▶ドイツ中世史の一断章 神聖ローマ帝国の光と影 その1(高22期 松原 隆文)

一、ザクセン朝の始まり
(1)ハインリヒ1世の即位
 915年5月、ザクセン族の指導者ハインリヒは、混迷した東フランク王国の国王に選ばれた。フランク王国はここにフランク族以外の王を頂くことになった。当時の東フランクは部族大公が割拠し、分裂的傾向が強まりつつあった。こうした状況の中でハインリヒはマインツ大司教による塗油と戴冠を辞退し、諸分国の上に立つ神権的君主としてでなく、いわば同輩の長として諸大公と協調して統治をおこなうという姿勢を打ち出した。当時の王国の実態はザクセン、シュヴァーベン、バイエルン、フランケン、ロートリンゲンを中心とした部族連合王国であった。
 ハインリヒは王国の安定化のために精力的な努力を続けたが、彼の最大の功績は王国単独継承の原則を導入したことであった。それまでのカロリング・フランク王国の伝統は分割相続であったが、彼は入念な準備により後継者にオットーを指名し、これによって以降の王国の安定性と連続性が高められたのであった。
 余談だが、ハインリヒの綽名は「捕鳥王」である。これは彼が狩猟(特に鳥)が大好きだったことによる。嘗ての狩猟民族の首領の面目躍如と言えようか。

(2)オット-1世の登位
 936年7月、ハインリヒの死去により,その遺志に基づきオット-の国王選挙と即位の式典がカール大帝ゆかりの王宮アーヘンで執り行われた。この時オット-は、まず大公その他の世俗有力者による国王推戴を受けて玉座につき、彼らは王に対し臣従の誓約をなした。次いでこの選ばれた君主はフランク人の衣装に身を包んで教会堂に入り、マインツ大司教によって王として宣旨され、並みいる聖俗人民は賛同の歓呼をもって答えた。そして最後に塗油をもって聖別され、王冠が授与された。この儀式が終わると王宮に於いて盛大な祝宴が催されたが、王国最高位の四人の大公は宮内職をそれぞれ恭しく務めた。
 この即位の式典から分かるように、オット-は自らをカール大帝のフランク王国の正当な後継者であることを内外に示し、またその王権の神権的性格を主張するものであった。彼が父ハインリヒと異なり、その治世の初めから諸部族の上に立つ神権的国王として統治を開始しようとしていたことは明らかである。

(3)対ハンガリー戦の勝利
 オットーの差し迫った問題はマジャール人(ハンガリー人)の侵入であった。905年にも東フランクを急襲したことのあるマジャール人は、955年大挙して侵入を企てた。これに対してオットーは王国全土から軍を集め、アウグスブルグ近くのレヒフェルトの戦いで決定的勝利を得た。この勝利でオットーの権威は周くキリスト教世界に髙まった。また軍隊はオットーを「皇帝」として歓呼していた(軍隊帝権)。
 軍隊帝権の概念は、戦時の将軍のカリスマが戦勝によって実証され、政治的支配者即ち王に転化するという古フランク的伝統と古代ローマ皇帝が軍隊の支持を受けて皇帝になった事実とを結びつけたものである。
 武人の戦勝が政治権力に転化するのは古今東西同じである。日本でも頼朝が平家打倒の戦いに勝利し続けて、全国の武士の大半を支配したことによって征夷大将軍に任じられて武家政治を始めている。徳川家康は、度重なる戦い勝ち続け、最後の優勝決定戦ともいうべき関ヶ原の戦いで勝利して、これも征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いている。

