▶ココイチ・奇美・ヌヴー・根自子、それぞれのストラディバリウス(高22期 高橋 克己)
松原隆文さん(高22期)ご愛好のヴァイオリニスト、フリッツ・クライスラーの愛器「グァルネリ・デル・ジェス」は、18世紀前半に活躍したイタリアのヴァイオリン製作者ジュゼッペ・グァルネリ・デル・ジェスのものですが、本稿は一世代前のストラディバリウスに纏わる話で、2019年6月の「アゴラ」投稿の転載です。(高22期 高橋克己)
ストラディバリウスは17世紀後半から18世紀にかけてイタリアのストラディバリ親子が製作したヴァイオリンなどの弦楽器の名称。グゥアルネリなどと共に、特段クラシック音楽に興味のない者でも一度はその名を耳にしたことがあるに違いない一挺数億円もする名器だ。
先般(2019年6月)、カレーチェーン「CoCo壱番(ココイチ)」創業者の資産管理会社が楽器貸与事業で20億円の脱税をし、過少申告加算税を含め計約5億円の追徴金を納税したことが報じられた。記事などによれば、貸し出しの対象となっているのはストラディバリウスなど約30挺の弦楽器。
税理士の勘違いで楽器を減価償却していたらしい。事業の用に供していても100万円を超える楽器は減価償却できない(趣味の個人所有の場合は事業用ではないので100万未満でも償却不可)。篤志家の創業者が有望な演奏家に無償で貸与していたらしいので、加算追徴とはお気の毒という外ない。
日本音楽財団もストラディバリウスなど世界最高峰の弦楽器21挺を内外の若手演奏家に貸与する事業をしていると同財団のサイトに載っている。ついでに財務諸表を見ると、固定資産として楽器100億円を計上している。1挺約5億円ということか。減価償却していないと注記がある。
日本では他にサントリー財団などあるが、台湾でも奇美実業の創業者で親日家の許文龍氏が奇美博物館で楽器を貸与している。許氏自身も腕の立つ演奏家で、来客にも気軽に腕前を披露なさる。高雄の大学でヴィオラを指導している知人の教え子も奇美博物館から楽器を借りている。
ストラディバリウス親子の作品はヴァイオリン520挺を含め約600挺が現存しているといわれる。18世紀以降の著名なヴァイオリニストの延べ人数は520人で収まるはずがない。勿論、ストラディバリウス以外の名器もあるが、例えばグゥアルネリなどは200〜300挺と数が少ないようだ。
数に限りのある歴史的名器の多くが篤志家の寄付などで設立された財団によって買い取られ、有望な演奏者に代々貸与されている。このようなシステムの存在によって著名な演奏家が育ち、先人が生み出した偉大な芸術を後世に引き継いでゆく。篤志とはまさにこういうことを指すのだろう。
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そこでジネット・ヌヴーと諏訪根自子のことになる。筆者がクラシック音楽を愛聴するようになったきっかけは、確か1990年ごろにFMラジオから流れる妙なるヴァイオリンの調べを聴いたこと。曲の終わりに演奏者の名がジネット・ヌヴーだと知った。が、残念ながら曲名は聞き逃した。
ヌヴーが1935年に15歳でヴィエニャフスキ国際コンクールに優勝した時、次席だったひと回り年長のダヴィッド・オイストラフをして「彼女は悪魔のように弾く」と言わしめたことや、1949年10月演奏旅行に米国へ向かう飛行機事故で夭折したことなどが筆者の興味を惹いた。その知的な美貌も。
パリで1919年に生まれたヌヴーは11歳でパリ音楽院に入り、ヴァイオリンで最優秀賞を得た後、13歳で出場したウィーン国際コンクールでは4位だった。が、この時審査員だった名手カール・フレッシュに見込まれて4年間無料で彼の指導を受け、1935年に先述のコンクールで最優秀賞を獲った。
評判を得たヌヴーは大戦前夜の世界中を演奏して回り、1938~39年にはベルリンでレコーディングもした。大戦中の中断を経て戦後活動を復活したが、1949年の3度目の米国公演に向かう飛行機がアゾレス諸島に墜落、30年の短い命を終えた。遺体が見つかった時、ヌヴーは愛器のストラドを両腕に抱え込むようにしていたといわれる。
