▶最後の将軍徳川慶喜の魅力(高22期 松原 隆文)

今年の2月、投稿デビューした際はいきなり「兵庫開港問題」を載せ、いかにも唐突であったと、若干反省をしている。言い訳になるが、去年10月、横浜南ロータリークラブで講演をし、この問題を取り上げたので、原稿を少し修正して載せたものだ。

私は昭和54年以来の徳川慶喜のファンだ。その切っ掛けは、今はもう廃刊になってしまったが、当時の月刊誌「歴史読本」が、慶喜の特集を組み、表紙に彼の狩衣姿の写真を載せたことによるものだ。なにしろ聡明そのものの近代的な顔立ちをした二枚目だった。この写真を見て以来、慶喜の研究を続けている。

慶喜のどこに惹かれるのか?一言で言えば、彼が「完璧な敗者」だからであろうか?敗者はその判断を誤ることが多い。しかし彼は1ミリも判断を誤ることなく敗者を全うしている。これは俗凡には出来ることではない。長年の慶喜ファンが昂じて、2019年には、新書版サイズの「最後の将軍徳川慶喜の苦悩」というタイトルで出版し、2021年にはその増補改訂版を出した。畏友の高橋克己氏には原稿全部の校正をしてもらった。

少し自慢話になってしまうが、この増補改訂版を慶喜研究の第一人者である、家近良樹教授に送ったら、なんと返事が来て、葉書だがびっしり感想が書いてあった。 まあ合格かな、と思っている。彼は一般的人気が無い。又、歴史家の評価も総じて低い。 私は、徳川慶喜という人は、生まれるのが100年以上早かったのではないか?と思っている。

小生は歴史が好きだが、慶喜研究には一区切りがついたので、これからは、仏教伝来以前の日本人の宗教感情の古層を知りたいと思っている。どなたか詳しい人はいませんか?

    ▶最後の将軍徳川慶喜の魅力(高22期 松原 隆文)” に対して8件のコメントがあります。

    1. 高22期伴野 明 より:

      松原さんへ
      貴殿がこの冒頭で書かれた通り、「兵庫開港問題」はこの談話室では異例の投稿でした。「ジャンルは問いませんが、いつかは誰かがそのような専門的とも言える記事を載せるのかな……」と思っていたのですが、確かに唐突でした。
      とは言え、「兵庫に、こんな問題があったとは」と大いに注目しました。読んでみて、やはり難しかった。歴史に弱い(知識がない)私にとっては。
      今回の徳川慶喜については、
      『慶喜のどこに惹かれるのか?一言で言えば、彼が「完璧な敗者」だからであろうか?敗者はその判断を誤ることが多い。しかし彼は1ミリも判断を誤ることなく敗者を全うしている。これは俗凡には出来ることではない。』ここが核心であると思えますが、どんな事があったのか記述はありません。一部でも良いのですが、そのエピソードが知りたいのです。

    2. 松原隆文 より:

      話し出すとキリが無いないのですが、少し述べてみますね。
       ご承知の通り、日本近代化の主導権を巡る天下分け目の鳥羽伏見の戦いで、徳川軍は惨敗します。
      慶喜は主戦論を断固退け、徹底的に恭順し、内乱を防止しています。戦争は始めるときは勢いが良いのですが、敗戦を認めて、これを止めることは至難の業です。意地、体面、戦争責任の追及、地位の喪失等々戦争遂行者はなかなかこれを止める決断が出来ません。
       慶喜は、抗戦を避け、徹底して恭順しています。どの国も近代化を成し遂げるために産みの苦しみを経験します。アメリカは南北戦争で国を分断したし、フランス革命の犠牲者はざっと200万人であります。これに比べ、戊辰の内乱の犠牲者は約10万人で、近代化を成し遂げた国の中では極端に少ないのですね。慶喜が意地を張って抗戦していれば、犠牲者はもっと増えたでしょうね。

    3. 高22期伴野 明 より:

