▶400年前に日本が台湾を領有したかも知れない話 最終回(高22期 高橋克己)
そこでヌイツは「オランダ人の尊厳が昔日の如くでないこと」を早々に思い知る。平戸侯留守居役の応接が極めて不遜だったのだ。商館長ナイエンローデからも平戸における最近の横暴振りを愁訴された。8月半ばに使節は平戸を発ち、9月4日に江戸に入ったが、将軍との謁見を拒否され、献上品も受け取られないままタイオワンに戻った。
翌28年4月、平蔵のジャンク船2隻が弥兵衛に操られて再びタイオワンに入港した。武装した470人の乗組員と共に、前年日本に連れていった新港社の原住民も同乗していた。が、ヌイツは彼らの上陸を拒んだ。平戸の意趣返しだった。弥兵衛は従者数名と共に談判を許されたが、武装解除を承服させられ武器を接収された。原住民も入獄され、日本で贈られた品々はオランダ人に分配された。
日本人はジャンク船に軟禁され、飲み水にも事欠く有様で、支那との貿易も体よく引き延ばされ、日本への帰航許可も拒まれた。何より日本人の尊厳を傷つけ憤慨させたのは、談判の度に椅子に腰かけて組んだ足先が、日本人の頭に触れんばかりになるヌイツの振る舞いだった。この態度は弥兵衛をして「屈辱の中に生き永らえるよりは、むしろ斬り死にせん」と決意させた。
28年6月29日、弥兵衛は10数名の部下を伴い、ヌイツに出発の承諾を求めた。息子と部屋にいたヌイツは引見し、再び引き延ばして結局これを断った。その時、弥兵衛らはヌイツに襲いかかって羽交い絞めにし、弥兵衛は短刀をヌイツの胸に当てつつ縛り上げた。上席商務員のモイゼルが、急を聞いて駆け付けた兵員と共に日本人を射撃したが、弥兵衛はヌイツの首を切ると脅し発砲をやめさせた。
両者は人質を出し合うことで合意し、弥兵衛は、船と財産の返還と日本への安全な帰国を要求して認められ、28年7月、ヌイツの息子ローレンスを含むオランダ人6人の人質と共に日本に発った(ローレンスは31年末に大村監獄で死亡)。2度目のバタビア総督になっていたクーンは、老練な交渉役ヤンスゾーンを日本に派遣し、事態の収拾を図った。
藩主松浦隆信と平蔵はヤンスゾーンの将軍謁見を許さず、将軍名の返書を彼に渡した。そこには、日本人の帰国を妨害したのは遺憾であることや代償としてゼーランディア城を明け渡すことなどが書かれていた。バタビアでヤンスゾーンを迎えたのは、病死したクーンの後任総督スペックスだった。平戸商館長を務め日本事情に通じていたスペックスは返書の内容に疑念を懐き、オランダ側の釈明を縷々認めた覚書を託してヤンスゾーンを再び日本に派遣した。
ヤンスゾーンは30年10月に日本に着き、平戸商館の商務員として日本とタイオワンの事情に精通するカロンとサンテンを伴って12月中旬に江戸を目指したが、大阪に至って江戸から、公けの許可なく旅を継続すべからずとの命が下った。月日は過ぎ、32年の春頃から将軍秀忠は死の床に就き、家光が後を襲ったが、こうした事情も謁見が遅延する要因となった。
こうした中、日本人の性情を良く知るスペックスは、その怒りの原因が、ヌイツが彼らに加えた侮蔑にあると思うに至る。そしてヌイツの身柄を引き渡すことが解決の唯一の途であると結論した。今やタイオワン長官を罷免になり、弁明のためバタビアにいたヌイツは、斯くて30年5月に拘引された。
ハーグ国立文書館に所蔵されたヌイツの関係書には、「彼を一角の神学者か法律家に彷彿させるものこそあれ、有能な植民家を思わせるものはない」とある一方、「ヌイツを難ずるものには、彼の他国の風習への無知とその傲岸さが記されていた」とある。ヌイツは32年7月(9月到着)、老中への言上書(嘆願書)と共に日本に送られた。
32年10月2日に老中府に提出された言上書にはこうあった。
「彼はその身と弥兵衛殿との間に発生したる紛争のため、並びに新港人の取扱い不都合なりし科をもってこれを日本に送付すべきにつき、何卒将軍又高位諸彦におかれては彼の弁明と無実の科とを然るべく吟味相成るよう、その上にて、彼が日本の風習に不明なりしことが非行の基となりて今回の不祥事を惹起いたしたる次第分明致しましたらば、何卒他の和蘭人共々彼を釈放の上環致させ下さるよう、万一又別の事情によりて事件を年内に御裁断下され難き場合は、無辜の和蘭人と船舶並びに商品の抑留を解きその替わりヌイツの身柄を抑え置きて、適当なる時機にタイワン事件を御裁き戴く様願い上げる、(そして平戸商館会議に指令伝えられ、万一ヌイツが日本の奉行に引き渡さるるの止む無き場合には)慎重要心を尽くして和蘭国殊にはヌイツ自身の栄誉と対面を出来る限り傷付けられざるよう取計(られたい)」。
