カ月にわたる日ソ両軍初の本格的衝突であるノモンハン事件は、帝国陸軍が彼我の戦力の差を弁えずに暴走してソ連に挑み惨敗を喫した、と司馬遼太郎や半藤一利をして繰り返し嘆じさせている。しかし今日では、1991年のソ連崩壊後に公開された機密文書の研究によって、人的損害のみならず戦車や航空機の損害もソ連側が圧倒的に甚大であったことが明らかになっている。司馬や半藤は真相を知らずに日本軍の無能を嘆いたのだ。日本の失敗の本質は、それと知らずに負け戦と総括したインテリジェンスの欠如にこそあったと言えよう。

 閑話休題。ブレークニーは次に日本の対ソ軍備に関する弁護側立証を行った。ブレークニーは、日本の対ソ作戦計画が決して侵略的なものではなく、強大な極東ソ連軍の脅威に対する防衛のためのものに過ぎなかった、との主張を具体的に裏付けるため、日本の陸海軍軍人、外交官延べ11人を出廷証言させると共に、関連文書を提出した。

ブレークニーは審理の冒頭で、検察側が証人出廷させずに宣誓口述書提出のみしている日本人の陸軍軍人や満洲国官吏ら12名について、ソ連法務官及び抑留所長が発行した証明書(予審中、通常俘虜として抑留中、死亡、行方不明)を提出した後、このうち死亡した者については、その証言を記録から削除するよう要求すると共に、反対尋問のため彼らの出廷を要求して来たこれまでの経緯を再び説明した。

これに対して検察側からも申し立てが行われ、しばらく双方の応酬が続いたが、裁判長は「反対訊問を許可することなしに、口述書の証言を受理するか否かは重大問題であるから、この点については後刻双方の充分な議論の提出を望む」と発言し、この問題の決定は後日に持ち越された。

 6月9日、日ソ不可侵条約関係の立証を終わったブレークニーは、先に決定が持ち越された抑留証人召喚の問題についての弁護側主張を次のような要旨で申し立てた。
 「反対訊問のために出廷を要求した日本人のうち12人は軍人、9人は将官であるが、終戦後二十二カ月経った今日でも、彼らはなお抑留中である。そのうち3人は通常俘虜なのだから、ソ連側が彼らを故意に抑留しているとしか考えられない。また他の者は戦犯容疑を取り調べ中とのことであるが、本裁判が開廷以来十四カ月の間に相当審理が進捗しているのに、二十二カ月経った今日未だに起訴もされず、取り調べ中として抑留されている理由が判らない。しかも検察側が提出した彼らの口述書なるものは、意見、結論、歴然たる誘導尋問に対する肯定的答弁、伝聞、自己矛盾、憶測等の寄せ集めである。」

「検察側は、弁護側がこれら証人に訊問調書を送ることにより、弁護側の権利が保証されると主張しているが、鉄の扉の後方にあって、背後から銃剣を突きつけられている者から取る訊問調書が、如何に不満な内容のものであり、物の用に立たないかは、検察側提出の口述書の内容を見れば明らかである。このような内容の証拠に基づいて判決を下すとすれば、正義と公正は期し難い。故に弁護側は、これら証人の反対訊問のための召喚が、然らざる場合は、その証言の記録からの削除を要求する。」

 ソ連のバシリエフ検察官は、この弁論中の「・・鉄の扉の後方にあって、背後から銃剣を突きつけられ・・」の部分が対ソ攻撃的な言葉であると抗議したが、ブレークニーは「単に法律的議論である」と反論した。また裁判長が「弁護人は全ての論点を提出するに当っては、如何なる連合国にも反感を起こさせないようにせねばならない」と諫めたのに対して、「自分はそのようにしている。自分は訊問調書に関する事実を述べているのであって、もしそれによりソ連検察官が不快を感じるとしても、それは致し方ないことだ」と応酬した。

 続けてバシリエフ検察官は反駁弁論で「口述書のみの提出は従来も執られてきた」と指摘し、「本裁判の特殊性と迅速な審理のため、訊問調書を取るように指示されたのに、弁護側はこれに従わない」と非難した。次いで口述書中検察側に有利と思われる個所のみ抜粋して朗読したのち「反対尋問のため承認を召喚する必要はない」と述べ、更に「証人として(抑留先のシベリアから)出廷した松村知勝元少将、瀬島龍三元中佐の法廷での証言により、両人の口述書が真実であったことが確認された点から見て、未出廷の証人の口述書も事実が述べられていると考えられる」と主張した。

 この発言に対し、ブレークニーは次のように主張した。「検察側の議論は、これら検察側証人の証言は、他にも同様な証拠が多数あるから余り重要でないとしているように聞こえるが、これは検察側がその主張を変更したことになる。もし検察側が、これらが大した証拠価値がないと考えているのなら、これらの提出を取り止め、反対訊問で本当の事実が暴露されるのを防止し得たかも知れない。然るに検察側はそうせずにこれらを証拠として提出し、これらに何らかの価値を与えるよう法廷に要求した。故に弁護側は、このような計画的証言を反対訊問によって覆そうとするのである。松村、瀬島両承認の証言は、反対訊問によって雪のように解け去ってしまった。検察側はこれらの証言は大した価値がなく、反対訊問の必要はないと言おうとしているが、弁護側はこれらの証人の証言は、被告に不利に述べられている範囲において反対訊問する価値が充分あると考えている。検察側がこれら証人の召喚を拒絶しているのは、反対訊問によりどのような結果が生じるか検察側自身、良く分かっているからだ。」

 この論争の後、裁判長は、次のように述べて、弁護側の主張をほぼ認める裁定を下したのである。
「12名の口述書提出者のうち、処刑済みの白系露人2名の口述書は無視する。死亡もしくは行方不明の日本人3名の口述書は受理する。それ以外の生存中の者は三カ月以内に検察側で召喚する。もし召喚できない場合は、充分納得のゆく説明を裁判所に提出すること。検察側がこれらの指示に従わない場合は、彼らの証言はすべて無視する」。ブレークニーの弁論が奏効したのだった。

 ところで、抑留先からの証言予定者には、松村、瀬島2名の他に草場辰巳元陸軍中将もいた。3名は46年9月17日羽田に到着したが、20日未明、草場は「仲間について証言するのは非常に苦しい」と遺し服毒自殺した。それにも拘らずソ連は、草場の宣誓供述書を死亡証明書と共に提出し、冨士信夫の表現を借りれば、「法廷に哀れとも奇怪とも言いようのない感じを与えた」という。また瀬島は、証言後にブレークニーからの「在勤当時の関東軍の兵力はソ連よりも少なかったのか」との問いに対し「明確にお答えする記憶がありませぬ」とはぐらかしたのであった。

 続けて行われた弁護側からの初の外国人証人である米極東軍司令部G-2のブレイク中佐による、43~45年の間の関東軍と朝鮮軍の兵力に関する証言に関して、検察側は、証人が引用証言した情報資料原本の証拠提出を要求した。これに対しブレークニーは「同資料は軍の機密文書で弁護側はこれを文書をとして入手できなかったので、証人にそれを携行させてその中から引用証言させていると」事情を説明した。ここで、果たしてブレイク証人の証言を許可するかどうかと言う問題について論争が起こった。

検察側の論旨は次のようであった。「本裁判所の規則では、証人引用文書は証拠として提出されねばならない。(中略)検察側は既に1941~45年までの間の関東軍の兵力に関する赤軍参謀本部作成文書を提出しており、ソ連は満洲で日本軍と接触していたので関東軍に関する資料は入手し得る立場にあった。従って、ソ連側資料の方が米軍資料より正確であるので、本証人の証言は重要性がない。」

これに対しブレークニーには「G-2保管文書は国家機密を含んでいるので弁護側は入手できない。本証人は宣誓の上証言しているので、証言の証拠価値は充分にある。赤軍参謀本部作成資料は、本裁判に使用するために作成した結論的なもので、作成者も不明であるのに反し、米軍の資料は、この裁判のために作成したものでなく、作戦指揮上使用するために収集した情報に基づいて作成されたもので、しかもその日本軍兵力実数が正確であったことが、戦後の調査で確認されている。」と述べ検察側に対抗した。

