▶ドイツ中世史の一断章 神聖ローマ帝国の光と影 その4(最終)(高22期 松原 隆文)

西欧キリスト教世界統合の最後の挑戦者カール5世とマルティン・ルターの登場 
 バルバロッサ亡き後も西欧キリスト教世界統合の思想は根強く生き続けた。そして16世紀に入り、その最後の挑戦者が現れた。その名もカール5世。誠実で信心深いカールは、西欧キリスト教世界の統合を目標として統治を始めた。オランダの文人エラスムスなどはカールに期待することが大であったようだ。イスパニア王国国王にして神聖ローマ帝国皇帝だから、その可能性は十分にあるとカールが考えたのは至極もっともだったのかもしれない。以下、少し述べてみる。

一、彼の治世は、その初めから困難の連続で、気の毒というほかはない。
(1)まずローマ王(ドイツ国王の正式名称)選出の段階から一波乱があった。何と、後の長年のライバルとなるフランソワ1世が候補者に名乗りを上げたのである。イタリアの覇権を巡ってフランスとドイツは対立関係にあり、またカールはあまりドイツに縁が無かった。フランドル育ちでドイツ語もしっかり話すことが出来なかった上に、ドイツに足を踏み入れたことがなかったので、ドイツ人にとっては他国の人だった。だからフランソワ1世が名乗りを上げたのも奇異ではなかったのかもしれない。選挙に不安を感じたカールは、多数派工作のためフッガー家から多額の借財をしたが、これは後の足枷になった。
 世界史を習った者なら誰でも知っていることだが、当時の国王選挙は、1356年にカール4世が定めた金印勅令によって、七選帝侯が独占していた。即ち、ザクセン候、ベーメン王、ブランデンブルグ辺境伯、ファルツ宮中伯、マインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教の七人である(本題には関係ないが、ファルツのワインは濃厚ですこぶる美味しい。他にはナーエ、ラインガウのワインがお薦めだ。ラインヘッセンはやや味が劣り、モーゼルのワインは酸味が強い。)。
 この選帝侯達も、さすがにフランス国王のフランソワに投票するのは気が引けたのかあるいはカールの工作が効いたのか、満票でカールを選んでいる。

(2)カールは、即位すると休む間もなくイタリアに出陣してフランソワと戦うことになるのである。しかもこの二人、実に四回も戦っていて正にライバルだった。このフランソワという男、カールより6歳年上で、蜘蛛という綽名の権謀術策に長けた権力欲の強いある種の英雄であった。また芸術をこよなく愛し、イタリアで始まったルネサンスが、フランスで更に花開いたのは、彼がレオナルド・ダビンチなどの名だたる芸術家達を保護したからだ。この頃からパリは芸術の都として発展していった。
 さて本題に戻ろう。1525年、パヴィアの戦でカールはフランソワを捕虜にしているが、フランスの北イタリアにおける権益の全面放棄を条件に、彼を解放している。しかしフランソワは、釈放されるとこの約束をあっさり反故にしている。この辺り、カールの馬鹿正直の性格が出ている。

(3)またカールは、東方でオスマン帝国とも戦わねばならなかった。当時のオスマン帝国の皇帝はスレイマン大帝で、オスマン帝国の最盛期であった。首都イスタンブールは優に人口60万を越える世界最大級の都市で、大いに栄えていた。スレイマンがカールに宛てた公式文書が面白い。「朕は、征服王のスルタンにしてカリフのスレイマンであるぞ。その方、スペイン諸地方の王クルル(カール)だな。以下のことを知れ!」という具合で、完全に見下しているのである。スレイマンからすれば、スペイン王にして神聖ローマ皇帝カールも、その程度の存在だったのかもしれない。何しろ当時のオスマン帝国の国力は、西欧諸国が束になっても到底太刀打ちできない程強力だったからである。
 オスマン軍は、プレヴェサの海戦で西欧連合艦隊に勝利し、東地中海の制海権はオスマン側に陥ちている。更に西側を驚愕させたのはウイーン包囲であった。この時、防衛軍を直接指揮したのはカールの弟フェルディナントであった。幸い、オスマン軍が攻城砲を装備していなかったことや、ウイーンの防備が想定外に強固だったこと更に冬の到来もあってオスマン軍はウイー攻略が出来ず、粛々と退却をした。しかし西側の心胆を寒からしめる大事件であり、この後もオスマン軍の攻勢は続いたのである。
 話が飛ぶが、このオスマン軍の最精鋭部隊はイエニチェリといって白人部隊だった。幼少の頃から英才教育を受け、スルタンに絶対服従を誓う恐ろく強い武装集団であった。彼らが軍旗代わりの鍋を背負って戦場に現れると、敵はそれだけで萎縮したらしい。戦勝の祝賀を陣地で行うとき、スルタンの大鍋のスープを裾分けしてもらう特権があった。だから鍋を軍旗代わりにしていて、これを戦場で失うことが最大の恥であった。後に軍閥化して、帝国改革の障害になった。イエニチェリはしばしば反乱を起こしたが、これを「大鍋を覆す」と言った。いずれにしても白人を軍の主力に据えるオスマン帝国の統治は柔軟そのものであった。