オランダに好意的な声が幕府に湧き上がった。不都合をなした者の処罰を日本の公平な判断に委ねたという事実、そして将軍制定の朱印状を冒涜したことに進んで裁きを受けるという事実が、幕府をしてこれを承認させたのだった。幕府は迅速な対応を取り、33年1月17日には「会社の財産、船舶並びに人財も自由にする」との報がスペックスにもたらされた(ヌイツの釈放は36年)。
背景には、平蔵の死後にタイオワン占有と貿易に対する関心が薄れたこと、イエズス会の布教への警戒心の反動としてのオランダ贔屓、そして何より芽生え始めていた鎖国の気運があった。大村監獄で赤痢のため死亡したローレンスの父親に対する同情もあったかも知れぬ。これの裏返しか、末次平蔵は弥兵衛らが帰国した後、捕えられて(何らかの不正によるとされる)30年7月5日に獄中死を遂げていた。
■おわりに
斯くて徳川幕府は、1639年の「第5次鎖国令」でポルトガル船の入港を禁止し、以降はオランダにのみ出島での商館運営を許した。鎖国は1854年に日米和親条約が結ばれるまでの締結まで215年にわたり続いた。それはオランダが1624年にタイオワンを占有し、1895年に日本が下関条約によって清から台湾を割譲された期間とほぼ重なる。
ここでは詳しく触れないが、この期間前半の日本の国力、すなわち軍事力と経済力は世界でも一頭地を抜いていた。例えば天下を統一した秀吉は、全国の大名の財や石見銀山の富を集めて、豪華絢爛たる聚楽第や伏見城、そして大阪城を築いたし、集めた武力によって明の征服を目指した朝鮮出兵を行った。
VOCとの貿易でも、例えば支那生糸の買い取り価格は22年に300テール(両)/1ピコルだったのが、28-31年には550テール、32年には600テールにまで高騰したが、それを受け入れた。またハーグ国立文書館の文献に拠れば、将軍秀忠(1632年没)は11年間に毎年5百万テールの経費を使い、なお55百万テールを蓄えたそうだ(1895年に下関条約で日本が清から得た賠償金は2億テール)。
こうした状況に照らせば、スペックス総督の日本に対する慇懃な姿勢が理解できるし、日本がタイオワンに執着しなかった理由も判る。領有したとして、奴隷風習のない日本が植民地経営に長けたオランダの様に対岸から苦力を連れてくることもなかろう。400年前の台湾は、数百万単位の漢人と万単位の原住民が暮らす日清戦争直後の台湾からは想像できない、まさに「化外の地」だったのだ。
最後に2つのトピックを述べて本稿を結ぶ。
・私の台湾の友人にオランダ人の血が入っているという、確かに色白の40代の青年がいる。
・台湾政府文化部は今年2月24-25日、『1624』と題する野外ミュージカルを後援した。(終わり)
本題から少し逸れますが、鎖国について一言。鎖国をするには一定の軍事力が必要なんですね。
仮に外国が鎖国に反対すれば一戦を交えて勝つ自信がないと出来ないからです。
アジアの諸国が欧州列強の植民地になっていったのは、この軍事力がなかったからですね(と言うより国家としての体をなしていなかった)。
当時の欧州の列強の事情も鎖国に好都合でした。英国は清教徒革命で対外進出どころではなかったし、スペインは30年戦争中でした。
鎖国は危険な欧州の進出から日本を守る最高の手段です。窓を小さくすれば国防もし易いからです。又幕藩体制の維持には鎖国は必要不可欠でした。鎖国によって幕藩体制の完成ですね。
勘違いする人が多いのですが、鎖国後の方が貿易量が上がっているんですね。
よく鎖国によって日本は世界の発展から取り残された、と言う人がいますが、発展とは何かという文明論をここで論ずるつもりはありませんが、二百数十年、多分10世代ほどに亘って、平和を享受したこと自体評価されるべきです。又、明治以来の日本の対外進出を帝国主義と批判する人が鎖国を批判するとしたらそれは自己矛盾そのものですね。
「鎖国をするには一定の軍事力が必要なんですね。仮に外国が鎖国に反対すれば一戦を交えて勝つ自信がないと出来ないからです」という話は、軍事同盟の是非論と通底すると思います。
非同盟のスイスやインドの軍事力は相当なもので、スイスなどは一朝事ある時は国民皆兵で応戦し、国を守る体制を整えています。ロシアに散々苦しめられたスウェーデンとフィンランドもほぼ非同盟の強国だったので、まさかNATOに入るとは思いませんでした。
同盟どころか国連加盟すらできない目下の台湾も、先ずは目指すべきはスイス、ということでしょう。日本はホント平和です。
非同盟の強国になるには物凄いコストが掛かりますよね。又、国民皆兵を台湾の人達が受け入れるのはかなり難しいでしょうね。
台湾には確か、世界一の半導体メーカーが有るんですよね。大分に工場を建設する予定ではなかったでしょうか?