双方の主張を聞いた裁判所は、暫時の休憩を挟んで、多数決により検察側の異議を却下し、ブレイク証人の証言の認める裁決をした。ブレークニーの主張を受け入れる裁決であった。冨士信夫は「ここにも証拠受理に関する裁判所の態度の明らかな変化が窺える。もしソ連関係以外の段階だったら、裁判所は、証拠受理に関して以前行った、証人が引用証言した文書は証拠提出すること、と言う裁定を盾に、このままの形でのブレイク証人の証言は受理されなかったであろう」と書いている。つまりこの頃すでに東西冷戦の萌芽が見え始め、そのことが裁判でのソ連の立ち位置を微妙にしつつあることを仄めかしているのである。

ソ連関係段階の最後でバシリエフ検察官は、弁護側によるソ連の対日宣戦布告時の駐ソ大使佐藤尚武証人の宣誓口述書提出に対して、先にゴルンスキー検察官が行った冒頭陳述の中から、日本が太平洋戦争の早期解決を図るためソ連に仲介を依頼し際に、ソ連の執った行動について述べた部分を引用し、次のように述べて異議を申し立てた。「弁護側が提出しようとする証拠は、ソ連が平和招来のために執ったこの歴史的事実としての行動を、一方的見解を基にして告発しようとするもので、断じて許されるべきものではない。テヘラン会談から日本降伏までの間のソ連の行動は、世界平和招来のための侵略者に対する圧迫行為であり、テヘラン、カイロ、ヤルタ、ポツダム等の協定は、何者によっても覆されるべきものではない。」

この“飛んで火にいる夏の虫”とも言える異議申し立てに対し、ブレークニーはすかさず次のように反論した。「被告たちは、保証を破って対ソ侵略の共同謀議を計画したとの理由で訴追されているが、その保証とは全て一方的な宣言に過ぎず、それを破ったからとて、それを以って刑事裁判に付するとはまことに珍奇な現象である。逆にソ連こそ、日ソ中立条約遵守の保証を与え、その廃棄通告後もその有効期間中はこれを遵守するとの保証を与えたにもかかわらず、その保証を破って対日侵略を開始したのである。1945年7~8月に、日本は太平洋戦争の終結に関してソ連に仲介を求めているが、これは日本が対ソ侵略の意向を持たず、平和を熱望したことを明らかにするものである。ソ連自身の執った行動から見て、ソ連が日本の執った行動を訴追することは、公正と正義のあらゆる原則に反する。」

「検察側は、正当な理由なくして他国を攻撃することが侵略戦争であることは、国際法上明らかであると主張しているが、もしそうだとすれば、それはここに代表されている十二カ国の大国によって、認められているものと考えざるを得ない。その場合は、正当な理由なくして他国を攻撃した国家は侵略国家であり、その指導者は戦争犯罪人であるということをソ連が認めたことになり、英米の要請ということ以外の何らの理由なく、またその理由の発表もしないで対日宣戦を行ったソ連もまた侵略国家であると言わざるを得ない。検察側の主張は、証拠の関連性に関する理論は一つも含んでおらず、力を以って本問題を審理から除外しようとする政治的発言に過ぎない。」

この後一時間の休憩を挟んで、裁判長は次の通り裁定した。「ソ連参戦後の被告の行動に関しては訴追されておらず、また証拠も提出されていないので、ソ連の参戦に関する事項は本裁判の審理に関連性がない。よって本口述書は、ソ連の参戦に関する部分を除いて受理する。」こうして証拠採用された佐藤元大使の宣誓口述書やソ連に仲介を求めた東郷外相と佐藤大使の往復電報などによって、日ソ中立条約に関するソ連の保証や日本の仲介申し込みに対するソ連側の動きなどが明らかになったのであった。

ブレークニーは次に、米国の元中ソ軍事顧問使節団長ディーン少将の宣誓口述書を提出した。その内容はテヘラン、モスクワ、ヤルタ、ポツダムなどの重要会談に参加したディーン少将が、これらの会談の内容を明らかにしたもので、弁護側はこれにより、日本が対ソ作戦計画を立てたことを以て対ソ侵略行為であるとするソ連側の訴追を撃破しようとするものであった。この口述宣誓書受理をめぐって双方の論争は熾烈を極めたが、検察側の異議申し立てに対してブレークニーは、次のように述べて第一次の反駁弁論を終えた。

「検察側の異議は、戦勝国の一員たるソ連の言い分を、言葉を変えて述べたに過ぎない。すなわちソ連検察官の言い分は、戦勝国のした政治的宣言によって事が運ばれたのであるから、被告の執った行動が犯罪的であったかどうかを審理するために『侵略国側から出た証拠(ソ連検察官の言)』は使用出来ないと言うにある。この議論は本件裁判所の判決を予測するもので、もしかかることが行われるとすれば本裁判は初めから行う必要を認めないのである。」

この弁論の後、裁判長は、「検察側が被告に責任があるとして具体的に立証した張鼓峰・ノモンハン両事件よりはるか後の、1943年11月のテヘラン会談以降のことを述べた本口述書は、本審理に関係がないように思う」旨、発言した。検察側も、「テヘラン会談以降日本は新たな対ソ戦争を計画しなかった、連合国及びソ連の、将来の日本に対する行動は本審理に関係ない、たとえソ連が中立条約に違反したとしても、それを以て被告の弁護はなし得ない」などの点を挙げ、ディーン口述書の受理に反対したのであった。

ブレークニーは再び反論に立ち、「検察側の態度は、自分に都合が悪くなるとその訴追事項を放棄しようとするものだ」と検察側の態度を難じた後、次のような要旨を述べて受理を求めた。「弁護側が控訴棄却動議を出した時、裁判長は検察側の証拠は被告を束縛するに充分であるといって、弁護側の動議を却下した。従って、弁護側としては検察側の訴追を反駁せねばならない。裁判長は『国際法、協定が侵犯されたために発生した事件は、たとえその事件が当事者間で解決されたとしても、その事件が国際社会に関係を持つ限り本審理に関連性がある』と述べたが、この観点から見て、ディーン口述書の内容は、日本が世界支配の共同謀議をしたという訴因の全部に関連性がある。それらの訴因中には、中立法を含む国際法違反が挙げられているのである。」

休憩後の再開法廷で、裁判長は、佐藤口述書を受理した時と同様に、ソ連の参戦について述べている部分を除いて、ディーン口述書を受理する旨の裁定を下した。こうして、テヘラン、ヤルタ、モスクワ、ポツダムにおける各会談での、ソ連の対日攻撃に関するソ連首脳の発言を含むディーン口述書が朗読された。検察側のこじつけや異議申し立ての不備・欠陥を的確についたブレークニー弁論の勝利であった。

ブレークニーは引き続きヤルタで締結された「ヤルタ協定」を書証として提出した。ポツダム宣言のところで少し触れたが、ヤルタ協定は、1945年2月4日から11日までソ連領クリミア半島の開かれたヤルタ会談において、ローズベルト、チャーチル、スターリンが取り決めた、“ソ連の対日参戦とその見返り条件に関する秘密条約”である。日本はその密約の次のような内容を、東京裁判の審理を通じて戦後になって初めて知ったのであった。

 「三大国(米英ソ)の指導者は、ドイツが降伏し欧州における戦争が終結してより二、三カ月において、以下の如き条件の下に、ソ連が連合国に加担し対日戦争に入る事に付き同意す。一、外蒙古における現状維持 二、1904年日本の奇襲により侵された前露国権益の回復、即ち、A樺太南部並付属全島嶼はソ連に返却される、B(大連、旅順港関係省略)、C(北支鉄道、南満洲鉄道関係省略)、三、千島列島はソ連に渡される。前記外蒙古及び港湾鉄道に関する協定は、蒋介石元帥の協力を要することを諒解す、大統領(ローズベルト)はスターリン元帥よりの要請により本協力を得る如く手配す。ソ連は中国を日本の桎梏より解放する為、軍隊を以て中国を援助し、中国国民政府と友好条約を締結する準備のある事を声明す。」

