▶ベトナム訪問記 ③T君の生家(高22期 加藤 麻貴子)

2022年7月17日(日)、街道の食堂でT君たちと朝食にフォーボーを食べた。牛肉のフォーでとても美味しかった。店は混んでいて床に丸めたティッシュが散らばっていた。食べるときに口元や手を拭ったもので、テーブルの下の屑籠に投げ入れるのだが半分は外れて床に散乱する。店員さんは掃除する間もないほど次から次へと客が来る。こういう店はお薦めだ。

H君の結婚パーティーの午前中にT君の生家のバッソン(Bac Son)村に向かう。蓮の植栽、丈高い並木、緑の田畑の豊かな農村風景を用水路に沿ってミーハオ(My Hao)村からBac Son村まで車で1時間ほど走った。

T君は3人兄弟の末っ子、3人分の耕作地を貰うことが出来たそうだ。ご両親はT君の本科卒業式の2015年3月に来日我が家に逗留して卒業式に臨んだ。彼らはハノイも初めて、いきなり飛行機に乗って日本に来たのである。勿論ベトナム語しか話さない。さぞ大変な旅であったと思う。

「久しぶりだね!」とお父さんは満面の笑みで迎えてくれた。T君夫妻はまずはご先祖様に挨拶、果物の束を供える。私達も後に続く。高さの違う棚に花や果物など供えてあり、TVドラマで見た沖縄の仏壇に似ている。棚の上方の壁にT君の祖父母、その隣にホーチミン氏の写真が貼られている。ご先祖様を敬う気持ちは私達と同じである。

お兄さん夫婦も来ていて一緒に歓迎の昼食の準備していた。リビングに敷物を敷き、その真ん中にじかに料理が並べられ皆で周りを囲んだ。皆座ろうとしないので夫に座る様に促すと皆も料理を囲んで車座に座った。アジアでは年長の者が座る、箸を採るなどが食事の開始の合図になることも多い。

器は茶碗と箸、箸を伸ばして茶碗に料理を取る。どれも素朴だが美味しい。生春巻きの皮にエゴマの葉を乗せ野菜や鶏肉や川魚の料理を芯に巻きニョクマムベースのたれを漬けて頂くのだが上手く巻けない。すかさずT君のお母さんやお嫁さんの手が伸びて器用に春巻きにして手渡してくれる。

鶏肉で思い出すことがある。T君が本科1年生の2011年夏、来日して1年4か月初めて帰国できる休暇であった。帰国後に我が家に寄った彼は「父が僕に鶏肉を食べさせようとヒヨコを何羽も飼って育てて待っていた」と満面の笑みで話してくれた。お父さんの愛情を感じて胸が熱くなった。

来日して間もなく日本語研修生の頃に我が家に来たT君は痩せこけて食欲もあまりない。これで4年間大丈夫だろうかと心配になった。さらに1年生の初夏、水疱瘡に感染し東京の病院に入院した。心細そうに電話をしてきた彼に旅行先から毎日のように励ましのメールを送った。

退院の3日後は遠泳訓練で朝8時ごろに走水の海岸から泳ぎ始め猿島を一周して潮目にもよるが午後1時半ごろに戻ってくる。応援に行くと痘痕だらけのT君も白の水泳帽を被ってスタンバイしている。白帽子は遠泳訓練の正規の参加である。教官の話に拠ると学生の半数は入学時100mも泳げないが、手厚い指導の下7月初めには8㎞の遠泳に耐えられるようになる。

退院して間もなくのT君も無事に泳ぎ切りH君と笑顔で熱い豚汁を頬張る姿は達成感そのものだ。彼らはベトナムの士官学校で学業優秀な学生でありフィジカルも頑張る、細身ではあるがしなやかでタフである。1年生の遠泳、2年生のカッター訓練を終えると一人前の防大生となる。第一関門突破である。

横道にそれたがお父さんの鶏肉は身がしまっていて美味しかった。裏庭で飼っていた鶏肉に違いない。春巻きや料理を食した後は茶碗にご飯を盛りスープをかけて食べる。合理的で食器の洗い物が少ない。

食後、T君の近所の青藍寺を訪ねた。池には蓮の花、仏さまは極彩色、T君の母は仏像の前では必ずお題目を唱える。高台では住職と一人の僧が語り合っている。和やかな風景だ。昔、青藍寺は荒れ果てていたが1980年代後半に村の皆でお金を出し合って修復したそうだ。その寄付者の氏名が日本の寺と同じように銅板に刻まれている。

テト(旧正月・旧暦で大晦日から1月3日までの間)の時や生まれた赤ちゃんの名づけの時も寺に行くそうだ。寺には漢字が残っており村の人たちの精神的な拠り所なのだろう。1986年の「ドイモイ(刷新)政策」で集団農業に別れを告げ個々の農民は豊かになった。それと青藍寺修復は無縁ではあるまいと思う。

「ヘンガップライタイニャッパン!(日本で再会しましょう)」と約束し昼過ぎに私達はミーハオに向かった。(続く)

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です