小川先生のエッセイ
▶思い出の二人の少年(小川省二先生)

昭和二十三年、当時、私は横須賀高校の野球部の監督をしていました。その頃、県商工(神奈川県立商工高等学校)に練習試合でこちらにきてもらったことがあります。 その商工チームで一際、がっしりとした体格の選手に私が「君、名前は」 […]

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小川先生のエッセイ
▶母の祈り(小川省二先生)

二十七年前、私の母は九十四歳で亡くなった。母は利発ではあったが無学であり、文字もろくに読めない、ただただ優しい人であった。今年、その九十四歳に私もなった。 九十歳を過ぎ足腰が弱り、家から出られなくなった。その頃の母の一日 […]

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小川先生のエッセイ
▶I君のこと(小川省二先生)

六十半ばを過ぎた私の弟にI君という大学時代からの親友がいる。彼らの家族ぐるみの深い付き合いは四十年以上も続いている。 そのI君は学生の頃、月に一度は東京の下宿から横須賀の私の実家にやってきた。やって来ると一週間から十日は […]

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小川先生のエッセイ
▶ある不倫(小川省二先生)

鎌倉瑞泉寺の裏山に相模湾が一望できる東屋がある。私は若い頃、春の彼岸の中日、夕方いつもここにくることにしていた。この日、富士山の真上に夕日が降りる、それを見る為である。落日が頂上に近ずくと、白い富士の山肌が茜色に染まり日 […]

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小川先生のエッセイ
▶父の”お話”(小川省二先生)

私の父は、醸造業を営んでいて、時間に余裕のあったせいか、私の幼い頃からかなり成人するまで暇さえあれば"お話"をしてくれた。自分の子供の頃の話、田舎に伝わる昔話、父の父母のこと、友達のこと、小説、歌、相撲、絵、科学、落語、 […]

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小川先生のエッセイ
▶ある出会い(小川省二先生)

昭和三十二年秋、当時鎌倉に住んでいた私達夫婦が連れ立って、由比ガ浜通りを歩いていた時のことである。ゆるゆるとこちらに歩いてくる小柄な和服姿の老人と擦れ違った。擦れ違いざま立ち止まり気味に身体をねじると、そのギョロリとした […]

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小川先生のエッセイ
▶仰げば尊し(小川省二先生)

私の現役最後の年、その二月の初め頃であった。数人の三年生が校長室にやって来て 「僕達は卒業式委員会の者なのですが、本校で今まで卒業式の式次第に無い、仰げば尊しを今回歌いたいと思うのですが」 「それはいいね。では次の職員会 […]

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小川先生のエッセイ
▶先生は往生際が悪い(小川省二先生)

私は、終戦間もない昭和二十二年から18年間、横須賀高校で教壇に立っていました。ここは戦前の軍関係住民が多い土地柄であり、軍人遺族の子弟も多数おりました。その生活状態を物語るように、着任して数年間は在校生の半数ちかくが下駄 […]

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小川先生のエッセイ
▶教師の生きがい(小川省二先生)

昭和五十年に始まった日教組の主任制度反対闘争は田中角栄首相が「学校の先生はお気の毒だ。職場には一般教員と教頭、校長の三つの段階しかない」と言ったことが発端といわれている。首相は会社、官僚組織を見る目で教員の職場を見たので […]

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