▶自己紹介と私の歴史(伴野 明さん)

このほど、記恩ヶ丘の会のスタッフに加わりました横高22期の伴野 明です。最近YouTubeにて横須賀に関する動画を見る機会が多く、「あぁ懐かしい」と楽しんでおりまし た。その中で高橋揚一さんの動画が気になっていて、特にモノクロの写真に、綿でくるまれたような『ぬくもり』を感じるんです。あるとき動画の最後に文字で『横須賀高校』、『記恩ヶ丘』と出るのに気がつきました。(高22期 伴野 明)

「横高? もしかして同期ぐらいの方じゃないか?」と調べてみましたら、ズバリ同期(22期)でし た。高橋さんは6組、私は8組です。それからバトミントンみたいなメールのや りとりが続き、本業の傍らで書いていたドブ板通りを舞台にした小説などをご 紹介したところ、ライターとしてスタッフへのお誘いがありました。一瞬戸惑いましたが、同窓の皆さんと『思い出し話』が出来ることは、「毎日が新鮮で温か かったあの時代に戻れること」と、嬉しくなり、お受けすることにいたしました。

とは言っても皆さんが楽しめる情報をお出し出来るか、また、本業の忙しさに負けて情報が途切れたりすることはないか、自信がありませんが、この年に なると、少々大げさですが、『死ぬまでに、あと何と何が出来るか』を考え始めた自分としては、その一つに加えたいと思います。


■ ここまでの私の歴史
大学受験に失敗した私は1年間を受験勉強だけに費やすのはもったいないと考え、もともと大卒で自動車関係の会社に入りたいのだから受験勉強と、学問だけでなく、実務としての整備の技術を同時に身につけようと欲張って、追浜の自動車整備職業訓練校に入ることにしました。

卒業が近い12月ごろになり、来年はどこの整備工場に就職するか、先生方は生徒の希望を聞き始めました。私は「3級整備士だけ取れればよし」と、無視していたのですが、ある日先生が、「去年私は二俣川の訓練校で教えていたが、そのとき優秀だった二人が日産自動車のレース部門に就職出来た。君たちにも日産に声をかけるぐらいのことはしてやれる。あとは成績次第だな……」というのです。

それを聞いて私はひっくり返りました。「大卒~自動車会社就職~何とかレース部門 に潜り込む」というコースを夢見ていた自分の目の前にそれが「ドカン」と現れたのです。一も二も無く「ぜひ、ぜひ声をかけてください」と頼み込みました。もう大学など眼中にありません。というのは、大企業は、たとえ入社試験がどんなに好成 績であっても、希望は聞くが望む部署に配属される保証はないのです。それは聞いていたので、自動車会社に入っても、 どうやってレース部門に行けるか見当もつかない訳です。それなら、と「ドカン」に賭けました。

日産自動車の面接の日、おそらく私の目は血走っていたでしょう、ハンマーで頭を殴られたぐらいでは平気なぐらい集中していました。緊張はなかった。しかし集中して面接に答弁している自分の外側に守護霊みたいな自分がいて見守って いる。今思い出すとそんな感じです。一瞬も面接官から視線を離さなかった私は彼を圧倒していたかもしれません。

結果発表の日、なんと日産の担当者が職業訓練校に来るというのです。どうもそれは異例の事のようでした。 「あなたは入社が内定しました。部署は日産自動車宣伝三課大森分室です」 それを聞いて耳を疑いました。その部署とは――、知っていました。大森にある有名なレース部門なんです。 「このことは絶対内密にしておいて下さい、普通は入社する前にお知らせすることはありませんので」そう言ってなぜか少し ニヤッとしたのはあの時の面接官です。そんなことが本当にあるなんて、なんか物語のいちシーンみたいです。


レース車好きの自分にとっては夢のような部署だったのですが、突如日産を辞め、1975年に模型店シグマホビーを開店しました。 三年間は普通の模型店でしたが次第にサーキット設備の製作を請け負うようになり、(写真参考)次にそこで走る模型の車(SLOT CARと呼びます)を自家製造するようになりました。


