▶吉田庫三校長の「生徒心得」と「曹源寺会」
「吉田庫三校長没後100年記念校史資料展示説明会の報告」にも書いてありましたが、吉田庫三校長の興味深いお話を講師の上田さん(高10期)からお聞きしました。「わが母校わが友」や創立百年記念誌「百年の風」の記事を参考にして、そのエピソードをご紹介します。(高25期 廣瀬)
吉田校長は、吉田松陰の妹の千代の息子として1867(慶応3)年に生まれ吉田家第11代として家督を継ぎました。県立第二中学校(小田原高校)の初代校長を経て、1908(明治41)年に、横須賀高校の前身である県立第四中学校の初代校長に就任されました。
吉田校長の教育の中核をなすものは、伯父の吉田松陰から受け継いだ「松蔭哲学」でした。「国のために役立つ青年をつくる」ということが大方針で、人間として高い品性を持つためには厳しい修養を重ねることが肝要、という考え方でした。
吉田校長が作った「生徒心得」には、敬礼の仕方、服装、自修方法に至る細かい規則が記されていました。万年筆の使用、時計の携帯、自転車通学、夜間外出、映画鑑賞、手袋の使用、野球など全て禁止されていました。雨天の時の傘の使用もダメで陸軍用の黒色カッパの着用に限られていたようです。
このような「生徒心得」に違反するものがいれば直ちに罰則が加えられ、退学処分になった生徒が続出したそうです。1908(明治41)年の第1回の入学試験の受験者は300人で合格者は90人でしたが、5年後の1912(大正2)年に無事卒業まで漕ぎ着けたのは僅か49人でした。
「わが母校わが友」には、その時の退学処分の理由が次のように紹介されています。
・彼女にラブレターを送ったことがバレた
・夜間外出や通学途中の飲食などの規則違反をした
・派手なけんかをした
・その他、素行が悪いため
こうして後ろ髪を引かれる思いで次々に学校を去った退校者たちですが、20年後の昭和の初めに、再度結集をはかり、東京在住者たちで「曹源寺会」という会を結成したそうです。会の名前は、みなさんご存知の母校の裏手にある曹洞宗の古刹である曹源寺です。発起人は、第1回、第2回の入学者たち11人。案内には、ユーモラスに曹源寺の和尚さんの名前を使っていたというエピソードもあります。毎月1回の親睦会を戦後になるまで数十年続けました。退校処分を受けた学生は、将来、要職に付いた者が多かったそうです。
この騒動の渦中にいた中1期の鈴木駿太郎さんは、「曹源寺会」についてこのような感想を述べられています。
「放校処分になった同憂の士が横中に在学したことを誇りとし、『曹源寺会』の名のもとに友情を温めあって、数十年もこの会合をつづけていたということは、他にその例を聞かない。一種の美談ではなかろうか。しかも彼ら一人ひとりが吉田校長の短かかった薫陶を偲んでいて、先生を少しも怨んでいないことである。吉田校長を慕う心情の強さは、むしろ何事もなく無事に卒業し得た人々のそれにも増して強烈であったであろうと、僕には思われてならない」
冒頭で述べた説明会で講師をされた上田さんは、「吉田校長は厳しい中にも『愛』があった」と言われていますが、吉田校長の思いが放校処分になった生徒たちにも伝わっていたのだと思います。
今の横須賀高校の「生徒手帳」にはこのような厳しい規則は書いてありませんが、「生徒申し合わせ」の中にその片鱗が残っていました。第3章の「校内及び社会生活」のところに「我々は世人のためになる事の出来る人間になるよう努力する」と書いてありました。吉田校長が横須賀高校に就任されてから今年で114年になりますが、吉田校長が掲げた「国のために役立つ青年をつくる」という考えが脈々と受け継がれており、今の横高の校風を作っているのではないかと思いました。
【参考】
・我が母校わが友 毎日新聞横浜支部 1976(昭和51)年
・創立百年記念誌「百年の風」神奈川県立横須賀高等学校 2010(平成22)年
吉田庫三校長は、「規律遵守と修養主義」のスパルタ教育だったようです。
厳格な修養を強いるなかにも、温かく優しい心情を偲ばせるエピソードも数多くあります。下町で大火があったときは、生徒の家を見舞い、難病の生徒には東京の病院を紹介し、自らも同行したそうです。
二中(小田原高校)の校長時代、三中との対抗試合で、ずぶ濡れになった病弱な生徒の膝を抱きながら、詩吟を吟じ、自分の体温で生徒を温めたという逸話が「PTA広報」に載っています。厳しいなかにも「愛」があったのですね。
上田 寛
素晴らしい校長先生だったのですね。お会いしたかったですね。
初代校長が14年間も勤めれば、校風が吉田先生によって定められたのは当然でしょう。同じように、戦後の我々の頃は中川鋭三郎校長が新制高校発足以来11年間も勤められた。在任期間の長さでも新制発足時という点でも、戦後の校風には中川先生の影響が大きかったと思います。
両校長はいづれも、当時の世相から見てもやゝ時代遅れと思われるほど古風な考えの持ち主で、生徒だけでなく若手の先生方の抵抗にも遭ったはずですが、しかし教育に対する情熱だけは確かに伝わり、抵抗しながらもある種の感化を受けたことは間違いない。
「吉田先生は教室では決して伯父、吉田松陰の名を口にしなかった」と、大先輩に聞いた記憶があります。中川先生は「教育は校長以下教師が全責任を負うもので、行政は関係ない」という考えの持ち主であったと思います。お二人はいづれも一見保守的に見えて、その意味は今日再考に値するものだと思うのですがー。
吉田校長と中川校長が今の横高の校風を作ったのですね。「教育に行政は関係ない」という言葉は、今の政治家に聞いてもらいたいですね。
記恩ヶ丘に中川鋭三郎先生の銅像を建てる案があったようです。
定年後に主宰されていた塾で通っていた私たちに照れながらお話しされました。
しかしそれはお断りしたとも言われました。
正義感の強い頑固なお人柄が窺えます。
12月2日(水)、横高12期の仲間、向坂君、帰国中の大村君(スイス居住)、やはり同期で同校の教師であった山本君他、と横高を訪問、懐かしい校舎、グランドを見学しました。
同校の学校資料室は何度か、訪問してます。例えば、画家の島田章三さん。同じ、馬堀中学校の大先輩です。「馬中」は公立の中学校には珍しく、「同窓会」を持ってます。現在、私も卒業生の親睦団体である「馬中・校友会」の仕事をしており、何度も、その関係でお会いしてました。今回も「資料室」で、島田さんの色々な情報に接しました。
今回も投稿されていた、高22期高橋揚一。色々と情報交換ををしている仲間です。