 戦後70年を経ても日ソ間で未解決のまま残されている北方領土問題の淵源がここにある。日ソ不可侵条約の期限を1年以上残しながら、この時期にソ連がこのような協定を結んでいた事実を、ソ連による日本侵略の共同謀議と言わず何と言おう。日露戦争後のポーツマス条約で日本が正当に得た権益を、「奇襲によって侵されたロシアの権益」とはよく言ったものである。米国はこのようにソ連に参戦を促しながら、原爆が完成するや否や、その参戦を無用とすべく、慌てて日本に原爆を使ったのであった。

蒋介石の説得が、スターリンの要請に基づくローズベルトの役割であったことも頷けることである。米国は1937年頃から中国支援の一環で、中国の軍事顧問をしていた米国軍人クレア・シェンノート大佐の提案に従い、現役パイロット100名を退役させて義勇兵とし、P-40戦闘機100機、地上職員200名と共に「フライング・タイガース」を編成して中国に送り込んでいた。つまり日中戦争における航空戦は実質的には日米戦であったのだ。援蒋ルートからの物資援助を含めて、米国は既に37年当時から日本との戦争に中国を介して参戦していたのである。

◇1947年6月12日~9月9日(太平洋戦争関係弁護側立証段階)
 8月13日からブレークニーは正味6日間にわたって日米交渉についての弁護側立証を行った。その冒頭陳述は、1941年4月16日のハル長官から野村大使への「日米諒解案」提示に始まり、12月8日の日本側の「対米最後通牒」手交で終わった日米交渉を日本側の立場から述べたものであった。この陳述の評価は、小堀桂一郎が「東京裁判 日本の弁明」(講談社学術文庫)の中で述べていることにほぼ尽きると思うので、少々長いが一部を捨象して以下に引用する。

 「(ブレークニーの)この陳述は、所謂日米交渉の経過を論じ、その破綻の責任は日本側にではなく、米国の非妥協的態度というよりむしろ既定の開戦路線への固執に帰せられるべきものなることを論じている。注目を惹く点が二つある。その一はこの陳述が、当時の日本の政治組織が政府と統帥部との間で分裂もしくは分権の傾向があったことを指摘している点であり、その二は、昭和十六年七月二十一日の日本軍南部仏印進駐の決定が、米英蘭による日本資産凍結並びに経済断交を結果した、日本側の大なる失態だったとの一般に有力だった検察側見解に対し、如上の経済的制裁は日本軍の南部仏印進駐以前に既に決定されていた、予定の施策の実施に過ぎなかった、と指摘していることである。」

 「前者の所謂『統帥権の独立』の問題は確かにロンドン軍縮会議を機に俄かに浮上し、昭和前期の日本の国政を跛行せしめることにもなった、非常な問題点だった。この冒頭陳述は、日米開戦が罪になるかどうかはしばし別として、交渉の難航と開戦決定の責任について、欧米側には極めて理解し難いものである政府と統帥部との関係の、日本的特殊性を客観的に解明することの必要を説いている。妥当な、的確な指摘である。」

 「後者の南部仏印進駐と経済断交との因果関係は、一般に現在でも表面上の先後関係だけを見て、当時の軍の強硬措置を指して、挑戦的であり決定的な失敗だったと糾弾する史家が多い。この措置が開戦への階梯を一歩先に登らしめるものであったことは確かであるが、これが即ち米国側の急激な態度硬化を招いたと見るのは正しくないのであって、在米資産凍結と対日経済断交は米国の既定の路線であったことをブレークニーは指摘する(ブレークニー陳述の原文:“証拠は、右措置が米側によりこれより先数週間に亘り考慮せられていたものであることを示します”)。」

 「ところが、この既定路線を立証するために用意してあると弁護人が述べているその証拠資料はやがて却下されてしまったのであるから、ブレークニーの指摘は結局法廷で立証されるに至らなかった。そして結果として現行の通説が定立することになり、米国の経済制裁の早い時期の決定を示す証拠は本書原本の資料集が公刊されるまでは結局史家の検証を受けることのないままであった。」

 結局、これらの証拠資料は裁判所に却下されてしまったのだが、立証段階でブレークニーによって朗読された。例えば、上記の後者「南部仏印進駐」に関する証拠の一つは、1941年7月2日ワシントンで開かれたバランタインら米側3名と井川、岩畔の日本側2名による、日米交渉に関する実務者会談記録である。そこにはモルガン商会が米国務省官辺筋から得た情報として、「米国政府は近く日本資産凍結を行う計画である」との記録がある。これは米国政府が日本の南部仏印進駐の3週間以上前に、既に日本資産凍結計画を持っていたことを示すもので、資産凍結が米国による日本の南部仏印進駐の報復であるとする検察側主張を真っ向から反駁するものであった。

日本軍の仏領インドシナ(仏印)への進駐は、40年9月の北部仏印進駐と41年7月の南部仏印進駐に分けられる。これらの進駐がいずれも当時の仏国政府の了承の下に行われたことは余り知られていない。当時のフランスはドイツに占領されてその傀儡政権下にあったとは言え、日本軍が国際法上の手順を踏んで進駐していることは紛れもない事実である。因みに、英国軍が9月23日に行った仏領西アフリカへの侵攻は仏軍に撃退されている事実もある。いずれにせよ、日本軍の南仏進駐を米国が日本の在米資産凍結の口実にしたことは間違いない。

 さて、上記の二件の他に、証拠を伴ったブレークニー陳述のポイントを「東京裁判 日本の弁明」から拾って補足すれば、次のようである。そこに挙げられた数々の証拠が、ことごとく裁判所によって却下されてしまったことは、かえすがえす残念でならない。(下線は全て筆者)

東条内閣出現は、日本で過激的意見が勝利を制した証拠と考えられているが、これは事実に反する。東条が、日本の対米譲歩の限界を定めた九月六日付御前会議決定事項の白紙還元を、首相就任と同時に実行したことは、今後提出される証拠によって明らかにされる筈である。

日本側の最終提案「甲案」は当初は見込み良好も、米国は漸次日本側の譲歩を軽視し、日本の誠意を疑うに至った。日本側は、甲案望み薄とみて十一月二十日に乙案を提出した。この前後に日本側が、米側の主張に応ぜんがため種々の努力を重ねたことは、証拠によって明らかになる。

日本から米国への最後の通告手交は、ワシントンでの書類作成時の予期しない手違いのため、指定時間に一時間余り遅れて攻撃後になったが、政府及び連絡会議関係者が通告の件について決定した際、通告送達は一切の攻撃に先んじて行う意向であった。

天皇宛の十二月六日付大統領親電送達の遅延は、日本の外務省や内閣の関知するところではなく、むしろ外務省はその奉呈を促進した。これについては後に証拠を提出する。

和戦問題を決定する日本の連絡会構成員が、米国に発した最後の通告を以て宣戦と同時のものと思考し、また実質上宣戦を要求する条約に適合するものと考えていたこと、そして責任ある米国当局もこれと意見を同じくしていた事実を、証拠は明らかにするものである。

米国は戦争の切迫について充分警告を受けており、十一月二十六日付通告(注:ハルノート)が交渉決裂と平和的関係断絶を招くことを事実上予想していた。これについては多くの証拠を挙げ得る。

証拠は、米国の最高軍当局が開戦の際、既にこれを予期していた事実を明らかならしめるものである。

 真珠湾攻撃について、冨士信夫は「米国側が傍受電解読により最後通告の内容を知っていたにも関わらず、結果的に日本軍の攻撃が成功したことに疑念が残る」として次のように書いている(一部を省略した)。「ブレークニーが提出した証拠に依れば、マーシャル参謀総長の警告電報は、ハワイ防衛司令官にも送られ、同電末尾には『海軍当局にも本通告を伝達せよ』とあり、同電は日本軍の急降下爆撃隊が攻撃を開始した午後一時二十五分より前に、充分な時間的余裕をもって現地に到着していたはずである。しかし、この警告電報は海軍側に伝えられなかったらしく、日本軍の攻撃は成功した。ローズベルト大統領をして『これは戦争を意味する』と言わしめた日本の傍受電により、開戦の切迫を感じていたはずの米国が、ハワイ海軍部隊に関する限り、これを想定して対応策を講じていたことを物語る如何なる文献や各種映画は、私の知る限り、全く存在しない。」

