江戸しぐさ第三講 江戸の街のイメージ
【江戸の町とは】
次に江戸の町はどんなだったかをお話しましょう。これは、歴史にもあることですので、ご存知の方も多いと思いますが、入府が1603年、今年は2003年でちょうど400年に当たるわけですけれども、とにかく徳川時代の平和は268年5ヶ月、気の遠くなるほど長い間、続いたわけですよ。これは、世界でもまれなわけです。その間、外国も攻めない、侵略もされないという太平が続いたわけですね。そう言う意味では、文化、英語でカルチャーというのは、本来は耕すという意味でしょ、戦争をしてないんで、それが、すごく育ったわけです。昭和の時代、私が物心ついてからは、戦争がずっと続いていたわけですが、江戸は、本当に平和だったわけです。
徳川家康は、ほんの一漁村にすぎない、江戸の将来に対して、「水清く、入り江のありて、まな豊か、四方見渡せる、商いの町」という句に首都の条件を当てはめたんですね。水が豊かだったんでしょうね。そして深い入り江があり、まな豊かというのは、魚が沢山とれるということ、お魚を料理する板をまな板っていいますね。江戸の人たちは、おんまな板って言ったそうですが、それを子供が、おんまいたといっていたようです。まなっていうのは、そういう意味があります。四方が見渡せる町として、3年間慎重な準備をして入府されます。そして100年も経たないうちに、世界の大都市に変貌していくわけです。言葉も風習も違う人々が全国津々裏々から集まって来ましたから、江戸は異文化のるつぼだったんです。当時の青森弁と九州弁を比べたら、今の外国語より違うんじゃないかしら。
【江戸は女性上位】
江戸しぐさというのは、江戸の町方の話であることを頭に入れておいてください。武士の世界は葉隠れとかそういうのが別にあるんです。江戸の下町は城下町だったんですね。自主自立の特殊な町だったんです。これも、いろいろと経緯がありまして、参勤交代や出稼ぎの男性、いわゆる単身者が多くて、アメリカの西部開拓時代のように、女性の天下で女性上位だったし、離婚も盛んだったということでした。かなり自由だったんですよ。高木先生が三下り半の研究をやっていますが、高木先生が館長である徳川美術館で私も話したことがありますけど、江戸の女性と言うと虐げられていたと思うかも知れませんが、とんでもない、しっかりしていたんです。
好きな男性と結ばれるためには、旦那に三くだり半を書いてもらわないと再婚できないんです。そこで、自分で仕向けて三くだり半を書かせたという非常にちゃっかりしたところもあったんです。亭主と上手くいかない場合には縁切り寺に逃げ込むんです。その絵があるんです。亭主が追っかけてきて、寺の門がしまる寸前に自分のぞうりをポーンと門内に投げるんです。それで離婚が成立したなんていう絵なんです。高木先生は、見合いより恋愛結婚が多かったとおっしゃっていました。
【江戸の八百八町は今のデパートのイメージ】
文化文政、そのころの江戸の人口が120万人、その半分の60万人が町方なんです。その人たちは、江戸の16%位の土地に住んでいたんです。その60万人の8割は何かの商業に従事していたんです。ですから、江戸は侍の町と言っている方は、こちらの侍社会のことを見ているんであって、江戸は商いの町というと、下町のことを言っているんです。その下町の八百八町はちょうど、デパートが横に広がったような様相だったそうです。
私も実際に見ていないんで詳しいところは分かりませんが、デパートの建物、外観が似ているので無く、町方には、デパートの従業員のような仲間意識とコミュニティがあったということなんです。ありとあらゆる物を売っていた、たんす横丁、鍋屋横丁、青物横丁とかいう昔の名前がどんどん無くなっていますよね。さっきも車で運転手さんと話してたんですけど、恵比寿にも伊達坂上なんて地名があったんですが、昔、そこに伊達藩のお屋敷があったと言うことが分かるんですが、今は、恵比寿2丁目とか4丁目とか、それも、皇居を中心に番地を決めているようで、駅からいくと、4丁目の次が1丁目になったりで、ぐちゃぐちゃになっているんです。役人が勝手に作ってるんです。懐かしい呼び名というのは愛称として残してもらいたいですよね。
江戸の話に戻りますが、男あるじだけでなく、女あるじも多かったようです。江戸小町というのは、べっぴんさんという意味もあると思いますが、自立した女を指したようです。江戸の下町では一人の人間があるときは売る人で、あるときは買う人ということで、純粋な消費者は少なかったんです。当時は、考え方はあったんですが、共生という言葉は、なかったようです。共倒れしない様にああする、こうするという感覚で暮らしていたんだそうです。その体制を守るために、家康は決して戦争だけはするなと言っていたんです。決して戦争をするなという遺訓を守りぬいた武士たちも偉いが、それを支えた町方のリーダー、町衆の働きも大変大きかったのではないかと思います。この大都市の中にいろいろな文化を持った人たちが集まってくるのですから、当然起こりますよ、アツレキだとか摩擦だとかそういうものを出来るだけ避けてみんなが楽しく幸せに暮らしていくにはどうしたら良いかを町衆たちは研究するわけですね。人間研究と言うのをすごくやるわけですね。