二、 そしていよいよ、マルティン・ルターが登場する。
(1) 言い訳だが、筆者はこの辺りは余り勉強していない。それに宗教改革は、キリスト教をある程度理解していないと、その本質は分からないと考えるが、筆者はキリスト教の知識は皆無だ。だから必要最小限の記述にとどめようと思う。 
 ルターが主張したのは、教会からの自由であった。つまり信仰は内心の問題で、聖書のみを頼りに神を信じれば良いということであろうか。そうすると、カトリック教会(という組織)は、個人の信仰にとって必ずしも必要な存在ではなくなるのである。しかしその後、ルターの主張は個人の信仰の域に止まらず、政治問題となって国内諸侯と皇帝の争いに発展していった。
 カールはこの問題の解決に忙殺された。そして結局、1555年、アウグスブルグの宗教和議で決着したのである。プロテスタントにするかカトリックにするかは、領主が選択できることになった。盟友に裏切られて疲れ果てたカールは、修道院に入り、2年ほど隠遁生活をして亡くなっている。

(2) このカール5世の退場は中世的世界の終焉を意味し、西欧キリスト教世界の統合という中世的目標はこの時役目を終えたのであった。それは取りも直さず、神聖ローマ帝国の存在理由もなくなったということである。ただこの帝国はその後も生き長らえ、帝国の死亡診断書と言われた1648年のウエストファーレン条約で完全に無力化した後も存続し、1806年、ナポレオンによって引導を渡されるまで続いたのである。 
(3) 他方、ルターの登場は近世の幕開けとなったのである。なぜならルターによって初めて、信仰の分野ではあるが、人間の内面即ち「個」が意識されたからである。だからルターは、欧州最初の近代人と言える、偉大そのものの人だ。
 更にルターの功績は、聖書をドイツ語に訳したことだ。聖書はラテン語で書かれていて一般市民には読めなかった。聖職者が独占していたのである。しかしルターは、苦心して聖書をドイツ語に訳し、当時普及し始めたグーテンベルクの印刷機で瞬く間にドイツ全域に普及した。このルター版聖書は近代ドイツ語の出発点にもなった。これも偉大すぎる功績である。
 また彼は、カトリック教会が禁止していた聖職者の妻帯を堂々と行った。夫婦円満で六人の子をなしている。余談だが、彼の妻の名はカタリナであり、美人で才女だったという。ルターは愛妻家で「仮にフランスとヴェネツィアをくれるといわれても私のカタリナには代えられない!」と言ったそうだ。
 作曲も行い、酒を愛し、女性を愛した。まさに讃えるべき近代人そのものである。
 偏見だが、ドイツの偉人は、オットー1世、マルティン・ルター、そしてベートーベン、敢えて言えばビスマルク辺りではないだろうか?
 以下脱線だが、このカタリナはザクセンの出身だ。フィギュアスケートの往年の銀盤の女王カタリナ・ビット(私見だが史上最高のスケーター)もザクセンの出である。ビットはオリンピックを2連勝し、女性の魅力の全てを兼ね備えていた。世の男性の大半がファンだったのではないか? カタリナ・ルターさんもそんな人だったのかもしれない。

