▶昭和のラジオ・テレビ物語:第11話(昭和100年5月 高22期 高橋揚一)

【しろうと寄席】
♬恋をしましょう恋をして〜 浮いたー浮いたで暮らし〜ましょ 熱っい涙も流しましょ 昔の人は言いました 恋はーするほどー艶が出る〜恋はすーるほどー艶が〜出る♬
「なーんてね…畠山みどり…こんな歌に歌われるような恋がしたかったですね……2番の歌詞なんか…そういうこと知ってたら……ねぇ」
♬昔の人は言いました いやよーいやよもー好きのうち〜 いやよいーやよもー好きの〜うち♬
「私なんか随分損しましたね…いやよいやよも好きのうちってんですから……えぇ〜っ…ですよね…いやって言われても好きなんですって…ほんとですかねぇ……ほんとなんでしょうね、昔の人が言ったんっすから」
これだけで演芸場は大爆笑。
「いやっいやっいやっいやっ…………こんなのはダメでしょうけどね」
さらに大爆笑。

牧野周一。ラジオ番組『しろうと寄席』の司会も務めた間の天才。徳川夢声に弟子入りし、サイレント映画の弁士を経て、漫談家に転じている。1905年〜1975年。享年70歳。当時の芸人としては随分と高齢まで現役で高座に立っていた。年齢の割に都会の香りのするネタが多かった。
「戦後になってね…横書きの文字は左から右に書かれるようになったでしょ…駅名の表示はどうするかってね…山手線の駅長が集まって会議を開いたっていうんですよ…オレんとこは左書きに改めるとかオレんとこは右書きのままでいい、とか、みんな喧喧諤諤になっちゃってね……ところが一人だけしょんぼりしてる駅長がいるんですよ……オレはどっちでもいいやって………隣に座った駅長が、オマエどうしたんだよって……オレはどっちでもいいんだよ…オレんとこは田端だから」
滅多に東京に連れて行ってもらえなかった小学生にとって、東京の国電のネタは洗練された憧れの対象として耳に入った。
「東京に2番目の地下鉄、丸ノ内線っていうのが開通しました。新宿から池袋まで西銀座や東京駅を経由して行くってんですから…随分遠回りですよね…山手線で行けばすぐなのに。そんな遠回りの切符売ってないと思ったら、売ってるっていうんですよ……で、売れてるってんだから驚きですよね」
「池袋といえば不思議なところですよ…西口に東武鉄道の東武百貨店、東口に西武鉄道の西武百貨店があるんですよ。なんとか話し合って交換したら良いってもんですけど……そうはいかないんでしょうね」
「駅のアナウンスってものは…どうしてあんなに味気ないんでしょうね…ナカノー、ナカノー、なんてね……もっと楽しくできないもんっすかね……♬ナカナカナカナカナ〜カノ、ナカナカナカナカナ〜カノ♬……こんなことにはならないでしょうけど」
駅のアナウンスが変貌したのは、それから数十年も経てからだっだ。
ウクレレ漫談の牧伸二とコント・ラッキーセブンのポール牧は牧野周一の愛弟子。牧伸二は『しろうと寄席』で7週連続で名人位を獲得して司会の牧野周一から芸名をもらって弟子となった。ポール牧は牧野周一からもらった芸名を勝手に変えたため破門されている。どちらもテレビで若干下品系の人気を博してはきたが、知性の面では牧野師匠を超えることはなかった。両名とも共通した最期を迎えている。

コント・ラッキーセブンのポール牧の相方の関武志は喜劇王榎本健一の最後の弟子だった。
榎本健一といえば粉末ジュースの先駆「渡辺のジュースの素」を思い出す。

♬あーら おやまあ ほほいのほーいともう一杯 渡辺のジュースの素ですもう一杯 憎いくらいにうまいんだ 不思議なくらいに安いんだ へへー 渡辺のジュースの素ですよ オレンジパイングレープと 3つの味がどれでも1杯5円 安いうまい それに悔しいくらいに便利です♬
現在では果汁100%の飲料だけがジュースと表記でき、果汁100%ではないドリンクをジュースと表記すると罰則が科せられる。当時はそのような法律が制定されてはおらず、果汁が入っていないかも知れないなどと疑うこともなく、粉末ジュースや粉末ソーダなどを飲んでいた。粉を指に付けてそのまま舐めたりもした。