▶ドイツ中世史の一断章 神聖ローマ帝国の光と影 その2(高22期 松原 隆文)

一、叙任権闘争
(1)1049年、レオ9世の登位以来、改革教皇庁は徐々に自らの組織を形成し、信仰・思想上の権威を高めていったが、それはやがて「教会の自由」を掲げた自らの独立性の主張へと発展していった。それは原理的・政策的に皇帝権の主張と相容れないものであり、やがて教皇と皇帝は徐々にその対立を深めていった。以下その推移を簡単に述べる。
 既に1059年のラテラノ会議で、今日においてなお妥当する「教皇選挙教令」が制定された。それは、教皇選出を枢機卿の選挙によって決定されるべしとするものであり、フランク王へは事後の了解を求めるだけである。これによってフランク王による教皇の任命・罷免権は否定されたのであった。
 1071年以来、ミラノ大司教の選任を巡ってフランク王ハインリヒ4世と教皇の対立が深まる中、1075年、教皇グレゴリウス7世は教皇訓書を発し、ローマ教皇の首位権及び全教会に対する絶対的命令が強調された。しかもその首位権は世俗世界全体にまで及ぶとされ、皇帝を廃位することも出来ると宣明されていた。その思想は、東フランク王が伝統的に有していた神権的支配者としての地位を否定するものであり、ここに至って教皇とハインリヒ4世との対立は決定的となった。
 そして1077年、破門されて苦境に陥ったハインリヒが教皇に謝罪した「カノッサの屈辱」事件は、教皇と皇帝の争いの中で最も有名である。この中世世界を揺るがした大事件も、近年のドイツでは新たな評価が始まっているらしい。
 この事件に関し、多くのコメントをする能力は持ち合わせていないが、一つ言えるのは,この頃の東フランクは漸く封建化が進み始めていた時期で、国内諸侯が自己の利益を守るため、皇帝より教皇に味方したことがハインリヒには痛手であったと考える。
 いずれにしても、筆者などは「カノッサの屈辱」と聞いただけで、歴史のロマンを感じ、血湧き肉躍り、あらゆる想像力を搔き立ててしまう。 幕末史に興味がある者が、「蛤御門の変」と聞いただけで反応するのと同じだ。
 1078年、教皇グレゴリウス7世は、(国王も含む)俗人から「教会」を受領してはならないという教令を発した。これこそ国王・皇帝を相手とした「叙任権闘争」を宣言する教会法の制定であった。これによって本格的に叙任権闘争が開始されたのである。
 叙任権を否定されることはフランク王の神権的支配者としての地位そのものの否定であり、また長年機能してきた王国教会政策そのものの否定である。フランク王がこれに反発するのは当然であった。以降、叙任権闘争は主に司教の叙任権を巡って争われることになる。付言だが東フランクでは国王は俗人では無い。マインツ大司教によって聖別されたときからある種の聖性を備えた存在となり、それは東フランク全体の共通認識でもあった。だから国王が司教を叙任することに何の疑問を持たなかったのも当然であり、俗人扱いされた国王が強い反発をしたのも当然であった。
 ところで叙任権とは何かと問われるとこれに答えるのはかなり難しい。ただ重要なことは叙任権とはいわゆる「任命権」ではないということは抑えておきたい。強いて言えば物件的授与権を含めた「教会全体の」授与である。そしてこの「教会全体の授与」自体が初めは漠然とした概念であったので、余計複雑な争いとなった。
 その後シャトル学派によって、「教会」に分析的思考が加えられた。そこでは霊的・宗教的な教会に対する諸権・支配権と、物件的・世俗的な教会に対する諸権・支配権とが区別された。これがのちのヴォルムスの協約の地均し(じならし)となったのである。
 例えは非常に悪いが、大学の学長は教授会で選び、理事長は評議員会で選ぶ。それぞれ権限が異なる。思考の参考にだけしてもらいたい。