軍事侵攻すると、このメーカーを無傷で接収することが出来なくなるので、中共は侵攻を控えているとか聞いたことがあります。
台湾のTSMCですね。iPhoneの心臓部の半導体(CPU)を作っています。熊本に巨大な工場が完成したようです。確かソニーも出資していたと思います。第二工場を作る計画もあるようですね。
『台湾国際ラジオ』のニュースレター6月14日の記事を紹介します。
https://jp.rti.org.tw/news/view/id/99586
「湾声楽団、熊本と東京でコンサートを開催」
台湾の音楽を中心に演奏する「灣聲樂團(One Song Orchestra)」が6月19日に熊本県立劇場コンサートホールで、21日には東京のサントリーホールでコンサートを行う。 今回は初の弦楽オーケストラでの日本公演となる。(写真:Rti)
今回は初の弦楽オーケストラでの日本公演であり、初めて世界十大コンサートホールの一つであるサントリーホールに登場します。
また、台湾積体電路製造(TSMC)が熊本に工場を設立したことから、今回の熊本公演は台積電文教基金會(TSMC文教基金会)が独占スポンサーとなっており、ウエハー産業のみならず、より多くの文化的な交流ももたらしたいとしています。
音楽プロデューサーの李哲藝氏は、今回の公演では、台湾の作曲家による作品を演奏するだけでなく、日本の人々にもなじみのある曲をアレンジし、台湾と日本の音楽家による共演を行う予定で、熊本では地元の第一高校合唱部との共演を行うと語っています。
台積電文教基金會(TSMC文教基金会)の許峻郎・CEOは、この公演はTSMCが初めて協賛する台湾の楽団の海外公演であり、熊本とのより多くの文化的交流をしていきたいと考えていると説明。当日はTSMCの日本のスタッフや工場周辺エリアの市民らも招待し、ともに公演を楽しみたいと語りました。
台湾には18歳以上の男子に徴兵制度があり、従来4ヵ月間だったのを今年1月から1年間に延ばしました。台湾在勤当時、2度ほど採用面接をしたことがありますが、日本の様に新卒を4月に入社させるスタイルではなくほとんどが転職なので、募集時期や応募者の年齢もまちまちなら兵役の時期も様々で、履歴書を見て少々驚きました。
国防には「能力」と「意思」が必要で、確かに「能力」増強にはコストが掛かります。レーガンは、米国が「台湾関係法」に基づき台湾に売却する武器の質と量は、中国の脅威の度合いに比例すると述べました。国防費は益々必要になるでしょうね。
一方、「意思」の強化にコストは掛かりません。事ある毎に中国が大演習をしてくれるので、台湾人の国防の「意思」はイヤでも高まります。とはいえ、あくまで私の感覚ですが、特に若者は危機感をあまり感じていないように思います。
無知を恥じております。
台湾の人達は、日本なんかより遙かに危機意識が高いんですね!
失礼、熊本でしたか!
大分に東芝があった(今もあるのか?)お陰で、九州は以前、ICアイランドと呼ばれていましたよ。TSMCのお陰で再現しましたね。ですが、TSMCは日本だけでなく、米国やドイツ、そして中国でも増強しています。熊本を選んだ理由を私は、SONYの隣に土地があった、豊富な水がある、姉妹都市である熊本と高雄の縁、と勝手に思っています。
創業者のモリス・チャンは中国生まれですが、国共内戦で香港に行き、米国で学んでRCAに入って大幹部になっていたところ、半導体立国を目指す台湾政府の呼び掛けに応じて、台湾でTSMCを起業しました。AI用GPUを武器に業界トップに躍り出たNVIDIAの創業者ジェンスン・フアンも台南の生まれです。やはり華僑の血がなせる業でしょうか。日本人とはだいぶ違いますね。
産業立国の日本も奮起しないといけませんね。
先月熊本に行った時、TSMCの工場がある菊陽町のテックパークを横目で見ながら国道を走りました。広大な敷地は未だに建設ラッシュのようで周辺にはホテルが建ちTSMCの波及力を感じました。熊本から門司まで約3時間、門司から横須賀まで21時間、丸1日で関東圏と結ばれている、予想外に近く感じました。
TMSCが熊本に工場を作る話は知っていましたが、なんか、あっという間に出来てしまうんですね。考えると、システム化された製造装置を並べて、ネットに繋げば使えてしまう。それを収納する建物があればよい、のですぐ出来るんですね。
それと今はAIですね、生成AIが中心でしょう。数年前、仕事でホンダの工場へ行きましたが、社員の話しぶりからは、それは、あまり歓迎されていないようでした。
翻って、私の工場、7台のNCマシンがありますが、使い方が難しすぎて、新人さんは当然として、そこそこのベテランでも、機械が違えば素人同然になってしまう。これでは発展できませんよね。現状を無視して、一気に新しくしないと成長できない、そのジレンマをどうするか、難しいところですね。