▶横須賀高校(第四中学)初代校長 吉田庫三先生
■ 略歴
吉田庫三(よしだくらぞう)先生は、松陰の妹である千代の息子として慶応3(1867)年に生まれました。吉田松陰は29歳で安政の大獄で刑死しましたが、文久2年(1862)11月28日、江戸幕府から安政の大獄赦が出されたことにより吉田家を再興することになり、11歳の時に第11代として家督を継ぎました。
漢学者を志して東京の二松学舎に学び、明治27年(1894)には、女子高等師範学校の教授となりました。後に、鳥取県立第一中学校長や神奈川県立第二中学校(現在の県立小田原高校)長などを歴任し、明治41年に、41歳の時に横須賀高校の前身の神奈川県立第四中学校長に任命されました。
吉田庫三先生は、当時の神奈川県知事であった長州藩出身の周布公平(すふこうへい)氏と同郷であり気心の知れた仲でした。二度も新設中学の校長に招いていることから吉田庫三先生の教育者としての経験を高く評価したことが分かります。
吉田先生の教育方針の基本は、子どものころ、故郷の松下村塾で叩き込まれた「松蔭哲学」でした。「国のために役立つ青年をつくる」というのが大方針で、そのために「人間は高い品性を持たなければならない」結果として「生徒を一人前の大人とみて、教師ともども厳しい修養を重ねることが肝要」という考え方でした。吉田先生が作った生徒心得には、敬礼の仕方、服装、自修方法に至る12章61条の細かい規則が記されていました。吉田庫三校長の「日本の礎になる人材になれ」という大号令のもと「文武両道」と「自主自律」を掲げ、規律正しく厳格でありながら自由を重んじる校風が形成されていきました。
吉田庫三先生は、横中に在任中の大正11年(1922)6月2日、脳膜炎のため、惜しまれつつ、この世を去りました。享年54歳でした。
葬儀は、不入斗の西来寺で行われました。当時は、自動車がありませんでしたので、先生の棺を乗せた車を人が引いて、横須賀中学から歩いて不入斗まで歩きました。その時の葬列が不入斗までずっと続いていたそうです。吉田庫三先生の菩提寺は、山口県萩市の浄土真宗本願寺派の潮音山 泉福寺です。機会があれば、お墓参りに行きたいと思っています。
■ 吉田庫三先生の言葉
「わしの評判が、父兄からよろしかったら、わしの教育はダメだ。評判が悪かったら良い教育をやっていると思ってもらいたい」
着任早々、県におもむき公言したと云われています。
「教職員全体を一家族と見なす。従って、校長は教職員の行動について公私ともに戒告を試みることもあるかもしれない。君たちは、生徒の指導には愛情と威厳をもって接してもらいたい」
明治41年(1908)4月、第四中学の開校を前にして教職員に与えた厳しい訓示が伝えられています。
【参考】
わが母校 わが友 毎日新聞横浜支局 1976年3月1日
黒船写真館(横須賀人物往来)
ウイキペディア(吉田庫三)
タウンニュース