(4)オットーの皇帝戴冠
 オットーは都合3回イタリアへ遠征したが、その直接的動機は全て混迷したイタリア情勢の解決のためであった。まず最初の遠征で、彼はイタリア王位を獲得した。以降イタリア王は歴代フランク王がこれを兼任することになる。次いで962年、ローマ教皇の救援要請を受けたオットーは大軍を率いてアルプスを越えてローマに入り、教皇の手から皇帝の冠を受けた。これによって西方世界は、ほぼ40年の空位のあと、強力な皇帝を持つことになった。
 オットーの皇帝戴冠についての評価は様々だが、要するにオットーは、カール大帝以来のフランク王として西方キリスト教世界の指導者としての任務を果たそうとしただけなのである。オットーはこの皇帝戴冠により、西方世界に一種の覇権を確立すると共に、ローマ教会に対しても「フランク人民」の名において保護・支配権を確認している。
 即ち、ローマのパトリキウス(保護者)としての義務を負い、「ピピンの寄進」を更新する反面、教皇にはその選出の後、聖別の前に皇帝への忠誠誓約を義務付けた。いわゆる「オトニス・プレヴィレギウム(オットーの特権)」である。これによって、皇帝は、教皇に対する監督権を恒常的に行使するようになった。
 以上のような内外の輝かしい成功によってオットーは確かに東フランク王の支配権力を高め、王国の統合を強化した。しかし、オットーの王国も決して体系的な統治組織を持った集権的国家ではなかった。その意味では王国の支配基盤は構造的に脆弱で不安定であった

二、諸侯の存在と王国教会政策の展開
 まず諸侯を論ずる前提として、部族について若干の説明をしなければならない。
フン族の最強首領アッティラがドナウ川を越えたことで、ゲルマンの諸部族も移動を余儀なくされた。簡単に紹介したい。
 まずヴァンダル族は地中海を渡り、現チュニジアのカルタゴを拠点としてヴァンダル王国を建設したが、534年、東ローマ帝国に滅ぼされた。
 東ゴート族は、イタリア半島に入り、東ゴート王国を作ったが、これも553年東ローマ帝国に滅ぼされた。
 スエヴィ族は、イベリア半島に入り、スエヴィ王国を作ったが、585年、西ゴート王国に滅ぼされた。尚,「スエヴィ」は「シュヴァーベン」の語源らしい。
 西ゴート族は、これもイベリア半島に入り、西ゴート王国を作ったが、711年、イスラム勢力に滅ぼされた。
 ランゴバルド族は、イタリアを支配し、ランゴバルド王国を建国したが、773年カール大帝に征服された。ロンバルディア(即ちイタリア)の語源は周知のとおりランゴバルドである。 
 要するにゲルマン諸部族が建国した国はいずれもが短命であったが(例外としてイギリスに渡ったサクソン族はイングランド王国の基となった)、ガリアに移動したフランク族が建国したフランク王国のみは、長期存続発展した。
 即ち英傑カールが征服事業を行い、現在のフランス、ドイツ、イタリアに該当する地域を彼の影響下に置いた。カールは800年にローマ教皇から帝冠を受け、ここにカール大帝の統治するいわゆるキリスト教ローマ帝国が成立した。
 この一連の行為、即ち「西欧キリスト教世界の統合」は、以降数世紀に亘って西欧世界最大の政治目標であり続けた。
 因みに他の部族は全てアリウス派であったが、ひとりフランク族のみはアタナシウス派を信じていたので、フランク王国がローマ教皇と結びつくのも当然の帰結であった。
 さて、ゲルマン部族の中には長駆の移動をせず、東フランクの地域に定住した部族もいる。ザクセン族、バイエルン族、シュヴァーベン族(アレマン族)である。尚、テューリンゲン族は滅ぼされ、地名のみにその記憶をとどめている。 彼らは、現在も通用するその名を冠した地域に定着発展し、諸侯となったのである。
 さて本題に入りたい。以上からも分かるように、東フランクはカロリンガーの頃から分権的傾向が強く、有力諸侯が割拠するところであった。「諸侯」の定義は極めて難しくまた時代によりその内容が変化していくのだが、大雑把に分類すれば以下のようになる。 即ち、ザクセン朝初期においては前述のように部族大公に代表される部族のまとまりが大きな勢力を持っていた。しかし後述するオットーの教会政策の展開もあって、次のオットー2世の頃にはこの部族的基盤は解体に向かっている。 因みに955年の対ハンガリー戦はこの部族単位で招集され、戦闘部隊は各大公の指揮毎に編成された。しかし、以降のイタリア遠征等においては、王国教会や修道院の提供する騎士団の比重が圧倒的に多くなり、こうした部族単位の招集は行われていない。
 その後、ザクセン朝後期から、次のザーリアー朝を経てシュタウフェン朝に至るまでの期間は東フランクにおける封建制の進展に応じて、在地有力豪族たる「諸侯」がその勢力を拡大していく過程となる。 因みに東フランクの封建化は西フランクよりかなり遅れ、11世紀頃から本格化している。シュタウフェン朝の後期においては領邦国家の原型が姿を現し、やがて中世後期の等族として分権化が確定するのである。
 こうした状況の中で王国がその支配秩序を維持するためには、当時唯一の「行政組織」を持った教会の役割が何よりも重要であった。 
 そもそも教会は諸侯の対立を超越しており、また世襲化の恐れが無い。何よりもカロリング朝以来フランク王国は聖・俗の未分化を前提とした宗教的政治共同体であった。つまり本質的に王国の組織と教会の組織は重なり合っていたのである。国王は司教教会を保護し、盛んに寄進して諸特権を付与した。他方、司教教会は国王に寄宿を提供し、出兵割り当てを果たし、司教は王国の行政の主たる担い手でもあった。両者のこうした親密な相互関係は東フランク王国の特徴であり、歴代フランク王はこの王国教会政策を正に王国統治の要(かなめ)として堅持した。
 そしていわゆる叙任権闘争によって、この神権政治が破綻したとき、東フランク王は新たな統治理論と政策を構築し直さなければならなくなっのであるが、それにはフリードリヒ・バルバロッサの登場を待たねばならなかった。