 ロバート・スティネットの編んだ「真珠湾の真実・ローズベルト欺瞞の日々)」(文藝春秋2001.6初版)は、冨士のこの疑念を余すところなく解き明かしている。スティネットは“まえがき”で「17年間にわたる公文書調査と米海軍暗号解読者のインタヴューの過程で著者が発見した通り、ローズベルトのジレンマを解決した答えは、『情報の自由法』に基づく請求により入手した途方もない数の文書の中に記録されている。それらの文書には、米国を戦争に介入させた真珠湾及び太平洋地域の諸部隊を戦闘に叩き込むべく、明らかな戦闘行為を誘発するため計画、実施された、権謀術数の限りを尽くした措置が記述されている。」と書き、ローズベルトの謀略を明らかにしている。

 “まえがき”は更に「1941年12月7日の出来事を、米国が事前に知っていたか否かについては、議論が絶えない。戦争を匂わす日本の外交電報が傍受解読されていたことは、我々はずっと以前から承知している。しかし、私が発見したことは、我々(米国)はそれ以上に多くのことを承知していたということである。我々(米国)は戦争挑発手段を実施したばかりでなく、日本海軍の電報をも傍受解読していたのだ。日本の攻撃を挑発することにより、太平洋艦隊及び太平洋地域の市民たちを含む米軍部隊が大きなリスクに曝され、危険な状態に直面することになるという、身の毛のよだつ事実を、ローズベルトは受け入れたのである。」と続ける。

 スティネットの克明な研究内容の全部を本稿は紹介し切れないが、この“まえがき”の一部だけからでも重要な記述を発見できる。それは米国が、日本の外交暗号電報だけでなく日本海軍の暗号電報、いわゆる「JS25」をも傍受解読していたということである。東京裁判においてブレークニーが証拠として持ち出した米国の傍受電報は全て外交電報、つまりパープル暗号電報のみであった。それはなぜか。スティネットに依れば、検閲によって米国が日本海軍の電報を公開しなかったからであった。それの経過をスティネットは著書の終盤で次のように書いている。少し長いが部分的に捨象しつつ引用する。

 「日本降伏の二週間後に(米)海軍は、真珠湾攻撃以前の傍受記録を全て最高機密文書とし、一般のみならず議会に対しても閲覧を許可しなかった。海軍の命令は絶対で、41年秋に日本帝国海軍第一航空艦隊の無電を傍受した電信員と暗号解読員に対して箝口令が敷かれた。閲覧を監督したキング元帥は、暗号解読に成功した事実を他言した者は米海軍に損失をもたらした者として投獄され、退役軍人恩給を受ける権利を失うと脅した。….45年11月15日に真珠湾攻撃を調査する上下両院合同委員会が組織され、米国民は、この攻撃以前に日本の暗号を解読していた事実の全貌が明らかにされるだろうと信じた。証人らは傍受電文を証拠として提出し、委員に対し解読文を読み上げたりもしたが、それは全くインチキだった。攻撃以前に傍受、解読、配布された日本海軍の暗号電報が日の目を見ることはなかった。証拠として提出されたのは外交暗号電報だけであった。」

 上記は終戦直後の出来事についての記述であるが、その半世紀後の1995年4月にも米国上下両院は日本の真珠湾攻撃に至るまでの状況を調査する小委員会を発足させた。発足理由は、真珠湾攻撃の責任を負わされた当時の米太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将及びハワイ方面陸軍司令官ウォルター・ショート陸軍中将の遺族が、両司令官の汚名を雪ぐべく、上下両院に対し両司令官に日本軍の決定的な電報傍受記録が通知されなかったことの調査を行うことの要請を行ったからであった。

 果たして95年12月までに纏められた調査報告書の内容は遺族たちの期待を裏切るものだった。報告は「ローズベルト大統領、マーシャル将軍、またその他の高官が、米国を戦争に導くため真珠湾を日本の攻撃に曝す計画もしくは陰謀の一部として、キンメル提督とショート将軍をその情報から意図的に遠ざけていたと説得できる歴史的記録は何もありません。」と言うものだった。が、スティネットは次のように断じている。「この調査は肝心のところで不十分だった。調査チームは傍受した日本海軍の電報を入手できなかったし、当時の米海軍無線通信エキスパートの証言も得ていない。またローズベルトが実行を許可した『マッカラムの覚書』も発見できなかった。」

 ではその「マッカラム覚書」には、何が書かれていたのであろうか。スティネットが1995年1月に米国第二公文書館軍事関係部門の記録グループ特別米軍収納箱から発掘した、ローズベルトがその実施を許可したとされるアーサー・マッカラム覚書(同海軍情報少佐が1940年10月7日付で作成)の“身の毛のよだつ”内容の要約は次のようである。

 1 米国には政治的攻勢(手段)を執る能力が欠けているので、海軍の追加部隊を東洋に派遣し、かつ東南アジアにおける日本の侵略を効果的に阻止するのに有効と思われる協定をオランダ及び英国と結ぶべきである。
 2 現在の世論の状況からは、更により多くの騒動が発生しない限り、米国政府が対日宣戦布告をできるとは思えない。従って次の施策八項目を提案する。
   A 太平洋の英軍基地、特にシンガポールの使用について英国との協定締結
   B 蘭領印度の基地施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダとの協定締結
   C 蒋介石政権への、可能なあらゆる援助の提供
   D 遠距離航行能力を有する重巡一個戦隊の東洋、フィリピン又はシンガポールへの派遣
   E 潜水艦隊二隊の東洋派遣
   F 現在ハワイ諸島にいる米艦隊主力の維持
   G 日本の不当な経済要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するよう主張すること
   H 英帝国が日本に押し付ける同様な通商禁止と協力して行われる日本との全面的な通商禁止
3 これらの手段により、日本に明白な戦争行為に訴えさせることができるだろう。そうなれば、益々結構なことだ。いずれにしても、戦争の脅威に対応するため、我々は十分に準備を整えておかねばならない。

 スティネットはその著書の最後を次のように結んでいる。「真珠湾の真実-米国の歴史に絶えず付き纏って離れないこのミステリーを解明することが斯くも困難なのはなぜか。解明の取り組みは本書が初めてではないが、これまで取り組んだ者が知らなかったのは、真珠湾攻撃はあくまでクライマックスであって、それまで長い時間をかけてある組織的な計画が実行されていたということである。本書執筆の趣旨はこの点にある。大戦の遺族と退役軍人にとっては憎んでも余りあることだろうが、ホワイトハウスの立場からすれば、真珠湾攻撃は、より大規模な悪を阻止するため耐えねばならないことであった。その悪とは、欧州でホロコーストを開始し、英国侵略を狙ったナチスのことである。ヒトラーの勢いを止める手段として正しい選択であったか否かについては議論も分かれるが、ローズベルトは途方もなく大きなジレンマを抱えていたことは確かである。」

 ただし、日本海軍の暗号「JN25」の解読については、スティネットとは異なる次のような説もある。歴史家のジョン・コステロの「The Pacific War」(1981年)によれば、「JN25」の解読は米国よりむしろ英国において早く進んでいて、チャーチルは11月26日(ハルノート送達の日)にローズベルトに日本による真珠湾攻撃の可能性を伝えた、と述べている。また41年当時、前出の米太平洋艦隊司令官キンメル大将の情報担当将校だったエドウィン・レイトンは、1985年に上梓した回想録「And I was there」の中で、米国の暗号解読チームが「JN25」の解読文を情報分析に使えるようになった42年2月以降のこと、と述べている。しかし、だからといってローズベルトが日本の真珠湾攻撃を知らなかったことにならないし、日本の連合艦隊が一敗地に塗れたミッドウェー海戦が42年6月だったことを考えれば「JS25」の解読がこの戦争の帰趨を大きく左右したことは間違いない。

- 終わりに -

 以上、見てきたように、ブレークニーは、公判開始直後に弁護側から出された動議の一環として行った原爆発言を皮切りに、太平洋戦争段階での日米交渉における弁護側立証や、ソ連段階における抑留者の証人出廷、日ソ不可侵条約に明白に違反したソ連参戦に関する弁護側立証などで弁論を振るった。そのどれもがこの未曽有の戦争の始まりと終わりという極めて重要な局面での出来事であった。そこにおいてブレークニーは、数々の証拠や証言を示しつつ鋭い弁論を展開し、米国やソ連の謀略や欺瞞を暴いて、多くの弁護側要求を勝ち取ったのであった。

