▶強かった横高の相撲部

昨日、霧馬山が突き落としで大栄翔を破り、優勝決定戦に持ちこみ逆転優勝を決めました。最近は野球やサッカーが人気ですが、私たちの時代は相撲が一番人気のあるスポーツでした。久しぶりに母校に行きましたので、校史資料室を見学させていただいた時に、高10期の上田さんに相撲部についてお聞きしました。(3月27日 高25期 廣瀬 隆夫)

――横高の相撲部は古くからあったのですね。

戦後、野球などは禁止された時期がありましたが、相撲は禁止とならず顧問の稲嶺昇先生のご指導で続けられ、横高の相撲部は、県下でも常に優勝を争う位置にありました。

――どのくらい強かったのですか?

当時は、相撲部のある学校が少なかったということもありますが、県大会や関東大会、全国大会の常連校だったようです。パラパラと年表を繰っただけでも、国体出場壮行会、県大会や全国大会への出場などの記録が出てきます。1947(昭和22)年には、全国大会に出場しましたが、秋田農業、高知農業に惜敗しています。

――その他にエピソードはありますか?

1948(昭和23)年9月に行われた第3回国体相撲予選では、本校AチームとBチームが決勝で顔を合わせ、Aチームが優勝するとあります。面白いですね。相当に強かったようです。1952(昭和27)年の第1回全国高校選抜相撲大会では、県代表として出場し健闘しました。

――学校の中に土俵があったのですね。

相撲部員が自ら土俵作りに協力して、1952(昭和27)年の2月に完成しています。場所は、現在のD棟の食堂あたりだと思います。完成した本格的な土俵での四股踏み風景の写真がありましたのでご紹介します。

――「てっぽう」の練習ができる柱もあって本格的なものだったのですね。土俵は、いつ頃まであったのですか?

私は、1958(昭和33)年の卒業ですが、その頃はまだありました。1966(昭和41)年まで存在したと記録にあります。稲嶺昇先生は、1942(昭和17)年~1964(昭和39)年まで在任されて生徒を指導されました。

廃部の理由は定かではありませんが、部員の減少や指導者不在が、大きな理由だと思います。この頃になると女生徒も増えたため「裸に褌(ふんどし)姿の格闘技に抵抗があったのでは」と、勝手に想像しています。

――相撲部がなくなってしまったのは残念ですね。生徒の安全面への配慮もあったのでしょうね。

今はプールの水泳授業は、「選択科目」と聞いています。生徒に人気が無いのが理由のようです。プールを造った理由の一つに、防火用水としての機能があったのですが、消火栓なども整備され、今は、その意味はなくなったようです。午前中から泳がされた時代が懐かしいです。この前、現役生が見学に来ましたので、相撲の土俵があった話をしましたら、「裸で相撲を取ったのですか?」と聞かれ、こちらがびっくりしました。時代は変わりましたね。

――東京オリンピックで金メダルに輝いた猪熊さんは、1956(昭和31)年のご卒業で、稲嶺昇先生が在任されていた時期と重なります。横高には、熱心に指導される先生がおられて、昔から、このような強い選手が出てくる下地があったのですね。校史資料室に古い地図がありました。確かに1929(昭和4)年の見取り図には土俵はありません。記恩ヶ丘の近くに淡島神社がありましたので、相撲をとることは神仏への奉納ということにもなったのではないかと考えています。

お忙しいところ、貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。

    ▶強かった横高の相撲部” に対して5件のコメントがあります。

    1. 高橋揚一(高22期6組大西昭先生学級) より:

      1970年卒高22期の卒業アルバムには相撲部の写真が掲載されています。顧問の佐々木正純先生と6人の部員が写っていますが、そのうち5人はレスリング部員と同じ顔のようでアルバムのためだけに結成されたのかも知れません。3人の「まわし」には「横須賀高」と大きく記されているものの使い古された気配のない上記写真とは違う新品のようにも見えるので伝統的なものなのか急ごしらえなのかはわかりません。
      佐々木正純先生といえばレスリングでブラジルでの世界大会に出場された実力者で学生からの人気を集めていました。体育ではレスリングの授業もあり第2体育館で校内レスリング大会もありました。
      体育といえば先日横高に伺った時に記恩館で流れていた「青年体操」のメロディが懐かしかったです。
      水泳は選択になってしまったんですね。私が水泳部員だった頃はサポーターも禁止でしたが運動会では横高カラーのペラペラの緑のパンツ1枚だけで堂々と行進しましたよ。

      1. 廣瀬隆夫 より:

        佐々木先生には、私もレスリングを教えていただきました。校内レスリング大会にも出場しました。フォール負けしましたが、相手が体重オーバーで反則勝ちになりました。サンダー杉山選手が懸垂が出来なくて泣いていたという話を面白おかしく話してくれたことを覚えています。

    2. 上田 寛 より:

      高22期の卒業アルバムに、相撲部の写真が掲載されているとは知りませんでした。今度、校史資料室へ行ったら確認してみます。
      部活のほかに、レスリングの授業や校内大会が行われていたとはびっくりです。
      佐々木先生という良き指導者を得て、部員は世界大会でも活躍されていますね。レスリング部は、1991(平成3)年まで存続しています。
      部活動や同好会の変遷は、時代を反映していて面白いですね。

    3. 高橋克己 より:

      実は22期の卒業アルバムでまわし姿を晒しています。当時の相撲部に専従部員はおらず、市民大会などがある都度、レスリング部と柔道部の相撲好きが佐々木先生に召集されるという、いわば町内の「消防団」のような部でした。
      柔道部(+時々レスリング部)だった私は、選んで黒まわしを着けたのに、相撲では白まわしの方が格上、と知らされて臍を噛んだ記憶があります。他の五人は大会に出たはずですが、私がまわしを着けたのは写真撮影の時だけでした。柔道やレスリングは練習も試合もしんどいが、相撲は取り組みに比べて稽古が圧倒的に辛い、というのは大会に出た者の弁。
      横高には現在、相撲部はおろか柔道部もレスリング部もない。出身高校を述べる際、「五輪金・総理大臣・ノベール賞の肩書を持つ三人の卒業生を輩出した我が国唯一の高校」というのが私の常套句なに、その誇りの一つを失ったようで寂しい限りです。

      1. 廣瀬隆夫 より:

        高橋克己さんへ、

        25期の廣瀬です。相撲部だったのですね。私は、小学校の頃は、校庭に土俵を描いてよく相撲をとっていました。大鵬や柏戸の時代でしたが、当時は、今のサッカーやラグビーのような人気のあるスポートでした。今でも、相撲は好きで大相撲は必ず見ています。私が入った頃は、柔道部とレスリング部はありましたが、相撲部はありませんでした。相撲部があったら入っていたと思います。私は、格闘技については校内レスリング大会に出た時の思い出くらいしかありません。相撲部の思い出などがありましたら、投稿をお願いします。卒業アルバムの高橋さんのまわし姿も見てみたいです。

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