▶ある不倫(小川省二先生)

鎌倉瑞泉寺の裏山に相模湾が一望できる東屋がある。私は若い頃、春の彼岸の中日、夕方いつもここにくることにしていた。この日、富士山の真上に夕日が降りる、それを見る為である。落日が頂上に近ずくと、白い富士の山肌が茜色に染まり日が頂上にかかるや、その動きが肉眼で見分けられる程の速さで沈んでゆく、沈み終わるとシルエットになった富士山の裏側が黄金色に輝く、この息を呑むような数分間の自然美を毎年この東屋で一人満喫していたのである。

昭和三十三年、その年も私は東屋への石段を登っていた。と、頭上で話し声がする「誰か来ている」案の定、東屋には長身の老紳士と和服姿の初老の婦人がいて、二人して私に軽く会釈した。私にはその老紳士が写真で見知っていた大佛次郎さんであることはすぐ判った。「夕日の見物ですか、僕もここが好きで昔からよく来るんですよ」と、大佛さんが話しかけてこられた。大佛さんは判ったが、どうやら奥様ではないらしい老婦人は誰だか判らない、それにしても驚いた、何と奇麗な人だろう、顔立ちの美しさもさることながら落ち着きのある澄んだ瞳、陶器のように艶やかな頬、首筋から、肩にかけて、匂うような品の良い色香が漂っている、着物の着こなしも只事ではない、誰だろう。

大佛さんにすっと寄り添って立つ姿が、どうかすると前の景色の中にふわりと溶け込んで消えてしまいそうに思える儚さを私に感じさせるのは何故だろう。別れ際に大佛さんが色々お話しましたね、楽しかった。来年もできたらお会いしましょうと言って下さったが、以後会うこともなく、昭和四十八年に他界されてしまった。

平成七年、知人の一周忌にその墓参りで鎌倉の寿福寺を訪れた。この寺には、北条政子、高浜虚子、野尻泡影などの墓と共に大佛さんの墓もある。ふと、大佛さんの墓にいくつかの真新しい塔婆が立っているのを見て、大佛さんが亡くなってからの歳月を数えた。今年が「そうか、二十三回忌か」と気付いた。墓に近づいて、その塔婆の中に”武原はん”という字を見つけて私は思わず「あー」と思った。例の東屋でのあと、何げなく見ていたテレビの中で舞っている人があの初老の婦人であり地唄舞の”武原はん”さんであることを知ったのであった。

お二人の関係が色々取り沙汰された時があったという話を私が耳にしたのは大佛さんが亡くなって十年以上経ってからであった。その時はあ、やはりそうだったのかと思っただけであった。あれからもう四十年近い歳月が流れている。今、この真新しい塔婆に書かれている”武原はん”という文字を見ていると、ひたすらな変わらぬ深い思いが痛い程伝わってくる。これは不倫ではない、もはや純倫(?)といった方が良いのではないかと私は思った。

大佛さんの生誕百年の記念行事が大佛さんゆかりの各地で行われている今年、”武原はん”さんも二月五日に九十五歳の生涯を終えた。その新聞報道に添えられた地唄「雪」を舞う”武原はん”さんの美しい写真を眺めながら、私は、遠い昔になった東屋でのお二人の姿に思いを馳せ、時の流れをしみじみと感じていたのであった。(平成九年 小川省二)
・神奈川県立高等学校退職校長会 平成十年記(有朋)掲載

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