三、私見 叙任権闘争と宗教改革 その関連性
 この二つの歴史的事件は一見何の関係も無いようだが、筆者は大いに因果関係があると考えている。
 まず、叙任権闘争で教会の外に出された帝国が、その新たな支配原理の創設のためにローマ法を援用したことが政治の近代化の第一歩だったことは、つとに近年の歴史家の評価として定着し始めているようだ。では教会はどうか?「教会の自由」を主張して、カール大帝以来の皇帝の干渉を排除したローマ教会は、確かに自己完結型の組織として発展、完成したと言える。しかし教会は、皇帝支配からは脱したが、広く市民の精神生活・社会生活を支配していたことに変わりは無かった。市民には信仰の自由などなかったからである
 この構図が一変したのは、周知のとおり、ルターの宗教改革によるものである。この時から市民は自己の信仰を内面の問題として認識し始め、教会の支配から自己を解き放したのである。
 だから叙任権闘争は、その400年後に始まる宗教改革の地均し(じならし)となったと言えるのではなかろうか?帝国から教会が独立しなければ、教会から個人が独立することもあり得ないからである。こじ付けと言われればそれまでだが。
 付言だが、個人の信教の自由が認められるためには、先述のウエストファーレン条約まで待たねばならなかった。

四、ナポレオンの登場と欧州統合の思想
 18世紀末に登場したナポレオンは、あらゆる意味で既存の常識が全く通用しない、いわば異邦人であった。欧州全土を支配した彼は皇帝戴冠を行ったが、これも教皇から加冠されるのではなく、何と教皇から王冠を受けとって(と言うより渡せさせ)、自ら頭上に冠している。不機嫌な教皇の表情を余すところなく捉えたダヴィッドの絵が面白い。
 欧州全土を征服したナポレオンにとって、自分以上の権威は不要で、教皇は単なる立会人に過ぎなかったのだ。要するに、従来の皇帝はキリスト教世界の統合を目標としていたが、ナポレオンはヨーロッパという領域世界の地理的統合を図ってもキリスト教世界の統合などという認識はなかったのであろう。カール大帝以来の伝統はこの時完全に終了したと言ってよいのではなかろうか。だから、ナポレオンが神聖ローマ帝国に引導を渡したのも必然だったのかもしれない。彼からすれば、何の存在意味も見いだせなかったのではないか。
 即ち、1806年、ナポレオンはドイツ諸侯を帝国から離脱させ、ライン同盟を結成させた。これによって当時の皇帝はオーストリア皇帝のみを名乗ることとなり、神聖ローマ帝国の終焉を宣言したのであった。
 ナポレオン以降も、欧州統合の思想は形を変えて今日に生き続けている。
1999年に発効したマーストリヒト条約に則り、欧州連合(EU)がスタートして、世界に大きな発言力を有している。面白いことに、この初代総裁に、オットー・フォン・ハプスブルクを推す機運があったようだが、結局見送られた。超名門ハプスブルク家は、今でも欧州の人達の心の中に生き続けているのであろうか?
 しかし、ヨーロッパは日本人が考えるより民族構成が遥かに複雑である。スコットランドは独立を公然と要求している(尤も英国はEUに加盟していない)。スペインのバスク地方は独立の機運すら有り、バスク語を公用語としている。ベルギーも北と南では言葉も文化も違うらしい。ドイツは方言の宝庫だ。一筋縄ではいかないようだ。

