▶ドイツ中世史の一断章 神聖ローマ帝国の光と影 その3(高22期 松原 隆文)

前期シュタウフェン朝の時代  フリードリヒ・バルバロッサの登場
 1152年、ドイツ国王に選挙されたフリードリヒ1世(フリードリヒ・バルバロッサ)の課題は言うまでもなく叙任権闘争によって混乱した王国秩序の回復と新たな支配原理の創設であった。

(1)バルバロッサの皇帝理念
 バルバロッサの皇帝戴冠は1155年に行われたが、既にそれ以前から皇帝を称していた。これは前任者のコンラート3世の理念を引き継いだものであるが、更に彼はボローニャから法学博士を招き、新しい法学の成果たるローマ法を積極的に取り入れて皇帝理念の構築を図った。 即ち、王権・皇帝権のいずれもドイツ諸候の選挙に基づき、直接神から授与されたものだとする理論である。これによれば、ローマでの戴冠は、国王選挙におけるマインツ大司教の第一票目の投票、ケルン大司教による聖祚に続く一連の手続きの最後のものに過ぎず、設権的効力は認められないことになる。
 このバルバロッサの皇帝理念はドイツ司教層の支持を得て広く知れ渡り、以降の歴代皇帝もこれを踏襲した。時は下り 先述のマクシミリアン1世はドイツ王位を継承すると、直ちに「選挙されたローマ皇帝」を称した。バルバロッサの皇帝理念はここに完成したのである(ただこの頃の「ローマ皇帝」はほとんど意味をなさなかったのであるが)。
 彼は自らを古代ローマ皇帝の後継者として位置付け、ローマ法源を根拠として皇帝の諸権限を主張したのである。それはカール大帝やオットー1世以来の歴代皇帝が名乗ったローマ皇帝とは、名称は同じでも原理的に異なるものと言える。即ち、カールやオットーはよく言われるように、皇帝と教皇という二つの中心を持つ楕円的世界の中にいたのである。
 歴史的にみて、カールは自己の正当性の認証のために教皇の存在を必要とし、教皇もビザンツからの独立のためにカールを必要としたのである。荒っぽい言い方をすれば、その意味で「カノッサへの道」はカールの戴冠の時から予定されていたとも言える。神権的皇帝支配は、宗教いや教会と政治が未分離の社会においてのみ存在し得たのであった。
 *ここで一言:バルバロッサが、叙任権闘争で神権政治を否定され教会の外に出された皇帝の支配原理を新たに構築するためにローマ法を持ち出したことは、政治の近代化の小さな第一歩だったかもしれない。
 ただ、古代ローマ皇帝は元老院に支持されて皇帝となり、その時点で皇帝の権力根拠は完結する。要するに、そこには神は出てこないのだ。
 しかしバルバロッサは、諸侯の選挙で選ばれると皇帝権は神から授与される、としている。これが古代ローマ人と西欧中世人の思考の違いであろう。バルバロッサはあくまで、西欧キリスト教世界の統合を自らの目標としていたのである。
それにしても西欧中世人が、古代ローマに対してある種の憧憬を何世紀にも亘って持ち続けたことは、我々日本人にはちょっと分かり難いことかもしれない。

