▶日本とメキシコ(高22期 加藤 麻貴子)

 メキシコの帆船が横須賀に寄港したことで思い出したことがありました。

 1989年夏メキシコの日墨学院の女子高生が我が家に3泊4日で泊まりにきました。私のスペイン語はというと、オラ、ヨソイ、ムイビエン、グラシアスなどはっきり日本語の意味で解っていたのは片手ぐらいでした。でもコミュニケーションには問題がありませんでした。日々聞いていたスペイン語が口をついて出てきたり、意味がどんどん付いていくのが面白くて堪りませんでした。

 また日本のけん玉と良く似たおもちゃと梅干しのようなお菓子をお土産にもらい驚きました。考えてみればメキシコは太平洋を挟んだ隣国です。

 最後の日にお土産を渡しながら「ヌンカオルビダレ!(けして忘れない!)」と言うと、私をハグして「ヌンカはほんの2,3日の友人にいう言葉ではないのに言ってくれるなんて!」と泣き出し私はとても心を動かされました。こんな出会いがあったのでメキシコはとても気になる国になりました。

 先日のメキシコ帆船にあった御宿の記事の様にサンフランシスコ号の座礁をきっかけに400年以上になる交流が続いています。

1609年 御宿にスペイン船のフランシスコ号が座礁、メキシコ生まれのロドリゴ・デ・ビベロ等乗組員を村の人たちが助けて保護をする。家康は彼らを駿府に招き歓待し、三浦按針の設計した船で浦賀からアカプルコに向け出航させた。また同時にスペインとの貿易を目論んで21人の日本人調査隊を同行させた。ビベロは帰国を待つ間に日本国内を旅行し「日本見聞記」を出版した。

1611年 スペイン領メキシコから特派使節が上記の日本人を同船させ来訪、ビベロ(メキシコ王の甥)等の帰還を謝辞、メキシコ王は家康に金銅製の洋時計を贈呈するが、彼らの船は日本到着後大破したため、下記の使節団と共に帰還することとなった

1613年 伊達政宗がメキシコ経由でスペインに支倉常長ら遣欧使節団を派遣するがその後鎖国となり、帰国は非常に困難となった。

1841年 日本船(乗組員13人)が太平洋で難破、紆余曲折あるもメキシコに2~3年滞在した5名が1844年にフィリピン経由で帰還を果たし、奉行所で聞き取られた話が「墨是可新話」あるいは「漂流人善助聞書」として1845年に発行された。

1874年 メキシコの科学者が金星の太陽面通過の観察のために来日し政府は横浜の山手と野毛山に電設するなど便宜を図り、神戸と長崎で観測をしていた米仏とも連絡を取り合い、観測結果を翌年、パリで発表。このことが1876年にメキシコ国立天文台創設されたことに繋がっている。

1888年 日墨修好通商航海条約(当時の日本側資料には墨西可合衆国商航海通商条約)日本にとって初めての平等条約が結ばれその謝意として1952年にメキシコの駐日大使館だけが永田町に置かれた。

1897年 「榎本植民団」の35名がチアパス州にわたるがこの移民政策は失敗するが、現地に残った日本人は後の移民者たちの礎となる。

1972年 交換留学生協定が結ばれる。

1977年 当時の首相田中角栄の訪問を機に日本政府が3億円の拠出をして日墨学院が発足し1989年には高校部が設けられる。

 以上のように日本とメキシコは浅からぬ縁で繋がっています。

さて私はヒッポファミリークラブ(LEXHippo)というクラブの40年来のメンバーです。LEXというのはLanguage of experience経験、exchange交流、 and experiment実験という意味です。いろいろな国の人のホームステイを引き受けるのもこのクラブの縁があるからです。

30年ほど前、メキシコ大使館からLEXHippoに「来日した大学生20名近くが宿泊先が無くて困っていて助けてほしい」と連絡があり、皆その日のうちにメンバーの家にお世話になることが決まりました。その大学生のうち二人は卒業後結婚し、子どもが生まれLEXHippoの活動を希望しメキシコにも同じクラブが誕生し、相互の交流は深くなっています。

 人と人との繋がりは世代を超えて続いていくように思います。返す返すもメキシコの帆船を見に行かなかったことが悔やまれます。

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