三、歴代国王のイタリア遠征と皇帝戴冠 
(1)歴代国王のイタリア遠征
 オットー1世以降、東フランク歴代国王はイタリア政策を重視し、度々ローマへ遠征した。その主たる目的は、まず北イタリアの平定であり、次いで主に教皇人事を巡る争いの解決であり、そして皇帝戴冠であった。この三つは互いに関連しており、その一つを欠くと、他のいずれの目的も達せられなかった。当時の教皇人事はイタリア貴族の党派の争いによって左右されることが度々あり、東フランク王は時には救援要請を受け「ローマのパトリキウス」の義務を果たし、時には強権をもって、即ち「オトニスプレヴィレギウム」によってこの問題に介入した。ザーリアー朝のハインリヒ3世が、三人の教皇を次々と罷免し、自らの信頼に応えられる教皇をわざわざ指名して皇帝戴冠を受けた事件は、中世皇帝権の力の絶頂を示すものである。

(2)皇帝戴冠
 以上のようにオットー1世以降、歴代東フランク国王はイタリア遠征を繰り返し行って皇帝戴冠を受けたので、東フランク王位とローマ皇帝位とが分かち難く結びつくことになり、東フランク王位を経ずしては皇帝位を取得出来ないという伝統が形成された。 また、この皇帝権を東フランク王が連続して担うことになったのも、当時の西ヨーロッパにはザクセン朝以外に有力な政治権力が存在しなかったという歴史状況による偶然の結果であった。 
 ところで、イタリア遠征の度に東フランク諸分国の聖・俗諸侯は人的・物的奉仕を果たさねばならなかったが、彼らはこの遠征を通じて同じゲルマン語系の者として帰属意識・一体感を強めていった。そしてイタリア遠征の度にイタリア人からは、アルプス以北の言語の異なる「異人」として激しい反感を買ったこと、いわば外部から自分たちを区別されたことも、受動的ではあるがその帰属意識を持たざるを得なくなった一因である。その象徴的な例として、オットー3世がローマ人の反乱に遭って、初めてアルプス以北の自国民を「テウトニア」つまりドイツ人として表現したことが挙げられる。

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