▶「壬申の乱」に学ぶ皇位の継承 高22期 高橋 克己

目下、立法府で議論されている「安定的な皇位継承と皇族数確保のための基本的な考え方」は、「『天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議』に関する有識者会議」が、令和3年3月から13回開催した会議を経て12月22日に提出した報告書に基づいている。報告書の骨子は以下である。
- 今上陛下から秋篠宮皇嗣殿下、次世代の悠仁親王殿下という皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない
- 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することとすること
- 皇族に認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とすること
- 皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること
自民党は上記②に関連して、「内親王・女王方の配偶者と子供は皇族としないこと」を加えた意見書をまとめ、4月17日の与野党の全体会議では主要8党・会派すべてがこれに賛成した。が、立憲民主の意見書は「論点整理」に止まって「結論」を示しておらず、野田代表の「女性・女系容認」の姿勢が垣間見える。
そんな折、5月15日の『読売新聞』が「社説」で「象徴天皇制 皇統の存続最優先に考えたい」と述べ、1面でも[読売新聞社提言](「提言」)として同じ趣旨の記事を掲載した。同紙の提言の骨子は次の4項目だ。
〇皇統の存続を最優先に<安定的な皇位継承を先送りするな>
〇象徴天皇制 維持すべき<国民の支持に沿った方策を>
〇女性宮家の創設を<皇室支える皇族数が必要>
〇夫・子も皇族に<与野党は合意形成に努めよ>
筆者の「安定的な皇位継承と皇族数確保のための基本的な考え方」は竹田恒泰氏のそれと全く一致しているので、ここでは詳しくは触れない。代わりに本稿では、『読売』の記述を含めた用語の定義について述べ、この問題に大いに関連する「壬申の乱」の歴史的意義についてまとめてみたい。
■「皇統」と「皇室」
先ず「皇統」と「皇室」を『読売』がどう使い分けているかだが、「社説」1700字余りの中で、「皇統」は見出しの「皇統の存続」など2回、一方の「皇室」は「皇室典範」2回を含めて「皇室制度」や「皇室の存続」など19回使われている。辞書にあるそれぞれの意味は以下のようだ。
〇皇統 『デジタル大辞泉』
天皇の血筋。
〇皇室 『日本大百科全書』
天皇と皇族の総称。狭義には内廷(天皇一家)、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。
筆者が「社説」を読んで先ず感じた矛盾は、「皇統」=「天皇の血筋」の「存続」といいながら「女性宮家の夫・子も皇族にせよ」としていること。「社説」は冒頭で「日本の伝統、文化を守り伝え・・てきた「皇室」と書くが、歴史上、皇族でない男性が「皇室」に入った例は一度もない。
これを容認すれば、皇族として残った女性宮家に皇室の外から入った皇統でない夫はあり得ないとしても、その子を「天皇に」(=女系天皇)との民意が、先々湧き上がって来ないと誰が言い切れるか。今でさえ皇室典範や有識者会議や与野党会議の提言を無視した、愛子内親王擁立(=女性天皇)の声があるくらいなのに。
「提言」にも矛盾がある。「皇統の存続を最優先に考えれば、女性皇族が当主となる女性宮家の創設を可能にし、夫や子にも皇族の身分を付与することで、皇族数の安定を図ることが妥当」とするが、前述の通り、皇室の外から入った夫やその子は、そもそも「皇統」=「天皇の血筋」たり得ないのである。
また「提言」は、「戦後の皇室の構成人員」と題したグラフで、皇位継承者は30余名いる1946年から3名しかいないことを示している。が、だからこそ、臣籍降下以前に皇位継承者であった「皇統に属する男系男子」を皇族にする③と④の提言を、有識者会議が行ったのではなかったか。
■「大王」と天皇号の成立
遠山美都男氏の『壬申の乱』(中公新書)は冒頭で、これを「古代最大の内乱」とし、「天智天皇はどうして、大友皇子を自分の次の大王にしようとしたのか」と続けている。次の「天皇」ではなく「大王」だ。これは「おおきみ」と読み、天皇号成立以前の古代の尊称である(「だいおう」とも読み、「大君」とも書かれる)。
日本の時代区分にいう「古代」とは、大和・飛鳥・奈良・平安の各時代を指し、飛鳥時代も645年の蘇我氏滅亡から大化改新までを前期、以後を後期に分けられる。また後期をさらに「壬申の乱」以前と「天武朝」以後に区分することもある(『世界大百科事典』)。
天皇号の成立時期は、推古朝(在位592年~628年)とするのが通説だが、天武朝や持統朝(称制686年~689年、在位690年~697年)との説もある。推古以降の天皇は、舒明・皇極・孝徳・斉明(皇極の重祚)・天智・弘文・天武・持統と続くが、後者の説なら推古から弘文までは天皇ではなく「大王」だった。
持統の「称制」(即位せず執政すること)だが、これは天武の皇后である後の持統が、天武没後に第一皇子草壁と共に政治を見、草壁没後の689年に即位したことによる。草壁は707年に岡宮天皇の尊号が奉られた。奈良時代の元正・聖武・孝謙(称徳として重祚)の各天皇は草壁の子孫である。
また、天智(中大兄皇子:626年~671年)と天武(大海人皇子:?~686年)の間の「弘文」は、「壬申の乱」に敗れて自裁した大友皇子(648年~672年)のこと。1870年に明治天皇が追謚した。
■壬申の乱