二、ヴォルムスの協約
 1122年、ヴォルムスに於いて、皇帝ハインリヒ5世と教皇カリクトゥス2世(特使)との間で協約が締結された。これは前記の「教会」についての考え方を踏まえたものであった。その内容は以下のとおりである。
 皇帝は、「指輪と杖」即ち霊的シンボルをもってする教会の授与を放棄し、全ての教会に於いて教会法に基づく選挙と教皇による叙階を保証する。
 被選挙者は、霊的職務に就く為の叙階の前に、皇帝からレガーリア即ち世俗的所領・諸権をシンボルとしての笏をもって授与されるべく、その際、聖職者が国王に対し封建的誓約の臣従礼をなすことが認められた。しかし皇帝支配のイタリアとブルグンドにおいては、ドイツの場合と違って、叙階の後にレガーリア授与がなさることが認められた。この両国については、皇帝の選挙監視能力が及ばなかったのである。
 国王が神権政治の主体として君臨した教会に対する支配権を失ったことによる打撃は、理念的には確かに大きなものがあった。しかし封建制が進行する中で、今や聖界諸侯の地位を築きつつある王国教会に対する支配権を確保したことは実質的成果であった。ただ王国教会に対する直接的支配はこの後、国王の世俗諸侯に対するのと同じレーン制を通じた封建的受封関係に転換されたのであった。これは国王的国制から封建的国制への移行を予告するものであった。
 ヴォルムスの協約は、ある意味でカール大帝に始まる神権政治の終焉であった。即ち政治と宗教の未分化を前提として、神権的君主が諸国と教会を支配・統治するという体制の崩壊である。これによって教会の外に出された俗人君主は、新しく支配の根拠を打ち立て、世俗的支配の体制を構築しなければならなくなった。これは好まざる結果ではあったが、いわば政治の独立・ある種の「近代化」の第一歩だったと言えるのではなかろうか。

三、ドイツ国の始まり
 ヴォルムスの協約において、「ドイツ王国」と爾余の帝国部分即ちイタリアとブルグンドとを区別したことは注目に値する。つまりドイツ王国なる国名が王国の国制上初めて認められたことを意味する。歴代王たちは、その王国を(東)フランク王国と自称していた。ドイツなる名称は決して自称ではなく他称であったことは前述のとおりである。この名称は、その使われ方の経緯からして、むしろ意識的に避けられてきたものであった。だがヴォルムスの協約の頃からヨーロッパの国際用語となったのである。
 国王の正式な称号は、11世紀に入ってまで「フランク人の王」であり、その後ザーリアー朝のハインリヒ3世の頃から「ローマ人の王(ローマ王)」となった。つまりドイツ王国国王の称号は「ローマ王」なのである。ローマ王はローマに遠征し戴冠を受けるとローマ皇帝となった。ドイツ王はイタリア王とブルグンド王(1032年、相続契約によってコンラート2世の時に取得)を兼ねるのでローマ皇帝の領土的内実はドイツ及び帝国イタリアそれにブルグンド王国であった。
 筆者が今まで敢えて「ドイツ王国」という名称を避けてきたのは、現代の国名をそのまま歴史的用語に用いるのは妥当でないと判断したからである。因みに、時は下って15世紀末の皇帝マクシミリアン1世を描いたデューラーの有名な肖像画を見てもらいたい。読み取りにくいが、ここにはラテン語でエンペラター・カエサル・アウグストゥス・マクシミリアヌスと書かれている。これがローマ皇帝の正確な公式名称であろう。そして大空位時代を経て、13世紀にいわゆる「神聖ローマ帝国」として定着するのである。ただこの頃は帝国の権力がほぼ空白化し始めた時期であリ、皮肉な名称となったのである。
 余談だが、中世のドイツには首都がなかった。ドイツ王(ここからはそう呼ぶ)は、常に国内を巡回し、その際同行したのは、腹心的家臣及び宮廷聖職者であった。後者は主として行政官等の役割を果たした。しかしこの体制は、政治の連続性という意味では当時のビザンツ帝国などより遙かに効率の悪いものだったと推測される。翻って当時の我が国では律令制が整えられ、平安時代の摂関政治が全盛期を迎え、人口10万人以上の京の都では貴族文化が花開き、大いに栄えていた。叙任権闘争で皇帝側が教皇に負けたのも、組織力や理論武装の点で劣っていたこともその原因の一つではなかったろうか。因みにローマ・カトリック教会は今日に於いても世界最大の組織である。

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