      ご説明、ありがとうございます。なるほど、これは日本人的というか、海外の情報に乗せられた、当時の主戦論派の対極にあった納め方ですね。現代の政治家に慶喜的な人がいれば良いのですが。

    4. 高橋克己 より:

      私が「原稿全部の校正」をしたといっても、かねて松原氏が連載していたブログを「ワード」に落としていたので、検索機能を使って頻出する書き癖や前後の表現の矛盾などをいくつか指摘したに過ぎないのですよ。
      それより今回、氏が慶喜の「完璧な敗者」振りに惹かれたことを初めて知りました。私は「完璧な敗者」という一語を見て、ハタと思い付くことがあります。それは、昭和天皇を終戦のご聖断に導いた鈴木貫太郎と山本玄峰禅師の話です。
      詳しくは「アゴラ」の以下の拙稿をお読み願うとして、そのさわりを述べれば大要次のようです。
      *「我執を捨てれば日本と日本人が救われるかも知れぬ話」https://agora-web.jp/archives/2050451.html
      *「昭和天皇とマッカーサー、そして吉田茂の45年9月27日」https://agora-web.jp/archives/220926011657.html#google_vignette
      鈴木は、東条のあと自分に大命が下るとの話を聞いて固辞します。が、それを知った玄峰は「軍人だから」と渋る鈴木にこう言います。
      ―力で立つ者は力で滅び、金で立つ者は金で滅びる。徳で立つ者は永遠じゃ。一国の総理は世の中の善い悪いも知り尽くした人にしか務まらぬ。あなたのような素直な、正直な人は向かないが、こういう非常時こそ金も名誉も要らぬ尽忠無私の人がいるのです―
      共産党の闘士から転向して玄峰に弟子入りした田中清玄は、玄峰が次のようなやり取りの中で「本土決戦や聖戦完遂は、我執にとらわれている」と述べたと「自伝」に書いています。
      清玄は玄峰に「これから日本はどうするか」と問われ、「日本は敗けて戦争をやめるしかありません」というと、玄峰はこういったそうです。
      ―そうじゃ、日本は大関だから奇麗に敗けにゃいかん。大関は勝つも綺麗、敗けるも綺麗、取的の様に勝負に拘っては大怪我をする―
      玄峰は鈴木にも同じ話をしたに相違ありません。斯くて、鈴木は昭和天皇をして日本を「完璧な敗者」に導いたと私は思います。吉田茂もこの話を座右の銘に、講和会議に臨んだそうです。
      なお、田中愛彦早大総長は清玄の息子です。

    5. 松原隆文 より:

      要するに対米戦争で、当時の政治家は、開戦宣言は出来ても、終戦宣言は出来なかったのですね。だから神聖不可侵の天皇に終戦宣言をお願いしたんですね。
       慶喜は、神聖不可侵ではないので、大阪城で主戦派が徹底抗戦を主張したとき、「そこからいなくなる」という行動を選択するほかなかったのだと推測します。今日に至っても、この行動を卑怯だとか腰抜けだとか散々批判され続けておりますが、国益を考えれば最良の選択だったと、小生は確信しております。

    6. 松原隆文 より:

      廣瀬殿
      真にありがとうございます。この写真なんですよ。
      慶応3年3月25日、大坂城でパークスを謁見した時、英国第9騎兵連隊のサットン大佐が撮影したものです。私は、謁見に臨む若き将軍の勇姿かと思いましたが、謁見のあとのようですね。このあと英国騎兵の閲兵を行っているので、辻褄が合います。
      凜として辺りを払う気品、上品で知的な顔立ち、完璧と思うのは私だけでしょうか?

      1. 廣瀬隆夫 より:

        良い写真ですね。他の写真を何枚か拝見させていただきましたが、一番ですね。鼻筋が通っていて、賢そうな凛々しい顔つきですね。

    7. 松原隆文 より:

      幕末の大勢の有名人の写真と何か異なるんですね。多分、近代的な雰囲気を漂わせているからなんでしょうね。これを見て私は魅せられたんですよ!
      語り出すと切りがないのでもうやめますね。

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