▶無線と私(高17期 和田 良平)

このほど友人から、YRP(横須賀リサーチパーク)で無線歴史展示室の一般公開があると聞きました。
【無線歴史展示室一般公開デー】
・日時:6月27日(金)13:30~16:00まで
・場所:横須賀市YRPセンター1番館1階
https://yrp.co.jp/exhibitionhall/
いつでも見学は出来ますが通常は事前の申し込みと10人程度のグループが必要です。この一般公開の日だけは個人で予約なしで大丈夫だそうです。その情報をいただいたので、上記HPをのぞいてみました。
そうしたら、タイムスリップがおきて、1963年に!その頃は・・・・・。
◆ ◆ ◆
横高1年生の時に科学部に入部しました。敷地の北西側に2階建てのボロ屋がありました。そこが部室でした。その頃の科学部は、電子班・化学班・天文班・生物班に分かれていて、それぞれ別に活動をしていました。
電子班の活動は、アマチュア無線と電気工作。私がアマチュア無線に興味を持ったのは中学校時代。工業という科目の先生が授業中にアマチュア無線の話をして、それに興味を持ちました。その先生は、横高の大先輩でもあり、科学部の大先輩だと知ったのは、ずっとずっと後のことです。その先生は、我が家に来られたこともあります。
さて、高校時代はアマチュア無線の資格を取ることに熱中しました。当時の電話級アマチュア無線技士、現在の4級です。翌年同時代の仲間と受験に行き、無事取得できました。大変うれしかったことを覚えています。無線の免許は、資格免許と局免許の2本立てです。
試験に受かっただけでは開局は出来ません。開局のための無線局免許を申請する必要があります。私が申請したのは、同年11月でした。翌年2月に免許が交付されました。コールサインも貰いました。コールサインは、全世界で同じものはありません。私だけの識別符号です。これもうれしかった。
実はこのときは、まだ無線機はなかったのです。買うお金もないから、自作すると言うことでいわばペーパー免許ですね。実際の運用を始めたのは、社会人になってからです。給料で無線機を買って自宅で開局しました。そうすると近所の無線仲間が友人になり、交友が広がります。近所には意外に沢山の仲間がいました。
逗子クラブという無線のグループにも加わり、さらに広がりました。夜な夜な無線機を枕元に置いて、話をしながら眠りにつく。知らない間に眠っちゃう。そうした日々でした。社会人になるとお金は潤沢ですから、無線機は買い足せます。アンテナも大きなものが上げられます。
こうしてどっぷりと無線の世界にはまっていきました。無線の資格も、第2級を取得し、最上位の第1級も狙いました。しかし、実技の試験があり、第2級は欧文のモールスだけでしたが、第1級は和文と両方。通常使っていない私にとっては難関。
2回落ちました。欧文を最初に受けるのですが、その後和文を受けると、コンフューズしてしまいダメ。しかし世の中はモールス通信が下火になってきて、欧文も和文も廃止になりました。学科だけですからすぐ受けに行き、無事受かりました。
50歳を超えた後で海外赴任がありました。最初は香港。すぐに現地の日本人と仲良くなり、受験についての知識を得ました。学科試験だけでOK。しかし言語が英語か広東語。日本語はないのか?と申請時に聞きましたが、あるわけありません。仕方なく英語で受験。通常は使わない単語を沢山覚えました。5月に赴任して、8月には取得しましたから、最短だと現地の仲間に祝福されました。もちろんコールサインも貰いました。
中国本土との行き来があったので、次は中国の免許と考えていたら、シンガポールへ人事異動。すかさずシンガポールでも開局を。ここは日本の免許があれば、申請だけでOK。自宅にアンテナを設置して運用しました。さらに会社にもクラブ局を作ろうと政府と交渉。うまくいって会社のコールサインも取得し、工場の屋上にアンテナも設置して運用しました。
楽しい無線生活でした。
通信に興味がありますんので行ってみたいと思います。京急のYRP野比駅からバスが出ているようですね。
https://www.keikyu-bus.co.jp/line/root_stop/yrpnobi.html
①番のりば 12:44 13:09 野4・5系統 通信研究所行き 光の丘5番下車
はい、私もちょうどその時車がないことに気づき、電車で行くことにしました。
和田先輩、ズレた質問ですが、もしお分かりならご教示願います。
幕末にロンドンから江戸に電報を打つと、幾日程で届きますでしょうか?
はい、ご覧いただきありがとうございます。
さて、電報は1869年(明治で言うと2年です)に日本で初めて導入されました。この頃の電報は、有線で伝えられますから、電信柱がないと届きません。電線を張り巡らすわけです。最初は東京-横浜間です。鉄道と同じですね。だんだん電信柱が広がっていき、1873年には東京-長崎間で開通したとあります。すごい力ですね。
しかし、無線で情報を伝えるのは、無線通信で、これはマルコニーが1901年に大西洋を越えて通信をしています。江戸時代は1868年で終わりますから、幕末に電報を打つことは出来ません。電報という概念もありませんね。
と、これでは話になりませんね。
慶応3年7月18日、駐フランス公使格の向山一履(かずふみ)が、江戸の小栗忠順宛にロンドンから電報を打っています。原文のまま載せます。
「クーレーより金あらす、直ぐにオリインタルバンクに為替を組むへし」
パリ万博に将軍慶喜の名代として出席していた徳川昭武のパリ滞在費が底をついてきたのでオリエンタルバンクから為替で資金を送って欲しいという内容です。
滞在費について「何の心配もない」と豪語していたフランス側の担当者クーレーが手のひら返しをして困ってしまったということです。
小生は、ロンドン、マドリッド、カサブランカ、トリポリ、カイロ、テヘラン、ボンベイ、カルタッカ、サイゴン、上海辺りを経て江戸に着くのが1週間程度と想像したんですが。
なるほど。江戸時代の末期にそんなことがあったんですね。BSで放映している関口宏の番組「一番新しい××」は、ちょうど明治時代をやっており、私は毎回見ていますが、このエピソードはなかったですね。
「ロンドン、マドリッド、カサブランカ、トリポリ、カイロ、テヘラン、ボンベイ、カルタッカ、サイゴン、上海辺りを経て江戸に着くのが1週間程度」となるほどですね。国際電報なんて伝達する主体はどこだったんでしょうね?費用はどうやって支払うか?マドリッドからカサブランカへの伝達はどうしたのか?考えると楽しくなってきますね。残念ながら私の知見では計り知れません。調べてみましょう。
是非ぜひお願いします。この向山の電報で、将軍慶喜は600万ドルの借款が不調に終わることを予見したんでしょうね(正式破談は同年12月でした)。
この情報を得て、10月14日に大政奉還に打って出たと推測しております。
和田先輩、酷い愚問ですが、大きな電柱を立てれば、モールス信号で電報を打つことができますか?