(2) バルバロッサの皇帝政策
 彼はその治世の初めから、帝国の再建について明快な全体構想を持っていた。即ち、シュヴァーベン、ブルグンド、北イタリアを皇帝の直轄統治下に置き、この力の拠点を中心として、ドイツ、イタリア、ベーメンの全域に支配を及ぼそうとするものである。シュヴァーベンは当時のバルバロッサの領国であり、北イタリアは当時の経済的先進地域である。ここからの税収を期待したのである。またブルグンドはアルプス越えの要所である。 封建化の進展によって、ドイツ内部に広範な物質的基盤を期待出来ない状況の中で、バルバロッサがこうした構想を持ったことはむしろ当然であった。
 バルバロッサは都合6回イタリアに遠征したが、必ずしも当初の目的を達成したとは言い難い。しかし、これを19世紀の小ドイツ主義的歴史観からドイツの統一が遅れた!などと評価するのは、時代錯誤の後講釈(アトコウシャク)だと言わねばならない。そもそも、バルバロッサの頃は全国土を官僚的に支配するなどとは誰も発想していなかったからである。また、当時の帝国は、ドイツ一国の枠組みを遥かに超えていたので、帝国の政策もヨーロッパ全域に広がっていたのである。だからバルバロッサの政策は不自然でもなければ非現実的でもなかった。
 しかし、古代ローマ皇帝の後継者を名乗って、北イタリアに度々侵入して来るバルバロッサは、現地のイタリア市民達にとっては、とんでもない厄介者であったに違いない。ミラノでは、市民達が素手で戦い、投石をしている。多分「この赤髭野郎!」と呼んで憎んでいたに違いない。

(3) 十字軍参加とその結末
 1189年、第3回十字軍に参加したバルバロッサはドナウ川を渡り、ウイーンから陸路東方へ向かった。一つの疑問だが、何故陸路を選んだのであろうか?海路で順帆ならひと月でエルサレムに到着する。他方、陸路だと山また山を越えなければならない。バルバロッサはすでに70歳の高齢だった。この疑問は謎のままだ。
 それはそれとして、進軍途上、セルビア、アルメニアは皇帝の支配に服した。この時点で彼は、オリエント世界を含む「地中海帝国」のような構想を持っていたのかもしれない。しかし翌1190年、イスラム勢力に勝利した後、6月10日、バルバロッサはパレスティナへ到達することなく、小アジアのサレフ川で呆気なく溺死してしまった。
 以上、彼の38年の治世を追ってみると、そこにはそれまでの「神権政治」の支配者から一歩進んだ近代的政治力学の萌芽を読み取ることが出来るのである。
 バルバロッサはその後英雄として語り継がれ、ドイツが危機に陥ると現れる!という伝説が生まれた。知っている人も多いと思うが、「バルバロッサ作戦」は彼の名を冠したものだ。
 
余談を一つ: 溺死というと北白川宮を思い起こす。彼は幕末時に、輪王寺宮公現親王と称していた。いわゆる輪王寺門跡である。幕府は、西国大名が天皇を擁して幕府を朝敵としたまさかの場合に備えて、常に宮様を門跡として輪王寺に迎えていた。いざという時の切り札として輪王寺宮を擁立するというまさに思想戦に備えていたのであり、宮は、普段は上野の寛永寺に住んでいた。
 そして、その「まさか」の時が来たのである。戊辰戦争で奥羽越同盟に担がれて、正史にはないが、「東武天皇」を名乗っているらしい。しかし同盟側があっけなく敗れたため謹慎処分となった。暫くして罪を赦され、北白川宮家を継承したのである。その後ドイツに留学してドイツ人女性と恋愛し、結婚するつもりであった、しかし、明治時代の華族社会では認められず、諦めるしかなかった。その後陸軍に入り、陸軍中将・台湾平定総督として出陣し、マラリアで亡くなっている。この波瀾万丈の生涯の為、ヤマトタケルに擬せられ、しかも美男だったこともあり、戦前では非常に人気があった。ただ宮の死については、渡河中に襲撃されて死亡したという噂が当時から巷間で囁かれていたらしい。
 勝手な推測は控えるべきだが、バルバロッサも北白川宮も、敵対勢力が選り殊りの水泳の名人を使って、水中を潜って接近させ、河に引きずり込んだのではないか?などと想像してしまうのは筆者だけであろうか。

 3回の予定でしたが、都合あともう1回あります。カール五世とマルチン・ルターそして若干のコメントとします 。

    ▶ドイツ中世史の一断章 神聖ローマ帝国の光と影 その3(高22期 松原 隆文)” に対して6件のコメントがあります。

    1. 高橋克己 より:

      読み応えのあるというか、あり過ぎる四部作ですが、三作目にしてようやくコメントします。
      「ここで一言」で、「それにしても西欧中世人が、古代ローマに対してある種の憧憬を何世紀にも亘って持ち続けたことは、我々日本人にはちょっと分かり難いことかもしれない」と書いておられます。が、私はこの時代のドイツに疎いながらも、バルバロッサが「皇帝理念の構築を図った。 即ち、王権・皇帝権のいずれもドイツ諸候の選挙に基づき、直接神から授与されたものだとする理論である」とする辺りから、日本の征夷大将軍と天皇の関係が想起されて、バルバロッサによる皇帝理念の完成と頼朝による鎌倉幕府の成立が二重写しになりました。時代も共に12世紀後半の出来事ですし。

      「余談を一つ」では、「溺死」をキーワードに「北白川宮を思い起こす」「宮の死については、渡河中に襲撃されて死亡したという噂が当時から巷間で囁かれていたらしい」と書いておられます。当人から、この話は台湾オタクの私(高橋)から聞いたことによる、と伺いました。それは以前別のサイトに投稿した「韓国人に知ってほしい『台湾抗日の歴史』」と題するブログ*に『台湾人四百年』(史明)から引用した下記の一節ですが、私は原住民の「出草(首狩り)」をヒントにした伝説だろうと思います。
      *https://www.youtube.com/watch?v=zmHYS91R3MQ&t=343s

      「日本軍は10月22日に台南に入城し、ついで29日に安平を占領した。これで軍事的には台湾の要所は全て日本軍の手中に落ちたのであるが、台湾占領の総指揮を執ってきた日本皇族の北白川宮は10月28日、台南で陣没した。日本政府の発表によれば台湾風土病のため死亡したとある。しかし台湾人の言い伝えはこれとは異なり、台南市北辺の曾文渓を渡河して間もなく、草むらに潜伏していた台湾人ゲリラに襲撃され、竹竿の先に鎌を縛り付けた俄作りの武器で首を傷つけられて落馬し、重傷を負ったのが原因となって台南入城後、斃れたといわれている。」

      最後は「バルバロッサはその後英雄として語り継がれ、ドイツが危機に陥ると現れる!という伝説が生まれた。知っている人も多いと思うが、『バルバロッサ作戦』は彼の名を冠したものだ」との一節の関連です。独ソ不可侵条約を突如反故にしてソ連に攻め込み、平沼内閣を「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と総辞職させたヒトラーは、自らをバルバロッサに擬えて、この作戦の名に冠したのでしょうかね。

    2. 松原隆文 より:

      コメント有り難うございます。
      バルバロッサは、自己の権威をローマ教皇から独立させたかったのですね。
      モスクワ侵攻作戦でヒトラーは、多分、自己がバルバロッサより上と認識していたのではないでしょうか。権力の絶頂で欧州の大半を占領していましたからね。この作戦が切っ掛けで没落していくなどとは夢にも思わなかったんでしょうね。反対する幕僚も多かったんですよね。

      1. 高橋克己 より:

        「バルバロッサは、自己の権威をローマ教皇から独立させたかった」のであるなら、天皇の権威に対して畏敬の念の持ち続けた我が国の武家とトップとは違いますね。

    3. 松原隆文 より:

      ローマ教皇と違う点は、日本天皇は天地開闢以来、瑞穂の国日本の至高の祭主であり続けたことでしょうね。

      1. 高橋克己 より:

        私の誤解は「皇帝理念の構築を図った。 即ち、王権・皇帝権のいずれもドイツ諸候の選挙に基づき、直接神から授与されたものだとする理論」との一文の「神から授与された」との句から生じた様で、「ローマ教皇」ではないです。念のため。

    4. 松原隆文 より:

      次回(その4)ではナポレオンの戴冠について少し触れますので、そこでも持論を少しだけ展開したいと思います。
       あと、欧州列強のアフリカ植民地政策と日本の韓半島、台湾、満州政策を少しだけ比較したいので、貴兄のコメントを期待します。
       目下勉強中です。

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