五、 そろそろ難攻不落の神聖ローマ帝国を攻略する時が来たようだ。 
(1) 中世ヨーロッパ社会の特異性
 中世ヨーロッパ(特に東フランク)が「教会国家」であったことは今まで述べたとおりである。これは「政治の先進性」という観点からすると、同時代のビザンツ帝国あるいはイスラム帝国からかなり遅れたものであったと言わざるを得ない。
 古代ローマ帝国そのものの連続体としてのビザンツ帝国は、(当然のことながら)キリスト教が登場する以前から、既に国家としての十全の機能を備えていた。政治・軍事・裁判・財政そして中央と地方の統治機構も基本的に確立していた。そこには政治に宗教の入る必要も余地もない。勿論、コンスタンティヌス大帝がキリスト教を国教とすることによって再びローマ帝国の統合を成し遂げて以来、ビザンツにおいてもキリスト教の影響力は絶大なものがあった。しかしそれでも、ビザンツでは国家の業務は俗人即ち市民の仕事であり、教会や宗教家は本質的にこれに関わるものではなかった。これは当時の日本の状況も基本的には同様である。 
 こうしてみると当時の西ヨーロッパ社会は、特異な、しかも閉ざされた社会であったと言える。例を挙げてみたい。ビザンツでは異教の存在が認められており、彼らは徴税の対象であった。人頭税さえ納めれば帝国内で生活することに何ら問題がなかったのである。しかし、教会国家たる西ヨーロッパ社会では、当然のことながらキリスト教以外の存在は絶対に認められず、異教徒は殲滅の対象以外の何物でもなかった。このような国や社会は、他者(異質の人達)に対して寛容性を欠く傾向が顕著だ。カール大帝にしても、なかなか自分に従わず、しかも古ゲルマンの宗教を奉ずるザクセン族の征服に手を焼き、捕虜4500人を虐殺した「アラー河の血の沐浴」事件を起こしているし、十字軍が、征服した諸都市住民に対し、信じ難いような酷い虐殺をしたことからも窺われる。
 皮肉なことに、カールの虐殺の100年以上を経て、カロリング家が途絶えた東フランクを統一継承したのはザクセン族の指導者ハインリヒであった!
 話がやや飛ぶが、キリスト教もイスラム教も一神教にしてしかも偶像崇拝禁止だ。イスラム教は、偶像崇拝禁止がより徹底している。キリスト教は聖母マリアを描いているし、直接キリストを描くことは出来なくても、モザイク画がビザンツで発達した。しかしイスラム教では、人(ヒト)が神を描くなど、以ての他なのであろう。インドのヒンズー教の寺院の頭部のない神像の写真を多数見かけるが、これはインドに何度も侵入したイスラム教徒が破壊したものだ。更に、現代社会においても、近年我々の記憶に新しい事件がある。バーミアンの石窟を、タリバンがダイナマイトで破壊したことだ。この行為は世界中から非難され、平山画伯も大変嘆いていたが、タリバンにしてみれば、大真面目な行為だったのかもしれない。
 翻って我が国でも、16世紀の九州で、キリシタンによる寺社(及び仏像)の徹底破壊が行われている。更に有力大名の大村氏は長崎を、有馬氏は浦上をそれぞれイエズス会に寄進している(後日、関白秀吉により没収)。 8世紀に、カール大帝の先祖ピピンがイタリアのラベンナをローマ教皇に寄進し、以降教皇領になったことは彼らの選択だが、16世紀の日本の領土がイエズス会即ち教皇の領土となることは、日本人なら誰もが納得しないのではないか。
 多数のキリスト教徒が信仰を守って殉教したことについては、弾圧の歴史として、教科書などにもしっかり記載されているが、これらの不都合な事実(真実)は余り書かれていない。歴史(学)は、もう少し公平であるべきではなかろうか。

(2) それでは、神聖ローマ帝国とは何だったのか? 
 西欧キリスト教世界の統合が中世西ヨーロッパ世界の最大の政治目標であり続けたことは先述したとおりである。東フランク王国即ちドイツ王国は、当時の西欧でこの政治目標を担えるただ一つの王国であった。だから歴代国王は、この政治目標を達成すべく悪戦苦闘し続けたのである。国内の封建化が進展すると、国王はこの目的(主にイタリア政策)の為、国内諸侯の協力を得ることが必要となり、彼らに大幅な譲歩をし続けなければならなかった。そして気が付いてみれば、隣国のフランスは中央集権化が進展していた。ドイツは、いつの間にか国家としての機能がフランスより遅れた状態になっていた。カール5世の先帝マクシミリアン1世はこの事態を憂慮して帝国改造計画を提案したが、如何せん諸侯が強大になり過ぎていた。カール5世の時に西欧統合の最後のチャンスがあったのだが、これも夢と消えて、近世に入ると、形だけの帝国が残ったのである。
 神聖ローマ帝国とは、何世紀にも亘って、西欧キリスト教世界の統合という中世的理念を追い続けた帝国そのものであった。
これをプーフェンドールやヴォルテールが「神聖でもローマでも帝国でもない」と揶揄している。しかし近代人である彼らが、自分たちの物差しで、中世人の偉大な試みを批判するわけだから、典型的な後講釈そのものと言えよう。