では、天智の後継争いである「壬申の乱」がなぜ起こったか。病で死期を覚った天智は671年正月、子の大友を太政大臣に、大和朝廷を構成していた豪族の蘇我赤兄と中臣金を左右の大臣に、蘇我果安、巨勢人、紀大人を御史大夫に据えた。そして10月、政権の実力者たる弟の大海人を枕頭に呼んだ。
天智は、『天智紀』が「病甚し。後事を以て汝に属く」と書き、『天武紀』が「天皇、東宮に勅して、鴻業を授く」と記していることを大海人に伝えた。が、既に布かれた政権の布陣を見るにつけ、またかつて自分の妃だった額田王を奪ったことのある兄の真意を計りかねた。
そこで大海人は、「疾を称して固辞びまうして、受けずして曰したまはく、『請う、洪業を挙げて、大后付属けまつらむ。大友王をして、諸政を奉宣はしめむ。臣は請願ふ。天皇の奉為に、出家して修道せむ』」と述べ、天智はこれを許した、大海人は剃髪し、妻や子、部下と共に吉野宮に引退した。
自分は病気なので、天智の大后である倭姫王を女帝として即位させ、大友に執政させたらどうか、自分は出家する、というのである。
なお、倭姫王は舒明と蘇我馬子の娘との子・古人大兄皇子の娘だが、古人大兄皇子は中大兄皇子、即ち天智に討たれている。ついでに、大海人が吉野に伴った妻は、天智の次女、即ち大友皇子の姉で後の持統天皇であり、子の一人は草壁皇子である。大海人の妻のうち4人は天智の娘であり、大友妃・十市皇女は大海人の娘である。
さて、大海人が天智の言を疑った背景には、欽明以降の、敏達、用明、崇峻、推古が何れも欽明の子、即ち兄妹が年齢順に即位していた事情がある。つまり、欽明の死後は、王族の範囲内で世代・年齢などの条件を重視して大王が選ばれていたから、次は自分のはずなのに、大友を太政大臣に据え、有力豪族で囲っているではないか、という訳である。
因みに、推古が最初の女帝になった経緯はこうだ。23歳で自分の異母兄である敏達の後添え皇后となった推古は、敏達と用明が没し、崇峻が蘇我馬子に暗殺れるに及び、その叔父たる馬子に推されて即位したのである。その在位は36年に及び、その間に厩戸皇子(聖徳太子)らは先立ってしまった。
話を元に戻せば、勝利した大海人は673年2月、飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となった。結果、大友方の蘇我・中臣などの旧畿内大豪族は勢いを失った一方、大海人についた中央の中小豪族、地方の豪族、天皇近侍の舎人集団らが政権中核を成し、天皇中心の律令中央集権国家へと向かうこととなったのである。
天武の死後(686年)の女帝持統は天武の皇后、次の文武は天武の孫(草壁の子)だが、文武の次は草壁妃の女帝元明、元明の次は草壁の子の元正と女帝が続いた。元正の次は文武の子の聖武、聖武の次は皇子が夭折したため皇女の孝謙、孝謙の次は天武の孫の淳仁だが、和気清麻呂と道鏡が絡む事件で淳仁が廃され、孝謙が称徳として重祚した。
称徳の崩御で即位した光仁は天智の子・施基皇子を父とするので天武系から天智系に戻る。次の桓武は光仁の子、次の平城は桓武の皇子だが病に掛かって3年で上皇になり、次を桓武の第二子の嵯峨に託した。嵯峨の皇太子だった平城の第三子高丘親王が「薬子の変」で廃され、桓武の第三子が次の淳和(在位:823年~833年)となった。これが天武以降の150年である。
『読売』の社説と提言に戻る。
「壬申の乱」(673年)から淳和まで女帝4名5代誕生の経緯を振り返れば、確かにそれ以前に兄弟が連続した「王族の範囲内で世代・年齢などの条件の重視」ではなく、基本的には先帝の皇子や孫が即位していて、女帝や兄弟はアクシデントによる繋ぎの場合に限られているようだ。
『遠山本』は、世代・年齢を重視した王位継承は複数候補の常時確保が必要だが、むしろそれが大王死後の果てしない紛争に繋がったとし、推古の時代に23年間もそれを見ていた天智が、紛争を防ぐためのルール作りのため、弟の大海人ではなく子の大友を選んだ、との見立てをしている。
筆者は「壬申の乱」のどちらが正義でどちらが邪悪なのかは判らない。が、天智が作ろうとした王位継承のルールが「皇室典範」に書いてある。確かに目下は『読売』が書くように皇族数が十分の一以下に激減した。それは取りも直さず臣籍降下が原因だ。
そこで有識者会議が、③皇族に認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とすること、④皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること、によって皇族の数を増やすことを提言した。素直にそれを行えば、この先「壬申の乱」は起こるまい。
男系の皇統を維持する方法は二つある。一つ目は准后や中宮を認める方法、二つ目は宮家を増やす方法だ。前者は国民の支持を到底得られないので不可能だ。後者は建前上は可能だが、戦後廃止された11宮家の内、具体的に皇統を継ぐことが出来る人がいるのかどうか全く分からない。
天皇家に常に男子が生まれるなどという保証はないから、宮家を廃止した時点で今日の窮状は予定されていたことで、米国もそれを承知していたのかもしれない。
男系男子が皇位を継承するのは、万世一系の伝統でこれがなくなったらお仕舞いだ。大体伝統的制度というものは国民の2割から2割5分が強固な支持派で、1割から1割5分が強固な反対派だ。残りはどちらでも良い人達である。強固な支持派派当然男系男子継承派である。だからこの制度を廃止すれば、いわゆる岩盤支持層を失うことになる。
女系を認めることは終わりの始まりとなる可能性がある。天皇が天皇である根拠は我々庶民と違うからだ。何が違うのか。それは貴種と言うことに尽きる。我々と同じなら存在理由などないからだ。皇室の民主化を盛んに言う人がいるが、余り民主化して垣根を取り払ってしまえばそれは不要論に繋がる。