▶靖国参拝問題(高22期 高橋克己)

9月27日の自民党総裁選で石破茂氏が5度目の挑戦で総裁の座に射止めた。1次投票でトップだった高市早苗氏を、議員票が多くの割合を占める決戦投票で逆転した。決戦投票での石破氏の議員票が高市氏を42票も上回った理由の一つに、高市氏が靖国参拝を明言したことを多くの議員が危険視したから、との憶測があり、靖国参拝問題が改めてクローズアップされることとなった。

■天皇陛下の靖国参拝

質問書に拠れば、陛下による戦後初の靖国ご参拝は45年11月20日の終戦報告であり、これが旧憲法下最後の公式参拝だった。新憲法下でのご参拝は65年10月19日の終戦20周年のご参拝から75年のご参拝まで6度あり、どれも「私的行為」とされた。が、吉田議員は「憲法違反の法制定を推進しようとするものである」として質問書を提出したのである。

これに対して政府は、75年11月28日の答弁書で以下の様に述べている

――このたびの天皇の御参拝は、本年春、靖国神社から口頭で終戦三十年につき御参拝願いたい旨の申出があり、昭和四十年十月には終戦二十年につき御参拝になっておられる経緯もあって行われたものである。御参拝は、天皇の純粋に私人としてのお立場からなされたものであつて、全く政治的な目的を有していない。天皇が私的なお立場で靖国神社に御参拝になることが日本国憲法の破壊に通じるものとは認められないので、内閣としては、御参拝を中止されるよう助言する考えはない。――

この様に政府には、「天皇の私的なお立場」でのご参拝を「内閣としては、御参拝を中止されるよう助言する考えはない」という歴とした公式見解がある。従って、石破氏が「天皇陛下がご親拝できる環境が整わない限り、行わない」と述べたことは、この75年の政府見解とは異なる見解をお持ちである、ということになる。

では吉田議員のいう「憲法違反の法制定」とは何かといえば、それは靖国神社を日本政府の管理下に移し、政府が英霊を慰める儀式・行事を行おうという「靖国神社法案」である。同法案は、議論開始から10年経った74年5月に衆議院本会議で野党欠席のまま記録上は全会一致で修正議決し、参議院に送付されたが、参院では委員会に付されぬまま6月に会期終了となり、審議未了廃案となったのである。

吉田議員は質問書でこう述べている。

――これは憲法違反として五度審議未了となった「靖国神社法案」及びその代わりに制定が推進されている「慰霊表敬法案」の重要な中味である「靖国神社の国家護持」と「天皇の靖国神社親拝」を、法成立の事前に実現し、三木首相の靖国神社参拝と共に既成事実を積み重ね、憲法違反の法制定を推進しようとするものである。かかる問題のある天皇の靖国神社参拝について、社会、公明、共産等各党が反対を表明し、多くの宗教団体関係者が反対しており、このように国論を二分するがごとき行為は「国民統合の象徴」といわれる天皇のなさるべき行為ではない。――

結局「靖国神社法案」は廃案となったものの、その事実上の国有化に、野党各党や多くの宗教団体が反対する事態を招いた。そうした経緯のある靖国参拝を陛下がご遠慮なさるお気持ちは推察できる。ではなぜそれが公にされないかといえば、公表すること自体が「政治的」と見做されかねないからだ。従って、石破総理がやるべきことは、先ず自らが靖国参拝することで75年の政府答弁に改めて光を当て、その上で陛下に「内閣として御参拝されるよう助言する」ことではあるまいか。

■首相の参拝とA級戦犯の合祀

この件についてはノンフィクション作家の上坂冬子に『戦争を知らない人のための 靖国問題』(文春新書、06年刊)という、この問題を知るに格好の書があるので、そのエッセンスを以下に紹介する。因みに天皇のご参拝について上坂は、「天皇のご親拝を実現せねば靖国神社の存在価値がないようにいう人があるが、私はこだわらない」とし、「天皇の地位が『神』から『象徴』になった段階で、天皇と国民との関係も転換しているはず」と述べている。