幸いにしてかなり良い音質の彼女の音源が多く残されていて、youtubeでそれらのほとんどを聞くことが出来る。中でも得意としたブラームスの協奏曲では、亡くなる前年の5月にイッセルシュテット指揮の北ドイツ放送交響楽団とライヴ録音した盤が魂の籠った名演奏だ。
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知的な美貌のヴァイオリニストといえば、日本にもヌヴーとまったく同じ時代に、天才少女といわれた演奏家がいた。諏訪根自子という名のそのヴァイオリニストの生年は1920年1月。ヌヴーが1919年8月生まれだから二人は偶然にも同学年。
音楽好きの両親に生まれた根自子の才能に気付いた母親は、ロシア革命を逃れて来日していたロシア人小野アンナ(1890~1979)に師事させた。5歳でピアノ、10歳からヴァイオリンを始めたアンナは1917年、留学生の小野俊一と知り合い結婚するもロシアは革命の最中、翌1918年に東京に向かう。
19年に俊太郎を儲け、同年輩の根自子共々ヴァイオリンを指導する。が、俊太郎が病死したことで夫婦関係が壊れて離婚、そして日本有数のヴァイオリン指導者となった。その経緯は根自子の生涯と神風号の快挙とを描いた深田祐介の「美貌なれ昭和」(文春文庫)に詳しい。因みにオノヨーコは俊一の血縁。
根自子は1927年に来日したアレキサンダー・モギレフスキー(1885~1953)の指導も受けた。モギレフスキーはモスクワ音楽院を首席で卒業し、ニコライ二世の宮廷楽団長も務めた大家で、通の中にはハイフェッツ並みかそれ以上に評価する者もいる。来日後は日本人演奏家の育成に努めた。
彼にはソ連のスパイとの説があるが、この時代のソ連の芸術家(に限らない)には、政治的な迫害から逃れて西側に亡命した者(白系ロシア人)が少なくない。またナチスドイツの下でも面従腹背を余儀なくされたり、ナチに協力したとして戦後非難を浴びたり、また米国に逃れたりした者が数多くいた。
さて、根自子はアンナらの指導よろしきを得て腕を磨き、1936年ベルギーに留学、その後パリでヴァイオリンを学んだ。大戦の勃発した1940年、パリの藤田嗣治や岡本太郎などが相次いで帰国する中、根自子は残り、6月のドイツ軍によるパリ占領時は日本大使館に避難したりなどした。
1942年暮れにベルリンに移って、駐独大使大島浩や後に根自子の夫となる大賀小四郎らの庇護を受ける。ドイツではクナッパーツブッシュ指揮のベルリンフィルと共演したり、1943年2月には生涯の愛器となるストラディバリウスをナチス党宣伝相ゲッペルスから贈られたりもする。
ナチス宣伝活動の一環に違いない。ソ連を追われた白系ロシア人のアンナやモギレフスキーに憧れてパリに来た根自子が、ナチスドイツの庇護を受けるとはなんと皮肉な巡り合わせか。が、根自子は日本の汚名返上のためストラドを抱え、ソ連と米軍の攻撃を掻い潜ってスイスに行き演奏会すらしてのける。
そしてドイツ降伏、連合軍に拘束され米国に連行された根自子は、近衛秀麿らと収容先のホテルで演奏会を開くなど束の間の休息を取る。1945年12月7日、愛器のストラドと共に横須賀の浦賀港に到着し、約10年間に亘る波乱の欧州留学を終える。この過程で妻ある大賀と恋に落ち後に結婚する。
そのせいか、日本でしばらくは演奏活動するも1960年以降は30年ほど音信を絶ち、伝説のヴァイオリニストとなった。1990年代に内輪のコンサートやバッハの無伴奏ソナタ・パルティータの全曲録音など短期間活動した後に一線を退き、2012年9月にその波乱に満ちた生涯を終える。
同じ時代の欧州で共に美貌の天才ヴァイオリニストといわれた根自子とヌヴー、1936年にベルギーに渡った根自子の伝記にも、1935年にコンクールを制したヌヴーの記録にも記述はないが、果たして二人は出会ったか。そして二人のストラディバリウスはいま誰が弾いているのだろうか。(おわり)
興味深いですね。
ヌブーのブラームスはもう最高で、魂が乗り移ったような情熱的名演です。
ブラームスはむしろラテン系の演奏家の方がマッチするのかもしれませんね。