これらのサーキット設備は構造、形状、製作方法など100% 私のオリジナルでして、木の切り出しから電気配線、計測コンピュータまで全て自分の工場で製作しています。そして、ここで走らせる、私の開発した SLOT CARは世界に広がり、国際レースが開催出来るところまで発展しました。日本大会、ドイツ大会(ヨーロッパ大会)、オーストラリア大会があります。


そして現在に至ります。狭い世界ですが、スロットカーの分野では『やりつくした』感があります。それは人生においての満足感でもあります。

前述しましたように、残りの人生で何と何をするか考えました。一つは『コ ロナ騒動により、大被害を被ったスロットカー業界』の再生をすること、もうひとつは、本当にたいしたことはできませんが『記恩ヶ丘の会』のライターとして記事をかかせていただくということです。現時点で、下記のようなコンテンツを投稿したいと考えています。

1:横須賀ネタ
2:模型屋(製造する方です)及び実車のモータースポーツ(ドライバーではなくメカニックの方)の体験談
3:健康ネタ
4:世界観や政治的ネタ

私の自己紹介はここまでです。

皆さんもそれぞれきっと何か『特別なエピソード』をお持ちと思います。公開できる『楽しいエピソード』、『不思議なエピソード』、『懐かしいエピソード』などありましたら、このHPに投稿しませんか?もし何かお持ちでも「文章化するのが大変で……」ということでしたら、この自己紹介レベルの文章で良ければ私がお手伝いすることも可能です。たくさんの同窓生が参加して、『記恩ヶ丘の会』のコンテンツが魅力あるものになれば、これに勝るものはありません。今後とも よろしくお願いいたします。

    ▶自己紹介と私の歴史(伴野 明さん)” に対して4件のコメントがあります。

    1. 高橋揚一(高22期6組大西昭先生学級) より:

      伴野明さん
      メンバーに加わってくださり有難うございます。
      クラス替えがないので他に接点がないと在学中に知り合う機会がないので、これまで存じ上げませんでした。
      共通の知人は多いと思いますし、新たな先輩や後輩の方々との輪も広がります。
      当方のYouTubeをご覧くださり有難うございます。
      横須賀を舞台に今後いろいろと盛り上がるかと期待しています。
      冒頭のドブ板の写真、良いですね。
      何卒よろしくお願いいたします。

    2. 和田良平 より:

      いやいや、ビックリしました。面白い日々だったでしょうね。日産にしたら、せっかく満を持して採用して期待していたのに、辞められるとは思ってもみなかったことでしょうね。しかし人生はご自分のものですから、自由です。それから模型の世界とは!
      私は石渡明美さんの旦那と同じように、模型は電車が好きでした。高校時代の友人の隣りに住んでいたやつが、わがままの金持ちだったようで、自宅にレイアウトを持っており、うらやましく思ったことがありました。
      なかなか楽しい人生を、これからもお聞かせください。

      1. 伴野 明 より:

        和田様へ
        日産を辞めた理由は何かの時にお話出来るかもしれません。三年間お世話になったのに、心苦しい限りです。
        和田様が鉄道模型ファンだと知りました。それで思い出したのは、私と同期(22期)3組の
        草柳俊くんが鉄道模型に相当凝っていました。彼とは卒業以来会っていませんが、誰かを介して横の繋がりが出来れば良いのでは、と思います。
        伴野 明

        1. 高橋揚一(高22期6組大西昭先生学級) より:

          私は小学校時代は3本線のOゲージでしたが中学でHOゲージを始めました。
          三笠通りの真ん中の豊川稲荷に出る裏口手前に模型のお店があり、店のウィンドウの右端に積まれていた200円くらいの旧型客車のペーパーモデルを良く買いました。
          C53やEF55などのマニアックな機関車が好きでこれに牽引させようと作り始めましたが、資金不足で脱落しました。
          ドブ板通りは切手を売っている「ドラゴン商会」という店に小学6年の頃に通いました。
          米兵向けなのか女性用のセクシー過ぎる下着なども売られていて小学生には目の毒でした。
          大学時代は「落下傘」という怪しげなロック喫茶に通って「ピンク・フロイド」をリクエストしたりしました。
          YouTubeからは音信不通だった小学校の旧友からコメントが届いたりして色々な繋がりが生まれています。

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