上坂が靖国問題をどう考えたかの経路あるいは筋道を知るため、以下に同書の目次を掲げてみる。()内の私(高橋)の補足。

1)靖国神社は日本人にとってどんな存在だったか
2)敗戦で立場を失う
3)日本は加害者か
4)東京裁判とA級戦犯
5)無知がまかり通っている
6)裁いた側の異色(日本を無罪としたインドのパル判事のこと)
7)裁かれた側の異色(東条英機のこと)
8)戦犯問題、ここがポイント
9)日本から戦犯が消えた日(「刑務死」とされたこと)
10)近隣諸国の感情か、内政干渉か
11)靖国神社は今のままで存続可能か
12)靖国問題解決のために
13)論拠のはっきりした政府声明を

上坂は第十三部で、「私の立場から、私なりに靖国問題を近隣諸国との秩序ある論争の場にのせるために、中華人民共和国および大韓民国政府に宛てて日本政府から発信すべき文書の叩き台」として「声明書(案)」を掲げているので、以下の要約に沿って「首相の参拝」と「A級戦犯の合祀」について見てゆきたい。

1)犯罪人といえども裁判を受けて刑に服せば事件は決着する。A級戦犯はその様な扱いのもと靖国に祀られている。

2)靖国神社は義和団事件(1900年)の30年前に、日本のために命を落とした人々の慰霊の場として建てられた。51年のサンフランシスコ平和条約で独立した翌月、吉田茂首相は衆参両院議長と閣僚と共に靖国に参拝し、日本の独立を報告した。日本と日本人にとり、靖国神社とはそういう場所である。

3)日本はサ条約発効の翌年、戦死者、戦傷病死者、戦犯刑死者の全てを、一切区別せずに国家のために命を捧げた人と、国会で決議した。よってA級戦犯の分祀はこの決議から外れる。

4)サ条約では様々な戦犯の取扱いが取り決められ、日本はそれを遵守してきた。A級戦犯に纏わる問題も、敗戦8年後に取決に基づき処理し、決着済み。サ条約は49ヵ国が署名・批准したが中国も韓国も署名・批准していない。そうした国にはいかなる権利、権限、利益を与えないし、そうした国々によって日本の権益が「減損または害される」ことはないと記されている(第二十五条)。また署名批准国から戦犯問題について異議を申し立てられたことはない。

5)パル判事は、かつては各国に交戦権があり、他国に対する武力行使を犯罪とする国際法は存在しなかったと述べており、アヘン戦争などはその好例。従い、A級戦犯が問われた「平和に対する罪」などは犯罪に該当しない。

いくつか補足すれば、「3」は52年4月28日のサ条約発効の二日後に成立した「戦傷病者戦没者遺族等救護法」で戦傷病死者と戦没者遺族に遺族年金を保障し、また翌年8月の同法の一部改正で戦犯の遺族にも遺族年金と弔慰金を支給したことを指す。両法とも全会一致であった。これを契機に「戦犯処刑」という語も消え、公文書に「刑務死」と記されるようになった。

関連して、内大臣だった木戸幸一は、45年12月に陛下から夕食に誘われた際、戦犯容疑者指名を理由に固辞したところ、陛下は「米国より見れば犯罪人ならんも、我が国にとりては功労者なり」と述べられたと「日記」に記している(上坂本)。

「刑務死」した戦犯の靖国合祀は、56年4月に厚生省引揚援護局が各都道府県に対し、救護法に拠り遺族年金を受けている者の申し出を要請することから始まった。援護局はこの名簿に基づき、祭神として有資格者を靖国神社に通知した。神社側はこれを基に霊璽簿を作成し、59年の春季合祀祭にBC級戦犯が合祀された。

だが、A戦犯合祀は20年後の78年10月まで待たねばならなかった。66年にはA級戦犯の祭神名簿が援護局から靖国神社に送られ、1969年1月にはA級戦犯の合祀と外部発表は行わないことが政府と靖国神社とで合意されていた。が、実際に合祀に至るまでには更に10年を要した。上坂はその理由として、政治家の不勉強を挙げ、前述した「靖国神社法案」の紛糾によって神社側が合祀を差し控えたのだろうと述べ、BC級と同時に合祀されたかったことを嘆じている。同感である。

