▶徳川慶喜と兵庫開港問題 幕末政局の転換点(高22期 松原 隆文)
あまり書物でも取り上げられていませんが、幕末のとても重要な問題だった兵庫開港問題について述べてみたいと思います。(高22期 松原 隆文)
■ 兵庫開港問題とは
1858年7月29日(安政5年6月19日)、井伊直弼を中心とする徳川幕府はアメリカ合衆国との間で日米修好通商条約を締結し、その後、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を締結した(いわゆる安政五カ国条約)。この条約では、今後5年以内(1863年1月1日、文久2年11月12日)の兵庫開港が決められていた。
しかし、文久に入ると攘夷運動が激化し、京都に近い兵庫を開港することは到底無理な状況となり、幕府は欧州に特使を派遣して開港延期交渉を行い、当時の駐日英国公使オールコックの協力もあって、5年の延期を認めてもらった。そして開港の期限は更に5年後の慶応3年12月7日と定められた。開港するにはその6か月前に国内に布告する必要があるので、幕府は慶応3年6月7日までに、兵庫開港の国内布告をしなければならないという大きな問題を抱えていた。
ちなみに、攘夷運動が激化したのは単に思想的理由だけではない。まず諸物価が跳ね上がり、庶民の生活を直撃している。更に安政・文久年間にコレラ(コロリ)が大流行した。江戸では23万人が犠牲になり、どの家も玄関や神棚にコレラ除けのお札を貼ったりしている。物価の高騰もコレラの流行も開国のせいだ!と言えなくもない。
慶応2年8月20日(1866年)、徳川本家を相続した徳川慶喜は、当初将軍就任を渋っていたが、この差し迫った兵庫開港問題を自らの手で解決するにはやはり将軍に就任するほか無いと判断したのであろうか、慶応2年12月5日、つまり兵庫開港国内布告期限の半年前に、(京都で)第15代征夷大将軍に就任している。
幕府は、慶喜がまだ正式に将軍に就任する前の慶応2年12月2日、早くも諸外国に、謁見を行うので大坂に参集するよう通知をした。しかし、これにはオールコックの後任公使パークスが異を唱えた。(将軍がただ謁見を行うだけでは、幕府権力の強化に力を貸すことになるだけなので)幕府が本当の日本政府なら、謁見の際に兵庫開港を確約すべきである、との旨を12月7日、老中稲葉正邦に告げている。兵庫開港について幕府はまだ勅許を得ていなかったので、これは幕府の弱みを突いたと言える。
そこで幕府は、翌慶応3年1月10日、孝明天皇の死去を理由に謁見を延期し、兵庫開港の準備を急いだ。6月には国内布告しなければならなかったので、残された時間はあまりなかったのである。また慶喜と親しいフランス公使のロッシュが、2月6、7の両日、(京都から下坂した)慶喜と大坂城で会見し、兵庫開港を宣言しなければパークスは謁見に出席しないだろうと述べている。慶喜が「断然兵庫を開港すべし」と決意したのは多分この時ではないかと筆者は推測する。ちなみにパークスという人は優れた外交官であったが、気難しいうえに癇癪持ちの大男で、幕府の外国奉行等も手を焼いたようだ。
■ 兵庫開港の意義と幕府の方針
幕府は、兵庫開港については初めから積極的で、慶喜も兵庫を開港する揺るぎない決意を持っていた。決して諸外国に迫られてよんどころなくやったのではない。では兵庫を開港することにどのような意味があったか、以下のとおり述べてみる。
① まず国際社会との約束である。仮に兵庫開港が出来ないことにでもなれば、日本は諸外国からの信頼を将来に亘って失ってしまい、近代国家の仲間入りが出来なくなってしまう。自らの手による日本近代化に強い意欲を持っていた慶喜は何としても約束を果たしたかったと推測される。又、当然のことながら、将軍自らが開港を宣言することで、幕府が日本の統治者であることを内外に示し、その求心力を高めるという政治的かつ外交的意義がある。