 このように華々しい活躍を見せたブレークニーであったが、児島襄の「東京裁判」に、一件だけブレークニーとも思われない、らしからぬエピソードが書かれている。筆者には今、真偽のほどを確かめる術はないが、児島襄に敬意を表して以下にその件を紹介しておく。

1948年4月下旬、畑俊六被告を担当するラザラス弁護人が行った支那事変段階の冒頭陳述に対し、米国のタベナー検事が一部削除を求めたところ、ウエッブ裁判長はこの異議を即座に認めてしまうという出来事があった。ラザラスがなぜ弁護人の説明も聞かずに異議を認めるのか、と猛烈に抗議した結果、とうとう裁判長はその非を認めたのだが、ラザラスと共に畑被告を担当した神崎弁護人は、ある経緯を思い出して感激したというのである。

その経緯とは、米国人弁護人の割り当てを行う際、神崎弁護士は畑被告のためにブレークニーを望んだ。が、ブレークニーはノートを広げて一瞥すると、「畑は死刑組だから」と断った、というのである。若く経験の浅いラザラスに当初は不安を抱いた神崎弁護士も、真面目な態度と能力を見せたラザラスを見直したという訳で、ラザラスを持ち上げる出来事の紹介のために差し挟んだブレークニーのエピソードであるが、裁判全般を通じて見せたブレークニーの姿勢とはかけ離れていて、筆者には、果たして本当だろうか、という気がしてならないのである。

さてそんなブレークニーは、東京裁判が終了して後も日本に残り、東京に法律事務所を開設するかたわら、東大や慶応大で日本の学生をハーバード式に鍛えた。しかし不運にも1963年3月4日、夫人と共に沖縄に向かうため自ら操縦していたセスナ機の遭難事故により死亡した。奇しくもその場所は、松井石根が日中両戦没者慰霊のために建立し、久保山火葬場から掘り出された7名の遺灰が隠された興亜観音のある熱海伊豆山からそう遠くない、天城山であった。享年55歳。

東京裁判の判決が実質的に“上訴審のない確定判決”であったことには先に触れたが、こうしてブレークニーの弁論を中心に東京裁判を追ってみて強く思うことは、裁判官らによって却下された弁護側の数々の動議や証拠及び宣誓口述書などを含めた裁判の全記録と、そこに、この70年間に公開された公文書や発掘された新史料及びそれらに基づく研究成果を合わせ、より公正公平な裁判官、検察官および弁護士の構成を以て、改めて東京裁判の上訴審を開廷し、その判決を聞いてみたい、ということである。

歴史は事実の積み重ねであらねばならない。事実に基づかない言説や特定の意図を持ったプロパガンダを含んだものは歴史とは言えない。ソ連崩壊で東西冷戦が終わったこともあり、各国がそのルールに従って公開し始めた公文書は数多い。各国のルールを見れば、米国は原則25年、機密度により50年、75年であり、東京裁判国際検察局の機密文書や、モスクワと在米ソ連スパイとの通信を傍受した「ヴェノナ文書(Venona)」も公開されている。英国は従来の原則30年を20年に短縮し、それ以外は機密度により個別判断としている。ドイツは原則30年ルール、フランスに至っては、重要機密こそ50年或いは非公開であるが、原則30年ルールは廃止してしまった。

ロシアからもソ連崩壊に伴ってコミンテルンやGRU(ソ連軍参謀本部情報局)などの機密文書、そしてKGBの文書管理官だったミトローヒンが英国に持ち出した秘密文書などが出て来た。それらは盧溝橋事件、西安事件などの他、張作霖爆殺事件でさえもコミンテルンによる工作であることを明らかにしている。例えば盧溝橋事件は、コミンテルンの指示の下に劉少奇麾下の共産党工作隊が、日本軍と国民党軍の両方に発砲して事変を拡大させたものであり、西安事件もコミンテルンが張学良を唆して蒋介石を監禁させ、当時ソ連の実質的な人質であった蒋経国の件で蒋介石を脅して、国共合作に向かわせたことが明らかになっている。

またユン・チアンとジョン・ハリディは「マオ・誰も知らなかった毛沢東」(講談社)で、「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの指示でナウム・エンティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけた」と書き、中国抑留中に犯行を告白した河本大作大佐が、本人の自覚のないままコミンテルンに操られていたことを示唆している。また「孫文夫人で蒋介石の義姉にあたる宋慶齢はソ連のスパイで、圧力団体を結成して南京政府に(日本軍に対する)行動を求めた」と書いている。

米国がソ連崩壊に伴って1995年に公開した「ヴェノナ文書(Venona)」も、ローズベルト政権には多数のソ連スパイが紛れ込んでおり、ヘンリー・モーゲンソー財務長官の下で財務次官補をつとめ、ハルノートを起草したハリー・デクスター・ホワイトや、米国務省高官としてローズベルトを補佐してヤルタ・ポツダムの両会談に加わったアルジャー・ヒスらが、ソ連のスパイであったことを明らかにしている。彼らは共産主義ソ連に協力することで、結果的に日本の弱体化に加担したのだった。

近年の日本の研究者による南京事件の多くの研究も、外国人記者や宣教師らをも使った中国国民党によるプロパガンダの詳細な手口を、丹念な証拠の積み重ねによって解明しているし、GHQが日本の戦前戦中の図書7千冊余りを回収して流通を禁じた所謂「GHQ焚書図書」のうち、収集された約5千冊を西尾乾二氏が順次開封して読み解いてゆく作業が、百数十時間分の番組として既にYou tubeに公開され、単行本も既に十冊が上梓されているのである。

こういう時代であればこそ、「歴史修正主義」という言葉は、これまでのように否定的に使われるべきでものなく、むしろ肯定的に使われるべきものと思うのである。

完 2016.12.13
<追記①>
「歴史修正主義」と呼ばれる人たちが「東京裁判」を云々するたびに、それを非難する人たちが持ち出すひとつのことがある。それは1951年9月8日に日本が連合国と締結したサンフランシスコ平和条約第11条の文言である。日本は東京「裁判」を受け入れたのだから、今更とやかく言うべきでないとの論である。では、サンフランシスコ平和条約第11条には何と書いてあるか、英文、和文の両方で検証してみよう。下線は筆者。

Article 11
Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan, and will carry out the sentences imposed thereby upon Japanese nationals imprisoned in Japan. The power to grant clemency, to reduce sentences and to parole with respect to such prisoners may not be exercised except on the decision of the Government or Governments which imposed the sentence in each instance, and on the recommendation of Japan. In the case of persons sentenced by the International Military Tribunal for the Far East, such power may not be exercised except on the decision of a majority of the Governments represented on the Tribunal, and on the recommendation of Japan.

第十一条
日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている物を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。

同条約の第二十七条は、「この条約は・・ひとしく正文である英語、フランス語及びスペイン語により、並びに日本語により作成した。」と言う。従って、英文も和文もいずれも正文である。そこで近年、色掛けした英文の「the judgments」に対する和文(外務省作成)の「裁判」が、果たして正しいかどうかが盛んに議論されている。例えば、保守派論客の英文学者渡部昇一は、「the judgments」は複数形であるから「諸判決」とされるべきで、「裁判」の和文は正しくないとし、従って日本は東京裁判の「諸判決」を受け入れているのであって「東京裁判」そのものを受け入れているのではないとする。

つまり「東京裁判」が不当であったか否かという問題とは関係なしに、日本は、サンフランシスコ平和条約において、その「諸判決」を受け入れた。被告らも当然に刑に服した。しかし「東京裁判」そのものを受け入れている訳ではないのだから、「東京裁判」の不当性を訴えることはサンフランシスコ平和条約を締結したこととは何ら矛盾しない、という理屈である。