私の考えを述べるなら、サ条約第二十五条に基けば、これを批准していない中国(東京裁判当時には国すらなかった)や韓国(日本と戦争をしていない)にこれを云々する権限はないのだから、首相や閣僚は九段下を車で通る度に、昇殿参拝でなくとも社殿の前で拝礼をすれば良いのである。なお、分祀についても神道では、神霊は無限に分けることができ、分霊(分祀)しても元の神霊に影響はなく、分霊も本社の神霊と同じ働きをするとされるから、無意味と考えている。

    ▶靖国参拝問題(高22期 高橋克己)” に対して6件のコメントがあります。

    1. 松原隆文 より:

      私見だが、神社の参拝日は毎月一日と十五日だ。首相は毎月の朝二回、公務前に早起きして参拝すれば良いと考える。鳥居の前でお辞儀をするだけでも構わないのではないか。そうすれば外国は根負けして文句を言わなくなる。他国に文句を言われるから参拝しない、と言うなら独立国とは言い難いのではなかろうか。
       分祀だが、個人的には可能と考える。祭神が同じ神社が沢山有るが(例えば八幡社)、これは分祀したものだ。鎌倉八幡宮は確か石清水八幡宮から分祀している筈だ。

      1. 高橋克己 より:

        靖国参拝に個人の墓参りを例に引くのはそぐわないかも知れませんが、私は両親の墓参りに行っても、墓掃除をして供花し、線香をあげるだけで、ことさら墓前に額づいて手を合わせることはしません。なぜというに、その日家を出る時から道中ずっと父母のことを思いながら墓地に至るからです。左様に先祖の敬い方は人それぞれで、他者からとやかく言われる筋合いのものではない。靖国に関する中国の態度は、彼らが他国を非難する時に必ず口にする内政干渉そのものだと思いますね。

    2. 加藤麻貴子 より:

      靖国神社に対する考えは随分、変わってきました。子供の頃、A級戦犯のことを永久戦犯と勘違いしていて、永遠に許されない人というイメージを持ってたような気がします。後にBC級戦犯の存在あること知ってA級戦犯であると認識、またその頃「貝になりたい」というドラマを見て戦犯とは何だろうと思い始めました。若いころは知識も深めずモヤモヤの儘で過ごしてきました。齢を重ね、尊敬するお知り合いのご夫婦が毎年8月15日にお身内のために参拝されていることを知ったり、また2007年に偶然参拝して殉職した自衛官も祀られていると知り、またイメージが変わりました。今回この記事を読み、WIKIで調べてみると、本来はは戊辰戦争、以後の戦で犠牲となった御霊を祀るための神社であり、55名が合祀から外してほしいという希望があるものの韓国の21000人や台湾の26000人の戦死者も祀られています。どんな形であれ、国のために殉死した方々を悼む場所と認識し始めています。ただ、境内に屯する軍人まがいの恰好をした人たちはいただけない。最近、お坊さんのいない弔いに列席して、違和感を覚えました。宗教と死はある意味切り離せないのかもしれない。最近は靖国神社と軍国主義を短絡的に結び付ける人たちには幻滅を感じます。それと法務死あるいは刑務死された14名の戦犯の方たちはすでに罰せられたのであるのでともに祀られても許されるのではないかとも思い始めています。神社を崇敬する日本人がとてもとても多いということを考えると靖国は存在に値するサンクチュアリかと思います。

      1. 高橋克己 より:

        私のブログですが、実は昭和天皇が75年を最後に靖国にご親拝しなくなったこととA級戦犯合祀に関する天皇のお考えについて、意識して「関係ない」と書いているんです。
        大分前のこと日経新聞が、富田元侍従長が「A級戦犯が合祀されたから私は靖国に行かない」と陛下が漏らしたとする、いわゆる「富田メモ」のスクープを一面に載せました。
        メモは確かにあるのでしょう。でも書いてあることの真偽は不明です。但し、陛下といえども無謬ではないので、そう仰った可能性もなくはない。しかし、そういう不明確な報道はされるべきでない、つまり陛下はそんなことは仰っていないことにする、というのが私の考えなので「関係ない」と書いた。
        なぜ陛下がそうお考えになることが間違いだと思うかといえば、戦後、戦犯として刑死したABC級の被告全員が、議会満場一致で「法務死」(上坂は「刑務死」と書いている)となり「戦犯」ではなくなりました。何千万という国民からの嘆願があったのです。
        こうした国民の総意に陛下が背くことはあり得ないのです。マッカ―サー元帥との最初の会見で、陛下が述べたとされる「全ては私の責任であり、東条以下に責任はない」という発言とも矛盾します。
        マ元帥と昭和天皇の会見は10回、5回目以降の通訳だった外務省の松井明氏が残した「松井文書」というのがあります。そこには平和会議や安保条約などについて、吉田首相との「二重外交」といわれるほどの政治的なご発言を陛下がなさったことが書かれています。
        しかし「松井文書」の存在は事実ですが、そこに書かれていることの真偽は「富田メモ」と同様に不明です。初回の会見で「話の内容は二人だけの秘密にする」との約束があり、マ元帥の「回顧録」以外の公式記録は当り障りのない発言記録があるだけです。
        繰り返せば、政治的発言と取られかねない陛下のご発言は、須らく報道もせず、また研究対象にもせずになかったことにしておく、報道は公式発言に限る、というのが私の考えなのです。

    3. 松原隆文 より:

      無知を承知で言うのですが、小生は靖国は、戦死あるいは戦病死した人を祀る場所だと理解しておりました。戦犯は、戦争が終わった後、裁かれてお亡くなりになっております。この人達を祀ることには若干の違和感がありました。
       筋違いの話ですが、靖国は、祀る対象に厳格で、西郷さん達は逆賊なので祀られていないんですね。

    4. 向坂勝之(12期) より:

      高橋様、

      1)昭和天皇は戦後30年間(1945年~75年)に靖国参拝は8回のみで(そのうち新憲法施行後は7回)、毎年参拝していたわけではありません。
      慥かにA級戦犯合祀は‘78年のことで、最後の参拝以降3年経過していますが、此の間参拝が無かったのは、従来の参拝の頻度から見て不自然なものではない。
      昭和天皇自身が靖国参拝を止めたのはA級戦犯合祀が直接の理由であることは、「富田メモ」(富田朝彦宮内庁長官のメモ)のみならず「卜部亮吾侍従日記」にも明記されて居り、疑う余地はない。

      2)しかし私自身はその他にも、昭和天皇にとって靖国神社は「臣下」の国家殉難者が祀られている処で、皇祖神とされる天照を祀る伊勢神宮はもちろん、祖父の祀られる明治神宮より「社格」が低い、という意識もあったようです(戦前の国家神道による社格は、明治神宮は官幣大社、靖国神社は別格官幣社で、数ランク下る)。田島道治の『昭和天皇拝謁記』でも、天皇自身が「自分にとっては明治神宮が優先する」と判然言って居ります。
      もちろん首相が参拝したからと言って、昭和天皇も現上皇、今上天皇もそれで靖国に出かける可能性など、まったくない。

      3)靖国神社は「くに」に殉じた人を祀っているのではなく、明治以来の「国家(政府)」に準じた人を祀っているものです。それも薩長藩閥政府に都合の良い選別がなされて居り、例えば維新前の1864年の「蛤御門の変」では、長州は天皇に弓を引いた賊軍であったのに、その選死者は前身の招魂社設立以来祀られて居り、これを迎え撃った会津、薩摩は官軍であったにも関わらず30年近く放置され、合祀もされていなかった。つまり靖国神社とは本来、長州の神社と言ってもよいものです。

      4)他の国でも戦死者を追悼する施設はあります。しかしそれには「無名戦士の墓」に近い「千鳥ヶ淵墓苑」や、あるいは沖縄の「平和の礎(いしじ)」のように、敵味方を問わず戦争に死んだものを祀る方が邪念なく参拝出来ます。(広島長崎の被爆者や東京大空襲の犠牲者も、民間人であれば靖国は合祀していない)

      5)上坂冬子『戦争を知らない人のための 靖国問題』は、私は読んではいませんが、ご紹介の限りではかなり事実誤認や強い思い込みで歪められているように思われます。
      議論の前提として学問的に正確な事実に基づく必要があり、そのための著書もいくつか出版されていますので、先ずはそうしたものをご覧になることをお勧めします。(右翼本の方が圧倒的に多いでしょうが)

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