▶「空母葛城」雑学は身を助ける(高22期 松原 隆文)

空母「葛城」ホームページより

https://note.com/huuinressya0409/n/n4c683ad4cf70

だいぶ昔の話です。2011(平成23)年の晩秋、品の良い声の老婦人から電話を頂きました。以前私が仕事をした別の老婦人からの紹介です。内容は、夫の遺言を作成して貰いたいというものです。親族間は大変仲が良く、揉めたりする心配は皆無なのですが、ご主人が癌であまり余命がなく、自ら遺言を残したいというものでした。

早速お宅を訪ねました。恰幅の良い老紳士が私を待っていました。思ったより元気そうで,とても体調が悪いようには見えません。ひとまず安心しました。何しろ遺言をせかされる程辛い仕事はありません。元来せっかちな私が更にせっかちにならざるを得ません。

まず名刺の交換をしました。すると三浦から先の大戦に出征した人達の年金(軍恩)の取り纏めをしていることが分かりました。その名簿を拝見すると、私の近所の人達が大勢載っておりました。「あっ、この人私知ってます!」などと言いますと、彼が従軍時の話をしてくれました。まず満州です。ここで腸チフスに罹り、太い注射を何本も打たれて痛かったという話から始まりました。そして、終戦をボルネオで迎えたそうです。

元々の軍人ではなく、徴集兵ですよ。それが満州からボルネオまで転戦したんです。いかに過酷な大戦であったかが、これだけで分かりますね。復員船がなかなか来なくて一日千秋の思いで待っていたそうです。やっと復員船(空母)が来て、ようやく日本に帰ったという苦心談をしてくれました。

そこで思わず私は、「ご主人、その空母の名前当てましょうか」 と言いました。「えっ」と絶句しています。私は、静かに「葛城でしょう」と言いました。このときのご主人の驚きようと喜びようは今でも覚えております。「戦後60年生きてきたが、復員船の名前を当てたのは先生一人だ!」と言って、私の手を取って喜んでくれました。そして「神様が導いてくれた」とまで仰るんですね。

すると奥様が「主人にこの話をさせると夜中になるので先生、もうしない方がいいですよ」と隣で言いました。夫人も若いときに戦地に夫を送り出して、家業を切り盛りし、家族を守って、随分辛い思いをしたに相違ありません。私も込み上げてくるものがありました。その後の手続きが順調に進んだことは言うまでもありません。

尚、遺言者たるご主人はその後、2012(平成24)年秋、静かに往生されました。心からご冥福を祈りました。

余談ですが、葛城は、大戦後半、雲龍、天城、葛城、笠置、生駒、阿蘇と六隻建造した同型空母の3番艦でした。ほぼ完成した状態で終戦を迎え、復員船として活躍したのですね。なるほど空母は飛行機を格納するように設計されていますから、空間が広いので復員船には最適ですね。古い写真に葛城が復員船として出港している写真があります。偶々それを私は覚えていたのですね。

前回投稿した「不沈戦艦武蔵」と共通するのは、大戦経験者と軍艦です。どちらも雑学が依頼者の信頼を得た例でしょうか。

    ▶「空母葛城」雑学は身を助ける(高22期 松原 隆文)” に対して4件のコメントがあります。

    1. 22期 伴野明 より:

      松原さん、軍艦についてお詳しいですね。生き残った空母が復員船として活躍したとは知りませんでした。空母、信濃が横須賀で作られ、潜水艦に沈没させられ、実戦に参加できなかったことぐらいしか知りませんでした。祖父が海軍軍人だったのですが、私が3歳のころ亡くなりました。
      あと10年長生きしてくれていたら、いろいろ聞けたのに、と思います。

    2. 松原隆文 より:

      父が海軍軍人でした。主に駆逐艦に乗っていたそうです。印象に残る話は、以下のとおりです。
       寒い日にボートの練習をして痔になり、そのまま上海事変に出動して2ヶ月ほど風呂に入れなくて困った、戦後も痔に悩まされて、大塚製薬のジルバミンを使ったら治った、という話。尚、この薬は私が中年の頃までありましたが、もう販売してませんね。
       アリューシャン作戦に出動して、キスカ島で、連日米軍の四発爆撃機(コンソリデーテッド)の爆撃を受け、怖かった。
       インド洋作戦に参加したときは、南十字星が綺麗だった。等々です。我が家に軍艦の写真が多数有ったので、武蔵も葛城も、偶々記憶していました。

    3. 高橋克己 より:

      松原さん真骨頂の、面白くてちょっとイイ話。戦争末期には、関東軍の精鋭が南方へ大勢送られました。そのスカスカ満州に、ポツダム会談に出ていて日本の降伏を知っていたスターリンのソ連軍が押し寄せ、蹂躙した。酷い話です。
      松原さんが真似の上手い東条さんも、東京裁判の後半からは立派でしたが、戦中は目障りなのを南方の前線に追っ払った。彼の良くない一面ですね。
      ところで「葛城」は浦賀に戻ったのでしょうかね。

    4. 松原隆文 より:

      復員船の任務を終えて、久里浜沖で撮影された写真が手元にあります。その後、浦賀に入ったのか横須賀港に入ったのかは不明。最後は大阪の日立造船で解体された。
      これ有名な話だけど、東條さんは松前重義さんを一兵卒として南方に送ったんだですよね。

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