▶歴史研究「会津大仏と坂東武者」
”坂東武者の名を留めし、衣笠城址西にして”と横須賀高校の校歌に出てくる衣笠城ですが、源頼朝の有力御家人である坂東武者の三浦一族の本城でした。三浦義明(よしあき)の末子、義連(よしつら)は、相模国、三浦郡佐原に居城がありましたので佐原氏を名乗りました。佐原義連(さわらよしつら)は奥州征伐の功により、頼朝から陸奥国、会津四郡を拝領したと伝えられています。義連が会津に下向した形跡はないのですが、義連の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう 福島県指定重要文化財・福島県喜多方市熱塩加納町半在家)があります。おそらく、子孫が法要で建てたと思われますが、佐原義連は会津のお殿様の始祖と言われています。(高38期 石光淑恵)
伝佐原義連の墓の南東には青山城趾(日枝山王神社)、そこから150メートル離れて五郎宮神社、数百メートル離れて願成寺(がんじょうじ)があります。このあたり、耶麻郡加納荘(やまぐんかのうしょう)は佐原義連の子の盛連(もりつら)の五男、盛時(もりとき)の領といわれています。五郎宮神社は五郎左衛門盛時がお祀りされています。居城は西城と東城に分かれていたらしく、青山城跡が西城、願成寺のある場所一帯が東城だったといわれておりますが、東城の遺構は遺っていません。
喜多方市、上三宮町の会津大仏のある、願成寺にスポットをあてます。開山は浄土宗・法然上人の高弟、隆寛(りゅうかん)が開山し、弟子の実成(じっしょう)が建立したと伝えられています。元々、隆寛は天台宗の僧でありましたが、論争があり、1227年、比叡山延暦寺に訴えられ、「奥州」に流されることになりました。隆寛を京都から護送した毛利季光(すえみつ)(2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも出てくる大江広元の子)が隆寛に感化されて信者となり、所領の相模国飯山(神奈川県厚木市)に連れて行き、配流地の「奥州」へは弟子の実成を遣わせました。その年に隆寛は飯山で亡くなりましたが、遺骨は喜多方市の寺山というところに廟所があるそうです。
隆寛を護送した毛利季光の妻が矢部禅尼(やべぜんに)(三浦義村の娘、盛時の生母)の妹ということなので、盛時からみれば叔母にあたります。配流地として「奥州」のうち、三浦氏に縁のある陸奥国会津の加納荘に高齢の隆寛の代わりに弟子の実成が建立したのが願成寺でした。
願成寺には鎌倉時代初期作といわれる阿弥陀三尊坐像(国指定重要文化財)があり、別名「会津大仏」とよばれています。東北地方では珍しいです。阿弥陀如来坐像(写真中央)、観音菩薩坐像(写真右)、勢至菩薩坐像(写真左)です。阿弥陀如来の背後には小さな阿弥陀さまがたくさんあります。その後、慶長大地震(1611年)で被災し、保科正之(ほしなまさゆき)から三代にわたって、願成寺は復興しましたが、東日本大震災(2011年)からは、まだ復元されていません。鎌倉時代初期にどのような経緯で大仏が会津にもたらされたのか、誰が作ったのか詳らかではありません。会津に坂東武者とのつながりがあったことはまちがいなさそうです。
横須賀市芦名の浄楽寺に運慶作の阿弥陀三尊像があるとの記事を読ませていただきました。会津大仏のことがわかるヒントがあるかもしれません。横須賀の芦名の地名から由来する、会津の葦名氏は佐原義連の孫、光盛(みつもり)(盛連(もりつら)の四男、生母は矢部禅尼)の子孫です。義連を初代とすると七代め、葦名直盛(あしななおもり)が鎌倉から会津に下向したのは史実で、それが今の鶴ヶ城(当時は黒川城)です。
〈参考文献〉
『会津若松市史 2 会津、古代そして中世』(会津若松市 )平成17年
『会津若松市史 3 会津葦名氏の時代』(会津若松市) 平成16年
『会津若松市史 1』(会津若松市)昭和42年
『会津芦名氏一族』林哲著(歴史春秋社)昭和54年
【叶山 三寶院 願成寺のWebサイト】
https://aizudaibutsu.com
ルーツを辿ると、坂東武者なんですね。隆寛に感化されたという毛利季光は、相模国の人で、後に出家してますね。隆寛は、法然上人の弟子で、親鸞聖人よりも年長ですね。この人もおもしろそうですね。