GHQによる日本人洗脳政策「ウォーギルトインフォメーションプログラム(WGIP)」の文書を発掘した関野通夫もこれついて、「確かに一部の英和辞典には『judgment』の意味の一つに『裁判』とある。しかし英英辞典には『裁判』の意味は一切ない、条約の仏文を見れば『裁判』の和文が誤りであるとはより明瞭である」と語る。手許のLongman Active Study Dictionaryは「judgment」・・ 1.[U] the ability to make sensible decisions about situations or people 2.[U,C] a legal decision given by a judge in a court of a law 3.[C,U] your opinion about somethingとあり、裁判を意味する「Trial」或いは「Tribunal」の語はどこにもない。Oxford現代英英辞典の既述も同様である。また和英辞典で「裁判」を引いても「a trial」とあるのみである。
マッカーサー
外務省出身のハト派政治家である加藤紘一はこの議論について、「『judgements』と複数になっているのは、東京裁判以外にも各地で裁判が行われたからだ」と反論している。彼は、中国語には精通していても英英辞典には親しみがなく、また仏語や西語の正文を見てもいないと思われる。仏語と西語の正文は和文の誤訳振りをより明確にする。仏文は「judgements prononces par le Tribunal」(pronounce)すなわち「裁判で宣告された判決」であり、また西語は「sentencias del Tribunal」(sentences)つまり「裁判の判決」である。前者は「裁判で宣告された『裁判ら』」では意味を成さないし、後者は言わずもがなであろう。なぜ和文の正文で「judgements」が「裁判」と誤訳されたのであろうか。

 <追記②>
 関野通夫を引き合いに出したので、「ウォーギルトインフォメーションプログラム(WGIP)」にも触れておこう。「WGIP」とは「War Guilt Information Program」の略称である。「戦争犯罪吹込み計画」とでも訳すべきであろうか。それはGHQによる日本国民の洗脳計画であり、江藤淳が「閉ざされた言語空間」(小学館文庫)の中で、初めてその存在に触れた。江藤はその計画全体を見た訳でなく、一通の文書を示したに過ぎなかったが、近年、関野がそのGHQ内部文書を発掘し、「日本人を狂わせた洗脳工作-WGIP」を2015年3月に自由社からブックレットとして刊行した。

 以下に、江藤の「閉ざされた言語空間」にある「WGIP」についての記述の少し長い一部と、関野の「日本人を狂わせた洗脳工作-WGIP」にある「WGIP」関連重要資料一覧表を紹介する。これらを見ればGHQが「WGIP」と「東京裁判」とを車の両輪として、日本の占領政策を一定の意図の下、極めて周到に計画して推進したことが良く理解できるであろう。

江藤・・「『極東国際軍事裁判』が三十項目に上るCCD(GHQ民間情報検閲支隊)の検閲方針の中で、『削除または』『掲載発行禁止』に相当する事項の三番目に挙げられていることは既に記したが、ここで特筆しておかねばならないのは、CCDの提供する確度の高い情報に基づいて、CI&E(GHQ民間情報教育局)がWGIP(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)なるものを、数次にわたって極めて強力に展開していたという事実である。」

「ここにCI&EからG2(GHQ参謀第二部民間諜報局)に宛てて発せられた一通の文書がある。文書の表題は「WGIP」、日付は1948年2月6日で、同年2月21日から市ヶ谷法廷で開始されたキーナン首席検事の最終弁論に先立つこと僅か5日である。この文書は冒頭でこう述べている。『―CIS(GHQ民間諜報局)局長とCI&E局長及びその代理人の間の最近の会議に基づき、CI&Eはここに同局が、本人の心に国家の犯罪とその淵源に関する自覚を植え付ける目的で開始し、且つこれまでに影響を及ぼしてきた民間情報活動の概要を提出するものである。文書の末尾には勧告が添付されているが、この勧告は、同局が「WGIP」の続行に当たり、且つまたこの「プログラム」を、広島、長崎への原爆投下に対する日本人の態度と、東京裁判中に吹聴されている超国家主義的宣伝への、一連の対抗処置を含むものにまで拡大するに当たって採用されるべき基本的な理念及び一般的または特殊な種々の方法について述べている』。」

「(WGIPは)占領初期の昭和二十年から二十三年に至る段階では、必ずしもCI&Eの期待通りの成果を上げるに至っていなかった。しかし、その効果は、占領が終了して一世代以上を経過した近年になって、次第に顕著なものと成りつつあるように思われる。それは、換言すれば『邪悪』な日本と日本人の、思考と言語を通じての改造であり、更に言えば、日本を日本でない国ないしは一地域に変え、日本人を日本人以外の何者かにしようという企てであった。」

 関野・・「WGIP関連重要資料一覧表」(国会図書館請求番号:CIE(B)00364-00365)

(イ) Memorandum to Section Chief 1945.12.21 CIE 東京裁判に関するInformation Planの通知。内容は裁判の背景(戦犯のクラス分けの定義)、目的及びメディア別の統制の具体的施策など
(ロ) Implementation of First War Guilt Information Program 1945.10月頃? CIE? 表題は第一期WGIPの実施となっており、入手したCIE文書の中でのWGIPの語の初出文書、メディア別の対応策が書かれている
(ハ) General Orders No.27 1946.6.3 GHQ/SCAP 民間情報と教育に関する基本方針の通達、General Orders No.4の改訂で、江藤はNo.4を引用した
(ニ) Implementation of Second War Guilt Information Program 1946年6月? CIE? WGIP第二期のメディア別の計画
(ホ) War Guilt Information Program(Intra-Section Memorandum 1948.2.8 CIEの政策、計画部門 WGIP第三期計画の提案。原爆投下と東條元首相の法廷における陳述を懸念事項として言及している
(ヘ) Proposed War Guilt Information Program(Third Phase) 1948.3.3 CIE 上記(ホ)を、具体的に書いたもの。東京裁判に対する反発への対策が中心課題
(ト) Public Media Coverage of Final Judgements, International Military Tribunal for Far East 1948.8.4 CIE 1945年10月に、CIEはWGIPを始めたこと、東京裁判の法廷や他の部門と協力している事実、東京裁判をメディアにどう報道させるかについてなど

<追記③> 
東京裁判については、それを主催する側であった多くの者の中にも、後年になってそれを否定的に見るようになった者が少なからず存在する。最後に、その中の一人であるこの裁判の主催者であったマッカーサーの、米国上院軍事外交合同委員会における証言を引いておきたい。

1951年5月3日 朝鮮戦争における中国海上封鎖戦略について上院軍事外交共同委員会
Strategy against Japan in World WarⅡ

Senator Hickenlooper. Question No.5;  Isn’t your proposal for sea and air blockade of Red China the same strategy by which Americans achieved victory over the Japanese in the Pacific?
General MacArthur. Yes, sir. In the Pacific we bypassed them. We closed in. You must understand that Japan has enormous population of nearly 80 million people, crowded into 4 islands. It was about half a farm population. The other half was engaged in industry.
Potentially the labor pool in Japan, both in quantity and quality, is as good as anything that I have ever known. Some place down the line they have discovered what you might call the dignity of labor, that men are happier when they are working and constructing than they are idling.
This enormous capacity for work meant that they had to have something to work on. They built the factories they had the labor but they didn’t have the basic materials.
There is practically nothing indigenous to Japan except silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin they lack rubber, they lack a great many other things, all of which was in the Asiatic basin.
They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.