② 次に経済的利益が挙げられる。貿易が順調に進むと、3年もすれば100万両の関税収入が見込まれていた。当時の幕府の歳入が約450万両と推測されるので、この100万両がいかに大きな額かが分かる。更に例示すると、当時世界最高水準の戦艦開陽丸の建造費が50万ドルで、当時の為替レートで換算すると37万5000両となる。要するに幕府は十二分の武器弾薬を満載した開陽丸クラスの軍艦を毎年2隻づつ就役させることが出来、これでは反幕勢力との軍事力は比較できなくなってしまう。
③ 何よりも諸外国は、兵庫での貿易が軌道に乗れば日本の内乱を絶対に望まなくなり、薩摩贔屓の英国も現政権つまり幕府を支持せざるを得なくなる。反幕派は倒幕の機会を永久に失ってしまい、日本の近代化は徳川勢力の主導で行われることになる。
④ 親仏幕権派の巨頭にして勘定奉行の小栗忠順(上野介)、この人は関東の行財政改革の全てを仕切っていたが、当時の武士には珍しく経済に明るくしかも物品の流通等を正確に把握していた。小栗は、慶応3年6月5日、来たるべき兵庫開港に備えて、三井や鴻池等の豪商を糾合して、半官半民の兵庫商社を結成させた。兵庫港を整備するには巨額の資金が必要で、財政難に喘いでいた幕府には彼らの協力が不可欠であった。又、横浜では外国商人に物品を安く買い叩かれていたので,この兵庫商社を結成して物品の輸出入を独占し、貿易の利潤を確保することを目論んだ。
又、小栗は三井、鴻池等の拠出した資金を担保にして100万両規模の兌換紙幣の発行を企てていた。筆者は最近の資料で、1万両だけだが、兌換紙幣が発行されていたことを知った。この兌換紙幣発行が順調にいけば、財政面でも幕府は完全に立ち直ってしまう。反幕勢力にとって更に都合が悪いことに、西国雄藩は三井、鴻池といった豪商に多額の(というより天文学的な)借金があり、ただでさえ頭が上がらない。倒幕の機会は無くなってしまうのだ。
⑤ 当時の下関は密貿易で大いに栄えていたが、兵庫が開港されれば姑息な密貿易などは霧散し,下関は火が消えてしまうことになる。長州にとっても困ったことになるわけだった。
■ 幕府と反幕派との政治闘争と慶喜の決断
以上から分かるように、幕府主導で兵庫が開港されることは、反幕派にとっては決定的に不利になることが明白だった。だから、反幕派は何としても幕府の手による兵庫開港を阻止したかった。そこで兵庫開港を巡って幕府と反幕派との熾烈な政治闘争が始まるのであった。反幕派(その中心は薩摩)が打った様々な対抗手段と幕府との駆け引きを少し述べてみたい。
まず、薩摩は、兵庫開港問題について、パークスをして直接朝廷と交渉させ、外交権を幕府の手から奪い、薩摩を中心とする雄藩連合に移そうと企てていた。しかし、パークスはこれを国内問題だとして取り上げなかったので薩摩は当てが外れてしまい、戦略の練り直しに迫られた。何よりも薩摩は、勅許なしには慶喜は兵庫開港を宣言できないだろうと踏んでいた。そこで反幕派の公家に入説して勅許の阻止に全力を注いだ。これは成功し、慶喜は3月に二度勅許を要請したが、いずれも却下されている。よって慶喜は勅許なしに下坂し、兵庫開港を宣言することになったのである。ちなみに慶喜は将軍宣下後もずっと京都に留まっており江戸には帰っていない。
果たして慶喜は、3月25、26、27、28、29日及び4月1日の六日間、大坂城で英・仏・米・蘭の四カ国公使を堂々と謁見したのであった(謁見は各国とも内謁見と公式謁見の二回づつ行った)。この日程は想像しただけでもかなり過密だ。このスケジュールを難なくこなしてしまう慶喜の能力には誰もが脱帽するほかないのでななかろうか。しかも慶喜はただの飾り物ではなく、自ら最高のホスト役を堂々と演じたのである。筆者は、この外国公使の謁見が、慶喜政権の白眉且つ絶頂期であったと考える。この謁見の場で慶喜は、「祖宗以来の兵馬の権を掌握せしにつき、大法を遵法し、貴国と結んだ条約を一々踏み行うことを断然決定した!」と宣言したのである。
この謁見は大成功で、パークスは本国の外務大臣スタンレーに宛てた手紙で、慶喜の素晴らしさを縷々語り、絶賛している。何よりも慶喜が率直に兵庫開港を宣言したことを評価し、日本近代化のために自らが率先して行動することを述べたことや、彼の風貌容姿などを讃えている。
