江戸しぐさ第五講 江戸しぐさの真髄

【江戸しぐさの神髄は思いやり】
江戸しぐさの基本は、上に立つ人の思いやりなんですね。その神髄は、ノブレス・オブリ−ジェ、これは身分の高い人は当然、勇気、仁慈、高潔などの徳を備えなければならない、というような意味なんですが、江戸商人の哲学なんです。上に立つ人といっても、何百人の会社の社長さんもいれば、家庭ではお父さんもそうだし、子供たちのお母さんや、兄弟だったらお兄さん、お姉さんといった、自分の下に人がいる人はみんな、上に立つ人になるんですね。そういう人たちの考え方や行動が大事だということです。

今は、自己中心で、自己虫という虫が増えているようで、思いを相手にプレゼントすると言う、気働きがなくなっちゃたんですよね。これは今では、ほとんど消滅しています。江戸しぐさは、みんな仏の前では平等と言う互角という考え方があって、自立した人間が互角に向き合える、言いあえるというのが江戸の共生なんです。そういう考え方がきちんとあるんです。今、言われているマナーとか、お作法と言われているのは、町方が武家に対応する時のものなんだそうです。

だから、江戸しぐさはちょっと違うんですね。今の方が封建時代の江戸のヒエラルキーを真似しちゃっているんですね。皆さんも朝起きた時、家庭で、おはようとか声に出して言わなくても表情や会釈をで表現すると思いますが、町方同士でもきちんと言葉に出さなくても会釈などで、つまり、しぐさで思いを伝えていたんです。こういう会釈しぐさも無くなってきて消滅寸前ですけど、にっこり笑ったりして、会話をしなくても、これは、お互い生き生きと、生きているよという挨拶なんですよ。また、感謝でもあるんです。道ですれ違うときに傘を傾げれば、そう言うことを言っているよ、と体で表現する体談というものなんでしょうね。

【江戸しぐさで言う、いきとは】
このようなヒューマンで和やかな江戸百貨店のような店員どうしの付きあいを、日本中でできたら、もっと穏やかに楽しくなるんじゃないかという気がします。江戸しぐさは、瞬間的に生まれるアクション、目つき、表情、口の利き方、身のこなし、当意即妙、臨機応変、とっさに出来なければならない。おテント様と米の飯はついてまわらあという、日照権と食べ物の分配権は、お上でなく自分たちが持っていると言う、江戸町人たちの心いきを見せたんです。いきは生きているのいきだし、息をしてるのいきだし、これが江戸のいきなんだそうです。

子供が熱い物を口に入れたとき、あちって言いますよね。ハウスのコマーシャルにありました。グラタンか何かを口に入れてあちっというのを見て、うらしま先生は、あれは江戸しぐさだよ、とおっしゃっていましたが、始め親はやけどしたら大変なんで、さましたのを口に入れてやりますけど、だんだん、自分で熱さを感じてあちっといって食べなくなりますよね。これは、つまり、親の保護が無くてもやけどをしないというサインと考えたんです。熱いものを食べて子供があちっという声を出せるようになったら、息の祝いというのをしたんだそうです。これは、一人立ちの第一歩なんです。ところが、子供のうちにやけどをさせると、味盲になるんだそうです。だから、いつになったら熱いものを与えても良いかの判断は難しかったんです。

私も. 3人の子供を育てましたが子育てというのはそういうものなんです。過保護にならずに自立させるという見極めは大変なんです。人間の集団になると、この会も集団だと思いますが、江戸のいきは、意気投合のいきなんですね。商売でも付きあいでも、いき合いのしぐさがあるんです。いきが合わなければ仕事も、遊びも出来ないんですよ。この会のようにぱっぱと集まれるのは、いき合いがいいんですね。江戸っ子のいきというのは、自分の持っている心意気をスマートに示せること、今風にいったら情報伝達が早くできると言うことなんですね。明治維新の政変の前の江戸っ子のいきの集大成が江戸しぐさでもあるんですね。

【傘かしげ、肩引き、こぶし浮かせ】
江戸しぐさと言えば、傘かしげ、肩引き、こぶし浮かせ。傘かしげは、雨が降っているとき、往来で傘を外側に向けてそっとすれ違う、今は、逆に冷たい傘をこちらに向ける人がいますからね。傘を外側に向けて傘と傘の間に一つの共有の世界を作ると言うことなんです。肩引きは、お互いに右肩を引いて胸と胸とを合わせるしぐさです。OLなんかが、機嫌が悪いとき上司とすれ違うときにお尻をむけるのとは大違いです。

こぶし腰浮かせというのは、昔の乗合舟ですよね。先客たちが後から乗るお客様のために、こぶしひとつ分だけ腰を浮かせて空間をつくるということです。始めはこぶしをつくことと思っていたんですが、そうでなく、こぶしの分だけ腰を浮かせるという意味なんですね。いきなり立って席を空けるのでなくて、このくらい浮かせれば余裕が出ますよね。

