▶昭和のラジオ・テレビ物語:第10話(昭和100年4月 高22期 高橋揚一)

【お笑いタッグマッチ】
1959年から1967年まで金曜日の昼12時15分から30分間、フジテレビから『お笑いタッグマッチ』が放映されていた。司会の春風亭柳昇のトロンボーンの演奏に始まり、当時の若手真打落語家6人が3人ずつ紅白に分かれて座っていた。
中央の司会の両脇にレギュラーが、左手前から、三遊亭小円馬、金原亭馬の助、三笑亭夢楽、右手前から、桂伸治、柳家小せん、春風亭柳好の順に座っていたように思えるが、時々入れ替わっていたかも知れない。

ほかにゲストの歌手が2名出演し、歌を披露して歌詞の中から3つの語句を選んでもらい、それを中に入れて紅白それぞれ3人で小話を作ってリレーしていく展開だった。三遊亭小円馬の「おとっつぁん。なんだ息子」から始まるパターンがほぼ定着していた。
司会の春風亭柳昇はとぼけた間の天才。「わたくしは春風亭柳昇と申しまして、大きなことを言うようですが、今や春風亭柳昇と言えば、我が国では………わたし一人でございます…」
高座ではこの口上に始まり「我が国では…」でクスクス笑いが始まる。
「おい与太郎、お前も良い年なんだから、ちっとはましなことをひとつでもやってごらんよ…俳句なんかどうだい」「じゃあ朝顔」「いいねえ朝顔かい」「朝、顔を洗うは年に二〜三回」「そんなんじゃどうしょもないね…初雪や二の字二の字の下駄の跡なんて句を読めないかい」「ならおいらは…初雪や大坊主小坊主おぶさって転んで頭の足跡一本歯の下駄の跡」
昭和の頃には「柳昇ギャルズ」と称される女子大生の親衛隊に取り巻かれるほど人気だった。桂歌丸は中学時代に二つ目だった春風亭柳昇の落語を聞いて自分も落語家になろうと決心したという。桂歌丸の師匠古今亭今輔や兄弟子の桂米丸にも類似した新作落語のクスクス笑いがあった。
春風亭柳昇のトロンボーンは弟子の春風亭昇太に受け継がれている。

ところで『お笑いタッグマッチ』といえば、スポンサー丸美屋食品の「のりたま」のCM。初代は桂小金治。「おも舵いっぱ〜い、ごはんがいっぱ〜い、のりたまいっぱ〜い」。
「のりたま」に続いて「牛肉すきやきふりかけ」のCMも。「オー、フジヤマ、スキヤキふりか〜け〜」だったかも。
「のりたま」と「牛肉すきやきふりかけ」は白木みのるやエイトマンによるCMでも広まっていった。

桂小金治は、師匠桂小文治の公認で松竹、東宝、日活の映画出演やNHKテレビ『ポンポン大将』主演やフジテレビ『日清オリンピックショウ地上最大のクイズ』、テレビ朝日『桂小金治アフタヌーンショー』の司会などを担当し、真打に昇進することなく俳優やタレントとして活躍する毎日だった。
『日清オリンピックショウ地上最大のクイズ』は、1964年の東京オリンピック開催前の1962年に始まった100人の視聴者参加のクイズ番組。アテネ→イスタンブール→ベイルート→バグダッド→テヘラン→ニューデリー→カルカッタ→ラングーン→バンコク→クアラルンプール→シンガポール→マニラ→台北→那覇→東京に至る15ヶ所でクイズに答える。アテネから10ヶ所目のクアラルンプールまでは回答者は回答席で四角い旗を上げて○×問題に答えて、間違えた地点で脱落となる。10問正解者は前に出て来て11ヶ所目からは三択問題となり三角の旗を上げて回答した。15問正解者には賞金100万円とチキンラーメン1年分。途中で全員脱落となって時間のある場合は敗者復活戦が行われた。
『桂小金治アフタヌーンショー』は昼のワイドショー番組で、「指圧の心母心押せば命の泉湧く」の浪越徳治郎の指圧教室や田村魚菜の料理教室や霊媒による降霊実験のほか、怒りのコーナーで桂小金治がすぐに切れることでも人気を博したが、過剰な切れ方で降板となってしまった。

では、灘康次とモダン・カンカンを従えた春風亭柳昇のトロンボーン演奏。
最後は、お口直しにDixieland Stompersの演奏。
この曲は私の葬儀で出棺の際に流してほしい曲でもある。