■ 兵庫開港宣言後も幕府と反幕派との水面下の政争が続いた。しかし慶喜には最後の関門が待っていた。勅許である。反幕派はここを最後の拠り所として勅許阻止に全力を傾けた。まず、反幕派は、慶喜が勅許なしに兵庫開港を宣言したことを違勅と責め立てた。これに対し慶喜は、条約の対外的宣言と国内布告は別問題で、国内布告についてのみ勅許が必要だとの見解を示している。要するに条約二元論の主張である。当時の慶喜が国際法を熟知していたとは考えられないが、こうした法理論を即座に展開できるのが慶喜の優れた能力であった。ただ、国内布告のために勅許が必要であることは変わりは無かった。
次に、薩摩は一つの奇策を用意していた。パークスの旅行である。慶喜の兵庫開港宣言の直後、まだ大坂に留まっていたパークスと面会した薩摩藩士は、パークスに出京及び国内旅行を勧めたのである。これは外国人の内地旅行により、排外感情を引き起こし、幕府を困らせようとするまことに陰険な策謀であった。幕府は入京をしないことを条件に渋々同意したが、パークスは4月12日、伏見、大津を経て敦賀へ出た。果たして京都は騒然とした状況となり、異人が都に潜伏しているなどの流言が乱れ飛び、佐幕派の公家の議奏・伝奏が四人も免職となった。(その後開催されるはずの)廉前会議で佐幕派の公家が減れば慶喜は不利になるので、この薩摩の策謀は成功したのである。
更に薩摩はこの兵庫開港問題が慶喜攻略の最後の手段とみて、早くから島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城という当時の有力諸侯に根回しをして、これらの諸侯の京都集結を促した。ただ、この四人が京都に集まったのは5月初めであったので、慶喜が兵庫開港宣言をしてから大分経っていた。本来、薩摩としては、慶喜の兵庫開港宣言前にこの諸侯達を集め、反幕派の公家と連携して、勅許と兵庫開港を結びつけて慶喜を追い詰め、外交権を朝廷を通じて雄藩連合に移行させるのが目的であった。
しかし、慶喜が意表を突いて勅許なしに兵庫開港を堂々と宣言し、しかもこれが諸外国に絶賛されたのでこの意図は挫かれてしまったのである。そこで今度は、この諸侯達に、長州処分問題を持ち出させ、兵庫開港問題と関連付けて慶喜を追い込もうとしたのである。諸侯達は数回に亘って二条城で慶喜と会談したが、結局意見がまとまらず、山内容堂に至っては帰国してしまい、激派の憤激を買ったほどであった。
この四候会議の分裂は、慶喜に兵庫開港を強行する大いなる自信を与えた。果たして5月23日夜八時、参内した慶喜は、30時間奮闘して翌5月24日深夜二時、兵庫開港の勅許を取得した。幕府は慶応3年6月6日、来たる12月7日に兵庫を開港する旨、堂々と布告した。この一連の兵庫開港問題で薩摩が常に後手に回った最大の理由は、慶喜が、たとえ勅許が得られなくても徳川家と自らの存亡を一挙に賭けて、兵庫開港を宣言する決意を固めていたことを予測できなかったことだ。尊皇攘夷運動が吹き荒れていた文久年間ならいざ知らず、慶応3年ともなると開港は国是であることは誰もが認めていた。だから、慶喜は日本国統治者として、自らの手で国際社会との約束を履行し、兵庫を断然開港する決意だった。薩摩は、この慶喜の揺るぎない決意を見抜けなかったのである。
■ 結語
兵庫開港問題で慶喜に完敗した薩摩は、政治闘争では到底、慶喜に勝てないことを悟り、その方針を、早くも翌日の6月7日から武力討幕に転換し、嘗ての仇敵長州との連携を強め、芸州をも巻き込んで武力による討幕そして打倒慶喜の具体的準備に邁進した。そのタイムリミットは兵庫開港予定日の12月7日であった。筆者はこの兵庫開港国内布告こそが、正に、(反幕派が武力討幕に方針を転換した)幕末政局のターニングポイントになったと考えている。ちなみに、討幕派が王政復古のクーデターを敢行したのが12月9日なので、間一髪、慶喜を追い落とす可能性をこの時、漸く手に入れたのであった。