かに歩きと言うのもあるんですね。これは全部、往来しぐさですが、かにのように横歩きしてすれ違ったということです。これはみんなやっていますよね。戦前の小学校では雨の日には、かに歩きのトレーニングをしたんだそうですよ。七三の道、公の道を七と考えて歩いた。今は車道と歩道がありますが、歩道を自転車が走るんで、あれは、怖いですよね。本当にぶつけられたら老人なんかいちころです。危ないです。

それから、仁王立ち、江戸しぐさには、して良いものと、してはいけないものがあるんです。バスなんかで昇降口のところに何で立ってんのという人がいるじゃないですか、これはいけないしぐさ。仁王立ちじゃないですが、電車に乗っていたら、若い男の人が満員電車で長い足を出して座っていたんです。どんどんみんな、またいで行くんです。ラッシュアワーですから。そのとき、五十を超えたくらいの人が、君、じゃまじゃないか、あしを引っ込めたまえ、と怒ったんです。最後は、引っ込めろとすごい勢いで怒鳴ったんです。その男の子も最初は平気な顔をしていたけど、最後は引っ込めたんです。でもその人が通ったらまた足を出しているんですよね。これはどっちも悪いんじゃないかしら。引っ込めろという言い方はないんじゃないかと思います。

もうひとつ、電車の中の話なんですけど、電車がゆれて誰かが足を踏んだんだそうです。踏まれた紳士が、人の足を踏んだんだから謝れとか言ったそうです。そうしたら、踏んだほうの青年が電車がゆれたんだから電車のせいじゃないかと言ったんだそうです。そうしたら、それを見ていたそばの紳士が、君、外国ではね、どんなことがあっても、人の足を踏んだらパードンとかソーリィくらい言うぜ、と言ったんです。そうしたら、その青年もだまちゃってそばの人たちもさわやかな気持ちになりましたというお話です。この諭し方がいきなんじゃないでしょうかね。江戸しぐさでは、踏まれた方も、そんな所に足を置いてうかつだったと悟って「うかつあやまり」というしぐさがあるんです。

その他にも、江戸しぐさを、いくつかご紹介しましょう。

【肩書きで人を見ない「三脱の教え」】
江戸しぐさでは初対面の人に職業、学歴、年齢の三つを問うてはならないとされていました。このような情報が先入観になると人間はフィルターをかけて人を判断してしまうんですね。人間を見る観察力や洞察力が曇ってしまうんです。一流校の出身であるとか、有名企業の社員というだけで簡単に人を信用してしまってはだめだということです。本当の人間の価値はそんなものでは計り知れないものです。「三脱の教え」は、この過ちを防ぐための知恵なのです。

【おはよう、には、おはよう】
「おはよう」と言われたら「おはよう」と答えればいいのですが、相手が丁寧に「おはようございます」と言ったら、こちらも「おはようございます」と同等の言葉で、答えなければいけませんでした。たとえ上司であっても、「おはようございます」と部下から言われたら、「おはよう」ではなく「おはようございます」と言わなければなりませんでした。人の上に立つ人こそ、相手を尊重し、決して偉ぶった態度やものの言い方をしてはいけないのです。江戸商人はどんな身分の人に対しても、失礼にならないものの言い方がしつけられていました。

【江戸でもっとも失礼な言葉】
「そんなに偉い方だとは存じませんでした」という言葉ほど失礼な言葉はないそうです。偉い方なんて持ち上げて言われた方は良い気持ちになる方がいるかも知れませんが、見方を変えれば、偉い人でなければ失礼なことをしてもいいのか、ということになります。人間に上下はないと考えていた江戸っ子は、それを許さなかったのです。地位が高くても、そうではなくても、してはいけないことは、してはいけないのです。相手の肩書きで態度を変えるような人は、そもそも信頼に値しない人ですよね。

【共生のしぐさ「尊異論」】
江戸の有能な番頭は小僧たちの意見をよく聞いたそうです。十人のうち一人だけ意見が違っても、その内容がユニークで優れていれば尊重し、そのアイディアを仕入れ、採用したそうです。小僧も成長してくると、いっぱしの批評精神でものを言うようになります。多角的にものを見る目が備わって来るのです。その時の番頭の江戸しぐさは「苦しゅうない」だそうです。批判精神をもっている人、新しいことを考えている人をおさえつけてはいけないのです。下のものであっても異なる意見を言ったときは「苦しゅうない。お前の意見を言ってみなさい」と言わせなければいけないのです。この批判精神を受け入れるということは、自分の考えと違う意見を尊ぶ、つまり尊異論のことで、異文化を受け入れる「共生のしぐさ」の一つなんです。

【時泥棒をしない】
約束の時間に遅れて、断りなく相手の時間を奪うのは、弁済不能の十両の重罪と言われていました。私も、会議や講演などの時には気を使います。時間に遅れて何十人、何百人の人たちを待たせているということは、そこに集まった人たちの時間を奪っていることになるんです。その時間を取り戻してくれ、と言われてもできませんよね。大変な罪なんです。時間を守るということは、これほど大事なことなんです。

⇒ 江戸しぐさ第六講 江戸の段階的養育法

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