▶戦争を知らない私と『火垂るの墓』(高25期 廣瀬隆夫)

2018年に高畑勲が亡くなったとき、追悼として放映された『火垂るの墓』。それ以来、7年ぶりにテレビで観ることができた。1945年――私が生まれる、わずか10年前の出来事である。もしこのアニメが存在しなければ、日本がかつてそうした状況にあったことを、私はきっと実感できなかっただろう。ましてや平成生まれの子どもや、令和生まれの孫たちにとっては、想像の及ばぬ「遠い過去」かもしれない。しかし、それは確かに同じ日本で起きた現実だった。
戦後生まれの私に、直接の戦争体験はない。父も戦中のことをほとんど語らなかった。ただ、シベリア抑留を経験した叔父が、少しばかり逸話を語ってくれた。「馬糞を間違えて食べた」とか「電気ケーブルを溶かしてスプーンを作った」といった、思わず苦笑いしてしまう話ばかりで、悲惨な面は避けられていた。だが今思えば、それは「語らなかった」のではなく、「語れなかった」のかもしれない。
子ども時代の記憶のなかに、大岡川沿いの黒く焼け焦げた風景がある。5、6歳の頃、横浜へ行く道すがら目にしたそれを、当時は「汚い」としか思えなかった。今になって振り返ると、あれは戦争の残骸だったのだろう。後にその地は桜並木に姿を変え、花見の名所となったが、私の記憶には焼け跡の風景が重なって残っている。
家の裏には防空壕があった。朝鮮の人々に掘ってもらったと聞いている。六畳ほどの広さで、夏でもひんやり涼しく、エアコンがなかった時代、白熱電球を付けて本を読む場として使ったこともある。別の山の斜面には「みかん掘り」と呼ばれる穴があり、そこに海水をためて塩をつくったと父は話していた。井戸も日常的に使っていて、山でとった薪で沸かした湯で風呂に入るのが日常だった。こうして振り返ると、私の幼少期にも『火垂るの墓』と地続きの暮らしがあったのだ。
現代の生活は便利で快適だ。ガスも水道も電気も整い、ボタンひとつで湯がわき、エアコンで室温も自在に調整できる。だが、ふと考える。この「当たり前」は本当に永続するのだろうか。戦争や地震などの災害でライフラインが途絶えたとき、私たちの生活はどこまで脆いのか。『火垂るの墓』が描き出すのは、過去の惨禍であると同時に、現代を生きる私たちが抱える不安の原点でもある。
高畑勲が生み出したこの作品は、単なる反戦映画ではない。ジブリの中でも異彩を放つ「アニメーションによる記憶の継承装置」として、世代を超えて問いかけ続けている。その問いは、戦争体験を持たない私の世代にとっても、さらに遠い未来を生きる子や孫の世代にとっても同じように突き刺さる。スクリーンに映し出されるのは、過去の歴史であると同時に、私たちがいま享受している「当たり前の生活」がいかに儚いかを映す鏡なのだ。
エアコンの効いた部屋でこの文章を打ちながら、私はその「当たり前」の脆弱さを思わずにはいられない。そして同時に、『火垂るの墓』という作品が、未来に向けて何を語り継ごうとしているのかを考え続けたいと思う。