▶70年余の歴史に幕を下ろした「村田青果店」(高22期 高橋克己)

金沢八景の今の住まいに転居して、早や37年が過ぎた。36歳の時だったから、人生の半分をここで過ごした計算だ。生まれ育った汐入3丁目の家は母が他界した13年前に手放したが、そこから今は全て空き家になっている10軒ほどを隔てたところには、姉夫婦が暮らす「その家」がある。

実は、私の新婚生活は「その家」で75年11月に始まったのだが、3年余り経った79年初めに私は大阪へ、姉の一家は名古屋から横須賀に、それぞれ転勤と相成り、「その家」は入れ替わり姉夫婦家族の住まいになった。斯くて半世紀、2階建てになったものの2人の甥は疾うに独立している。

偶に出掛けて、手土産を肴に吞みながら姉や義兄とする話は、たいがい実家や「その家」のある「ちこく坂」や「レンガ山」の懐古譚だ。昔は汐留駅と称した汐入駅から坂本方面に向かい、汐入交番を左折して長源寺を過ぎた辺りから右に入る小径(といっても一方通行だが車が通れる)が、不入斗・坂本に抜ける「ちこく坂」、左側が廃煉瓦を崖に積んだ「レンガ山」である。

姉夫婦が「その家」に移った当時でも日々の生活は「ちこく坂」でほぼ完結した。「ちこく坂」の入り口に向かって右に八百屋が2軒並び、その左隣に床屋、坂を挟んだ蕎麦屋の昼時は数台のタクシーが蕎麦っ食いの主を待っていた。少し行くとまた八百屋、その先が肉屋でその対面には酒屋・和菓子屋・酒屋が間に民家を挟んで並んでいた。

「ちこく坂」はと言えば、すぐ左に駄菓子も売っている煙草屋があり、その対面が豆腐屋、少し先の向かいには魚屋と八百屋が並んでいた。ちょっと進んだ左が実家への「レンガ山」登り口、そこ過ぎると冬はおでん、夏は氷饅頭が名物の駄菓子屋、その先の酒屋を少し行った風呂屋を左折し、急な階段を数十段上ると「その家」に辿り着く、といった具合。

ほぼ半世紀を経た今も存続しているのは「ちこく坂」入口の八百屋一軒と、肉屋の対面のコンビニ風になった酒屋だけだ。偶さかこの2軒とも息子は横高の1~2年後輩である。八百屋はその彼が今も店頭に出ているが、酒屋の息子は確か某ビールメーカーに就職した。

非常に長い前置きになったが、今の住まいの近くにある「マルカン村田青果店」の前を今日の昼間通ったら、降りたシャッターに冒頭の張り紙がしてあった。そこでたちまち昔の「ちこく坂」のことが頭を過ぎったのだ。私の目的地も、「マルカン」の先にある「ヨークマート」と「クリエイト」だったのだから、「マルカン」が時代の流れには逆らえなくても仕方ない。

私は「マルカン」が好きで、伊予柑やネーブルは「ヨークマート」ではなく必ずここで買った。高齢のご店主と、娘か嫁か判らぬが相応の年配の女性で切り盛りしていた。「紙袋で良いですか」が女性の口癖だが、私はいつもリュックからレジ袋を取り出してそれに入れてもらった。店のコストが1円でも減れば、と考えた訳ではないが何故かそうした。

開店が昭和28年で、ご店主が80歳とするとおそらく二代目ではなかろうか(例えば初代が「村田貫太郎」で「マルカン」とか)。あとひと月頑張れば昭和100年だったのにとも思うが、もう十二分に頑張られましたよ。張り紙の言葉が、お客への感謝と共にそのことを物語っていて、思わず頭を下げずにいられなかった次第。 おわり

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