(邦訳)第二次大戦における対日戦略

ヒッケンルーパー 問五; 赤化支那(中共)を海と空から封鎖してしまうという貴官の提案は、米国が太平洋において日本に対する勝利をおさめた際のそれと同じ戦略なのではありませんか?
 マッカーサー元帥; その通りです。我々は太平洋において彼らを迂回しました。我々は包囲したのです。日本は8千万人に近い多くの人口を抱え、四つの島の中に犇めいていることを、我々は理解せねばなりません。その半分が農業に、半分が工業に従事していました。
 日本の擁する労働者は、量的にも質的にも、私がこれまで知るだれよりも潜在的に良質です。日本の労働者は、人間は怠けているよりも、働いて作り上げることの方が幸せであること、即ち、働くことの尊さ、ということを何時の頃からか発見していたのです。
 これほど膨大な労働力を持つことは、働くための何かを必要とすることを意味します。彼らは工場を建設して労働力を持っていましたが、粗原料を持っていませんでした。
 日本には蚕以外に固有の産物がないのです。彼らには綿がない、羊毛がない、石油製品がない、錫がない、ゴムがない。実に多くのものが不足していて、それらのすべてがアジアの地域には存在していました。
 もしこれらの原料の供給を絶たれたら、1千から12百万人の失業者が出るであろうことを彼らは恐れていた。従って、彼らが戦争に突き進んだ目的は、その多くが安全確保によって影響されたものでありました。 

参考文献
「パル判決書 上下」(東京裁判研究会 講談社学術文庫)
「東京裁判への道」(粟屋憲太郎 講談社学術文書)
「私の見た東京裁判 上下」(冨士信夫 講談社学術文庫)
「東京裁判 日本の弁明」(小堀桂一郎 講談社学術文庫)
「国際シンポジウム 東京裁判を問う」(細谷、安藤、大沼 講談社学術文庫)
「秘録 東京裁判」(清瀬一郎 中公文庫)
「パール判事の日本無罪論」(田中正明 小学館文庫)
「東京裁判 勝者の裁き」(リチャード・マイニア 福村出版)
「東京裁判」(日暮吉延 講談社現代新書)
「東京裁判 上下」(児島襄 中公新書)
「ディベートから見た東京裁判」(北岡俊明 PHP研究所)
「東京裁判を批判したマッカーサー元帥の謎と真実」(吉本貞昭 ハート出版)
「真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々)」(ロバート・スティネット 文藝春秋社)
「日本人を狂わせた洗脳工作」(関野通夫 自由社)
「滞在十年 上下」(ジョセフ・グルー ちくま学芸文庫)
「落日燃ゆ」(城山三郎 新潮社)
「昭和の精神史」(竹山道雄 講談社学術文庫)
「日本経済を殲滅せよ」(エドワード・ミラー 新潮社)
「なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか」(日高義樹 PHP研究所)
「太平洋戦争とは何だったのか」(クリストファー・ソーン 草思社)
「昭和史を読み解く」(鳥居民 草思社)
「日米開戦の謎」(鳥居民 草思社)
「昭和二十年 第一部・12」(鳥居民 草思社)
「アメリカの鏡・日本」(ヘレン・ミアーズ 角川学芸出版)
「マオ 誰も知らなかった毛沢東」(ユン・チアン&ジョン・ハリディ 講談社)
「コミンテルンとルーズベルトの時限爆弾」(江崎道朗 展転社)
「歴史の書き換えが始まった!コミンテルンと昭和史の真相」(小堀桂一郎・中西輝政 明成社)
「ヤルタ-戦後史の起点」(藤村信 岩波書店)
「ホワイトハウス日記1945-1950」(イーブン・エアーズ 平凡社)
「ポツダム会談」(チャールズ・ミー 徳間書店)
「黙殺 上下」(仲晃 日本放送出版協会)
「戦後秘史 ②天皇と原子爆弾」(大森実 講談社)
「日本人はなぜ終戦の日付をまちがえたのか」(色摩力夫 黙出版)
「奇蹟の今上天皇」(小室直樹 PHP研究所)
「天皇ヒロヒト 上下」(レナード。モズレー 角川文庫)
「宰相 鈴木貫太郎」(小堀桂一郎 文春文庫)
「GHQ歴史課陳述録 終戦史資料 上」(原書房)
「Foreign Relations of the United States: Diplomatic Papers, Potsdam/Yalta」(ネットサイト)
                以上

<付録>ポツダム宣言原文と外務省仮訳
The Potsdam Declaration
(1) We, the president of the United States, the President of the national government of the republic of China and the prime minister of Great Britain, representing the hundreds of millions of our countrymen, have conferred and agree that japan shall be given an opportunity to end this war.
一 吾等合衆國大統領、中華民國政府主席及グレート、ブリテン國總理大臣ハ吾等ノ數億ノ國民ヲ代表シ協議ノ上日本國ニ對シ今次ノ戰爭ヲ終結スルノ機會ヲ與フルコトニ意見一致セリ
(2) The prodigious land, sea and air forces of the United States, the British Empire and of China, many times reinforced by their armies and air fleets from the west are poised to strike the final blows upon japan. This military power is sustained and inspired by the determination of all the allied nations to prosecute the war against Japan until she ceases to resist.
二 合衆國、英帝國及中華民國ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自國ノ陸軍及空軍ニ依ル數倍ノ増強ヲ受ケ日本國ニ對シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ 右軍事力ハ日本國ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同國ニ對シ戰爭ヲ遂行スル一切ノ聯合國ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
(3) The result of the futile and senseless German resistance to the might of the aroused free peoples of the world stands forth in awful clarity as an example to the people of Japan. The might that now converges on Japan is immeasurably greater than that which, when applied to the resisting Nazis, necessarily laid waste to the lands, the industry and the method of life of the whole German people. The full application of our military power, backed by our resolve, will mean the inevitable and complete destruction of the Japanese armed forces and just as inevitably the utter devastation of the Japanese homeland.
三 蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ對スルドイツ國ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本國國民ニ對スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ 現在日本國ニ對シ集結シツツアル力ハ抵抗スルナチスニ對シ適用セラレタル場合ニ於テ全ドイツ國人民ノ土地産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廢ニ歸セシメタル力ニ比シ測リ知レザル程度ニ強大ナルモノナリ 吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本國軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本國本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ
(4) The time has come for Japan to decide whether she will continue to be controlled by those self-willed militaristic advisers whose unintelligent calculations have brought the Empire of Japan to the threshold of annihilation, or whether she will follow the path of reason.
四 無分別ナル打算ニ依リ日本帝國ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍國主義的助言者ニ依リ日本國ガ引續キ統御セラルベキカ又ハ理性ノ經路ヲ日本國ガ履ムベキカヲ日本國ガ決定スベキ時期ハ到來セリ
(5) Following are our terms. We will not deviate from them. There are no alternatives. We shall brook no delay.
五 吾等ノ條件ハ左ノ如シ。吾等ハ右條件ヨリ離脱スルコトナカルベシ 右ニ代ル條件存在セズ 吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ
(6) There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest - for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.
六 吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ
(7) Until such a new order is established and until there is convincing proof that Japan's war-making power is destroyed, points in Japanese territory to be designated by the allies shall be occupied to secure the achievement of the basic objectives we are here setting forth.
七 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本國ノ戰爭遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確證アルニ至ル迄ハ聯合國ノ指定スベキ日本國領域内ノ諸地點ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ
(8) The terms of the Cairo declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.
八 カイロ宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
(9) The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.
九 日本國軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復歸シ平和的且生産的ノ生活ヲ營ムノ機會ヲ得シメラルベシ
(10) We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.
十 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意圖ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ
(11) Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in war. To this end, access to, as distinguished from control of raw materials shall be permitted. Eventual Japanese participation in world trade relations shall be permitted.
十一 日本國ハ其ノ經濟ヲ支持シ且公正ナル實物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ 但シ日本國ヲシテ戰爭ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ 右目的ノ爲原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ區別ス)ヲ許可サルベシ 日本國ハ將來世界貿易関係ヘノ參加ヲ許サルベシ
(12) The occupying forces of the allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government.
十二 前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ從ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ
(13) We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all the Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for japan is prompt and utter destruction.
十三 吾等ハ日本國政府ガ直ニ全日本國軍隊ノ無條件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適當且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ對シ要求ス右以外ノ日本國ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス(外務省仮訳文)

  <追記⑤>Japan's Surrender Communiqués
Japan's Surrender Communiqués
Max Grässli, James F. Byrnes, the Government of Japan, Harry S. Truman
Contents
1 Japan's First Surrender Offer
2 Reply to Japan's First Surrender Offer
3 Notification to the Japanese Government
4 Japan's Final Note
5 Announcement of Japan's Acceptance of the Potsdam Proclamation