六、僭越ながら、この投稿の最後に、若干の歴史論を述べてみたい。
1 後講釈(アトコウシャク)の戒め 
 筆者は、歴史を学ぶ上で最も避けるべきは後講釈であると考える。
 歴史(学)とは、将来を予測するのではなく、「過去に行った行為・それによって起こった事実」を検証、評価、批判することだ。後世人は、過去に生起した事実の結果を当然知っているし、その後に及ぼした影響も知っている。つまり歴史学は本質的に後講釈に陥りがちなのである。しかしだからと言って、先人の行動を安易に批評すべきではない。先述した通り、歴代神聖ローマ皇帝の皇帝政策がその例である。
 もう一つ例を挙げてみたい。徳川幕府の鎖国政策だ。 鎖国は、筆者が若い頃は否定的解釈が一般であった。近代化が遅れた!と言うのである。
 しかし筆者は、鎖国はまさに正解だったと考える。当時の世界は地理上の発見の真っ只中で、欧州列強が盛んに海外進出をし始めていた。フィリピンはスペインの、インドネシアはその後340年(東インド会社時代を含めて)に亘ってオランダの植民地となった。又、スペインは新大陸で人類史上最悪の卑劣な虐殺行為を行い、インカを文明毎根絶やしにして滅ぼしてしまっている。こうした状況の中で日本の独立を守るには鎖国こそが最善の政策だった。要するに、窓を小さく開けて防御力を高めるという方法である。又、諸藩が勝手に貿易をしたのでは、日本は分裂して外国の言いなりになってしまう。要するに、幕藩体制の維持と日本の独立には鎖国が必要だったのである。
 日本はその後215年の長きに亘って平和を享受している。世界のどこにもこのような国はない。それをペリーが来たときに、その対応に若干慌てたからと言って鎖国(の開始)を否定するのは、後講釈そのものである。大体215年も有効な政策など有りはしない。
 「明治維新以降、日本が帝国主義的(というより軍国主義的)膨張を続ける過程で、10年毎に対外戦争を繰り返し、最後は対米戦争で破綻した」と主張する戦後の歴史家が、「近代化が遅れた」という理由で鎖国を否定するのは、自己矛盾そのものである。近代化とは殖産興業・富国強兵そのものだからである。又、人権と平和を殊の外尊重する戦後の歴史家が江戸時代を否定的に評価するのも、全然納得できない。江戸時代、日本人は215年、ほぼ10世代に亘り平和を享受している。この間の富の蓄積は語る必要もない。
 戦後の歴史家が今ひとつ世論に訴えることが出来なかったのは、こうした自己矛盾を克服できなかったからではなかろうか。ただ最近は、鎖国を評価する歴史家が増えているようだ。
 
2 歴史用語は的確に
 (1)チャールズではなくカール、ヘンリーではなくハインリヒ、サラセン帝国などない。
 高2で世界史を習い始め、西欧中世に差し掛かったとき、教科書の人名表示に驚愕したことを鮮明に記憶している。何とカール大帝がチャールズで、ハインリヒ4世がヘンリーだった。既にドイツ名(本名)を知っていた筆者は、怒りさえ感じた。これではドイツ史ではなく英国史ではないか!とである。それも名だたる学者が編集しているのだ。今思えば、随分いい加減な編集をしていたのだ。正確な人名表記をしないと、正しい歴史感覚は養えない。教科書も時代によってその内容が変化するのは止むを得ないが、当時の高校生に訝かしがられるような人名表記をしたら、教科書失格ではないだろうか。最近の教科書を見たら流石にカール、ハインリヒと記されていた。
 おかしな用語は他にもあった。サラセン帝国!なんかエキゾチックではあったが、やや違和感があった。その筈で、これは中世の西洋人がイスラム教徒を侮蔑して呼んだ国名だ。最近はイスラム帝国と表記されている。
 話は飛ぶが、国名も筆者が若い時から何カ国が変わっている。セイロン、ビルマは大英帝国が勝手に付けた名だ。だから、それぞれスリランカ、ミャンマーと自国名を変えた。前者は光り輝く島という意味で、いかにもこの国に相応しい国名だ。理解できないのはフィリピンだ。なぜ自分たちを征服したスペイン国王の名を冠した国名にしているのだろうか?それにしても、日本とは実に素晴らしい国名ではないか!