Japan's First Surrender Offer
August 10, 1945
The Honorable James F. Byrnes, Secretary of State
Sir: I have the honor to inform you that the Japanese Minister to Switzerland, upon instructions received from his Government, has requested the Swiss Political Department to advise the Government of the United States of America of the following: In obedience to the gracious command of his Majesty the Emperor who, ever anxious to enhance the cause of world peace, desires earnestly to bring about a speedy termination of hostilities with a view to saving mankind from the calamities to be imposed upon them by further continuation of the war, the Japanese Government several weeks ago asked the Soviet Government, with which neutral relations then prevailed, to render good offices in restoring peace vis a vis the enemy power. Unfortunately, these efforts in the interest of peace having failed, the Japanese Government in conformity with the august wish of His Majesty to restore the general peace and desiring to put an end to the untold sufferings entailed by war as quickly as possible, have decided upon the following.
The Japanese Government are ready to accept the terms enumerated in the joint declaration which was issued at Potsdam on July 26, 1945, by the heads of the Governments of the United States, Great Britain, and China, and later subscribed by the Soviet Government with the understanding that the said declaration does not comprise any demand which prejudices the prerogatives of His Majesty as a Sovereign Ruler.
The Japanese Government sincerely hope that this understanding is warranted and desire keenly that an explicit indication to that effect will be speedily forthcoming.
In transmitting the above messages the Japanese Minister added that his Government begs the Government of the United States to forward its answer through the intermediary of Switzerland. Similar request are being transmitted to the Governments of Great Britain and the Union of Soviet Socialist Republics through the intermediary of Sweden, as well as to the Government of China through the intermediary of Switzerland. The Chinese Minister at Berne has already been informed of the foregoing through the channel of the Swiss Political Department.
Please be assured that I am at your disposal at any time to accept for and forward to my Government the reply of the Government of the United States.
Accept [etc.]
Grässli
Chargé d' Affaires ad interim of Switzerland

Reply to Japan's First Surrender Offer
August 11, 1945
Mr. Max Grässli
Chargé d' Affaires ad interim of Switzerland
Sir: I have the honor to acknowledge receipt of your note of August 10, and in reply to inform you that the President of the United States has directed me to send you for transmission to the Japanese Government the following message on behalf of the Governments of the United States, the United Kingdom, the Union of Soviet Socialist Republics, and China:
"With regard to the Japanese Government's message accepting the terms of the Potsdam proclamation but containing the statement, 'with the understanding that the said declaration does not comprise any demand which prejudices the prerogatives of His Majesty as a sovereign ruler,' our position is as follows:
"From the moment of surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.
"The Emperor will be required to authorize and ensure the signature by the Government of Japan and the Japanese Imperial General Headquarters of the surrender terms necessary to carry out the provisions of the Potsdam Declaration, and shall issue his commands to all the Japanese military, naval and air authorities and to all the forces under their control wherever located to cease active operations and to surrender their arms, and to issue such other orders as the Supreme Commander may require to give effect to the surrender terms.
"Immediately upon the surrender the Japanese Government shall transport prisoners of war and civilian internees to places of safety, as directed, where they can quickly be placed aboard Allied transports.
"The ultimate form of government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people.
"The armed forces of the Allied Powers will remain in Japan until the purposes set forth in the Potsdam Declaration are achieved."
Accept (etc.)
James F. Byrnes
Secretary of State

Notification to the Japanese Government
August 11, 1945
Mr. Max Grässli, Esquire
Chargé d' Affaires ad interim of Switzerland
With reference to your communication of today's date, transmitting the reply of the Japanese Government to the communication which I sent through you to the Japanese Government on August 11, on behalf of the Governments of the United States, China, the United Kingdom, and the Union of Soviet Socialist Republics, which I regard as full acceptance of the Potsdam Declaration and of my statement of August 11, 1945, I have the honor to inform you that the President of the United States has directed that the following message be sent to you for transmission to the Japanese Government:
"You are to proceed as follows:
"(1) Direct prompt cessation of hostilities by Japanese forces, informing the Supreme Commander for the Allied Powers of the effective date and hour of such cessation.
"(2) Send emissaries at once to the Supreme Commander for the Allied Powers with information of the disposition of the Japanese forces and commanders, and fully empowered to make any arrangements directed by the Supreme Commander for the Allied Powers to enable him and his accompanying forces to arrive at the place designated by him to receive the formal surrender.
"(3) For the purpose of receiving such surrender and carrying it into effect, General of the Army Douglas MacArthur has been designated as the Supreme Commander for the Allied Powers, and he will notify the Japanese Government of the time, place and other details of the formal surrender."
Accept [etc.]
James F. Byrnes
Secretary of State

Japan's Final Note
Note of August 14, 1945 sent to the governments of the United States, Great Britain, China and the Soviet Union
The Japanese Government would like to be permitted to state to the Governments of America, Britain, China and the Soviet Union what they most earnestly desire with reference to the execution of certain Provisions of the Potsdam Proclamation. This may be done possibly at the time of the Signature. But fearing that they may not be able to find an appropriate opportunity, they take the liberty of addressing the Governments of the four Powers through the good offices of the Government of Switzerland.

  1. In view of the fact that the purpose of occupation as mentioned in the Potsdam Proclamation is solely to secure the achievement of the basic objectives set forth in the said Proclamation, the Japanese Government sincerely desire that the four Powers, relying upon the good faith of the Japanese Government, will facilitate discharge by the Japanese Government of their obligations as to forestall any unnecessary complications.
    It is earnestly solicited that :
    (a) In case of the entry of Allied fleets or troops in Japan Proper, the Japanese Government be notified in advance, so that arrangements can be made for reception.
    (b) The number of the points in Japanese territory to be designated by the Allies for occupation be limited to minimum number, selection of the points be made in such a manner as to leave such a city as Tokyo unoccupied and the forces to be stationed at each point be made as small as possible.
  2. Disarming of the Japanese forces, being a most delicate task as it involves over three millions of officers and men overseas and having direct bearing on their honour, the Japanese Government will, of course, take utmost pains. But it is suggested that the best and the most effective method would be that under the command of His Majesty the Emperor, the Japanese forces are allowed to disarm themselves and surrender arms of their own accord.
    Disarming of the Japanese forces on the Continent be carried out beginning on the front line and in successive stages.
    In connection with the disarming it is hoped that Article 35 of the Hague Convention will be applied, and the honour of the soldier will be respected, permitting them, for instance, to wear swords. Further, the Japanese Government be given to understand the Allies have no intention to employ disarmed Japanese soldiers for compulsory labour. It is sincerely hoped that shipment and transportation facilities necessary for the evacuation of the soldiers to their homeland will be speedily provided.
  3. Since some forces are located in remote places, difficult to communicate the Imperial order, it is desired that reasonable time be allowed before the cessation of hostilities.
  4. It is hoped that the Allies will be good enough quickly to take necessary steps or extend us facilities for the shipment of indispensable foodstuffs and medical supplies to Japanese forces in distant islands, and for the transport of wounded soldiers from those islands.

    Announcement of Japan's Acceptance of the Potsdam Proclamation
    Statement by Harry S. Truman, August 14, 1945.
    I have received this afternoon a message from the Japanese Government in reply to the message forwarded to that Government by the Secretary of State on August 11. I deem this reply a full acceptance of the Potsdam Declaration which specifies the unconditional surrender of Japan. In the reply there is no qualification.
    Arrangements are now being made for the signing of the surrender terms at the earliest possible moment.
    General Douglas MacArthur has been appointed the Supreme Allied Commander to receive the Japanese surrender. Great Britain, Russia, and China will be represented by high-ranking officers.
    Meantime, the Allied armed forces have been ordered to suspend offensive action.
    Proclamation of V-J Day must wait upon the formal signing of the surrender terms by Japan.
    The following is the Japanese Government's message accepting our terms:
    Communication of the Japanese Government of August 14, 1945, addressed to the Governments of the United States, Great Britain, the Soviet Union, and China:
    With reference to the Japanese Government's note of August 10 regarding their acceptance of the provisions of the Potsdam declaration and the reply of the Governments of the United States, Great Britain, the Soviet Union, and China sent by American Secretary of State Byrnes under the date of August 11, the Japanese Government have the honor to communicate to the Governments of the four powers as follows:
  5. His Majesty the Emperor has issued an Imperial rescript regarding Japan's acceptance of the provisions of the Potsdam declaration.
  6. His Majesty the Emperor is prepared to authorize and ensure the signature of his Government and the Imperial General Headquarters of the necessary terms for carrying out the provisions of the Potsdam declaration. His Majesty is also prepared to issue his commands to all the military, naval, and air authorities of Japan and all the forces under their control wherever located to cease active operations, to surrender arms and to issue such other orders as may be required by the Supreme Commander of the Allied Forces for the execution of the abovementioned terms.
                                        以上

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です