(2) 植民地とは 
  欧州列強によるアフリカの収奪と日本の韓半島及び台湾統治
アフリカ黒人に対する奴隷貿易をヨーロッパが本格的に開始したのは、16世紀初頭のスペイン、ポルトガルである。推定1200万人の黒人が奴隷として連れ去られている。奴隷貿易がアフリカ社会に及ぼした影響は長きに亘って深刻そのものであった。そして奴隷制度が廃止されたのは英国で1833年、フランスでは1848年、そしてアメリカでは奴隷制度の存続そのものが南北戦争の争点となり、1865年、リンカーンによって漸く廃止されている。なんと明治維新の二年前だ!
 欧州列強によるアフリカ大陸の植民地化は19世紀に本格化し、エチオピアとリベリア以外の全ての領域が列強の分割するところとなった。要するに、欧州列強はアフリカ大陸を搾取と収奪の対象としか扱わなかった。
 翻って日本の韓半島及び台湾統治について少し述べてみたい。韓半島は1910年、李氏朝鮮の大韓帝国と日本との併合条約により、日本領となった。台湾は、1895年、日清戦争で敗北した清国が、日本に割譲したものだ。どちらも1945年まで日本が統治していた。この間、日本は韓半島及び台湾に膨大な資本を投入して、インフラ整備等を行っており、又、京城大学、台北大学を建学し、教育や医療にも力を注いでいる。その結果、韓半島の人口は併合当時1312万人だったが、1944年時点で2512万人まで増加している。同様に台湾では、1896年の約260万人から1943年の658万人に増加している。日本による韓半島統治の負の部分のみが強調されているが、圧政だけをしていたのなら、人口が増える筈がないのは子供でも分かることだ。
 もう20年以上前の話だが、当時小学六年生だった娘が、「お父さん、朝鮮は日本の植民地だったの?」と尋ねた。社会の教科書を見せてもらったら、なるほど「日韓併合後、日本は朝鮮を植民地にした」と書いてあった。サハリン・朝鮮・台湾は内地民・外地民の区別はあっても、紛れもなく大日本帝国の臣民だった。それに、欧州列強がアフリカを、「切り取り自由!」とばかり勝手に植民地にしたのとは、その領有に至った経緯も異なる。何よりも欧州列強はアフリカを搾取と収奪の対象としてしか扱わなかった。
 だから同じ「植民地」という言葉で一括りにされることに、筆者はかなりの抵抗があり、大いなる疑問を感じざるを得ない。因みに、筆者は娘に、「朝鮮は日本の属国だった」と教えた。日本の歴史教育も戦後79年を経て、再検討する必要があるのではないだろうか。

3 日本は素晴らしい国だ
  この投稿をしていて再認識したのだが、日本は実に素晴らしい国だ。中世ドイツが戦乱に明け暮れているとき、日本は平安時代の最中であった。貴族政治が全盛を迎え、宮廷文学が花開いた。大体恋愛小説の源氏物語など平和で且つ余裕がなければなければ絶対に生まれない。特筆すべきは、殿上人だけだが日本では400年、死刑がなかった。片や、この頃の神聖ローマ帝国は、ハインリヒ3世がローマ教皇を残忍な方法で処刑している。日本は進んだ国だったのだ。その後源平の争乱があるものの、国土がさほど荒廃することはなく、鎌倉で幕府政治が始まり、これも安定的に推移している。
 日本の平和が続いたのは島国で外国が侵入しにくかったことが大きい。しかし独立を維持するために先人達が命がけの努力したことも忘れてはならない。
さいごに、この投稿をして、筆者がアフリカの歴史をほとんど知らないことを痛感した。神聖ローマ帝国はもう卒業して、これからはアフリカの歴史を勉強しようと考えている。
 追記:実は、「アフリカ大陸の黒人の人口が、16世紀には推定3億人であったのが、1900年初頭に、6000万人まで減っている」という記事を昔、何かの本で読んで鮮明に記憶しているのだが、その文献が、(自宅の書物をいくら探しても)見当たらない。だから、この投稿の本文に記載するのを控えた。パソコンで推定人口を検索してみたが、やはり分からなかった。 誰か分かる人いませんか?

    ▶ドイツ中世史の一断章 神聖ローマ帝国の光と影 その4(最終)(高22期 松原 隆文)” に対して4件のコメントがあります。

    1. 高橋克己 より:

      真に力作でした。私は中世ドイツの話は門外漢なので唯々感心しつつ拝読するのみですので、「植民地とは」に関して若干知見を述べます。
      本棚にあるうち黒人奴隷について最も詳しい「ラテンアメリカと奴隷制」(岩波現代選書)というR・メジャフェなるチリ人の学者が70年代に書いた本を読んでも、残念ながら累計何人が奴隷に売られたかは出ていません。そも奴隷貿易は16世紀前半にスペイン王室が導入した許可状制によって本格化してから19世紀中葉に解放されるまで、300年以上にわたった訳なので、その間のアフリカ大陸の人口をどう見るかのこともあり、全体の数字を俯瞰するのはかなりの難題かと思いますね。
      米国には今、民主党左派が支持するNYTの「1619プロジェクト」とトランプが退任直前に設置しバイデンが就任直後に廃止した「1776委員会」に象徴される対立があります。前者は西インド諸島から黒人奴隷10数人が最初に連れて来られた1619年を米国の独立年と見做すもの、後者は独立戦争によって独立したと学校で教育せよとの主張です。因みにその時の黒人は年季奉公だったという研究があります。朝鮮人慰安婦は年季奉公だったとするハーバードのラムザイヤー教授を想起させます。
      朝鮮が日本のAnnex(併合地)で、台湾がColony(植民地)だったことは、日韓併合条約と下関条約がそれぞれその根拠であることからも明らかです。日本は良かれと考えて両方に「内地延長主義」を導入し「一視同仁」の心で接しましたが、彼らにしてみれば迷惑だったことでしょうね。
      でも、日本は欧米列強が有色人種による植民地経営に注目していることもあり、内地から膨大な資源(人・もの・金)をつぎ込んでその経営に当たりました。
      台湾は10数年経った児玉・後藤時代に独立採算化しましたが、残念ながら朝鮮は終戦までずっと持ち出しが続きました。内地を潤すために搾取したとの論も一面事実でしょう。が、人口増のみならず衛生、教育、社会資本、民度など様々な点で、日本を凌ぐほどの今日の両国の繁栄の基礎になったことは間違いないと思いますね。

    2. 加藤麻貴子 より:

      ドイツの歴史については殆ど分かりませんが、方言は多くあるそうですね。2019年にドイツ語とフランス語とロマンシュ語が公用語のスイスに行った時、ドイツ語圏に住む知人が娘が違う県の大学に行ったけれどまったく違うドイツ語でとても苦労したと言ってました。また外国におけるドイツの呼び名はたくさんあるようです。イギリスではGermany, イタリアはGermania,ロシアではGermanija,フィンランドではSaksa,エストニアではSaksamaa, チェコではNemecko,ポーランドではNiency, デンマークとスウェーデンではTyskland, オランダではDeutchland そしてフランスではAllemagne となるそうです。おもしろいですね。

      1. 廣瀬隆夫 より:

        英語ではGermanyなのに、何でドイツなのか昔から疑問に思っていました。日本語はオランダ起源なのでしょうかね。

    3. 松原隆文 より:

      北イタリアの人達が、アルプスを越えてやってくるドイツ人を、テウトニア人と呼んだんですね。
      このTが、訛ってDになると、ドイトニアになり、これをドイツ風に表現すればドイッチュランドになります。つまり、自らがそう呼んだのではなく他称だったんですね。だからこの表記は、意識的に避けられていました。ヴォルムスの協約で初めて自らをそう名乗り始めたんです。
       国名は、その国のアイデンティティが問われますね。日本は実に良い名ですね。

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