▶父の”お話”(小川省二先生)
私の父は、醸造業を営んでいて、時間に余裕のあったせいか、私の幼い頃からかなり成人するまで暇さえあれば"お話"をしてくれた。自分の子供の頃の話、田舎に伝わる昔話、父の父母のこと、友達のこと、小説、歌、相撲、絵、科学、落語、講談・・・少し大きくなると政治や経済の表や裏の話にまでなった。その範囲は広く、実に種々雑多であった。
風呂に入りながら、縁台で涼んでいるとき、コタツで蜜柑を食べながら、旅行中の汽車の座席で、蚊帳の中でゴロッと横になりながら、 所かまわず押し付ける風もなく、独り言の様にぼそぼそと話し出す。私はいつの間にか、話に引き込まれているのであった。
そこで、二つほどその"お話”をあげてみよう。これは私が小学校低学年の頃聞いたものである。
父の親しかった友人が急に亡くなった。そのお通夜の席で故人の思い出話を皆で順番にしようということになった。父に順番がきて、故人が一寸、恥ずかしいので君だけに話すと言ったのだが、もういいだろうと思って、こんな話をしたそうである。
その人は大変な釣り好きで、漁師でもないのに天気でありさえすれば毎日の様に、東京湾に小舟を出して釣りをしていた。その日も猿島の近くで釣り糸を降ろしていたが突然、竜巻の様な強風が起きて、あっという間に小舟は転覆してしまった。その人は必死で泳いだのだが、ついに力尽き、意識を失ってしまった。それからどのくらい時間が経ったのだろう、運よく房総(千葉県)の浜に俯せになって、打ち上げられていたのであった。これを土地の漁師が見つけて、その人の肩を激しく揺すった。
「おい、しっかりしろ。オメェ、どこのもんだ」
その人は気が付いたのだが、疲れで口が全くきけない。黙ったまま指で砂に字を「大日本」と書いた。話はこれだけなのだが、小学校四、五年になって、この話を思い出す度にそのおかしさで、授業中など笑いをこらえるのに苦労したのを覚えている。その人にとって、この漂流時間は、とてつもなく長かったのであろう、だから、ひょっとしたら南洋諸島か、もしかしてハワイにでも来てしまったと、感じたのであろう、そこで「大日本」と書いた。それにしても「オメェ、どこのもんだ」と聞いているのが日本語なのに、やはり、おかしさが込み上げてきて仕方がない。
今度の"お話"は中学の一、二年の頃してくれたものである。
あの俳聖、松尾芭蕉が、ある禅寺に泊めてもらった時のことである。月光の明るくさし込む寺の庫裡で和尚と芭蕉が向かい合って座っている。と、芭蕉が、芸術の心、とは何でしょうかと和尚に尋ねた。すると和尚は静かに立ち上って、茶を点て始めた。
そして芭蕉に茶碗を差し出しながら、こう言った「花鳥風月この内にあり」しばらくして、芭蕉は、やおら筆をとると、短冊にさらさらと句をしたためた。
「名月や濃い茶の泡の三世界」
私が高校の教師になりたての頃、芭蕉の句やその生涯に魅せられて、芭蕉に関する本を随分と読みその足跡をいろいろと調べたことがあった。父の"お話"を思い出し、あの「名月や・・・」の句を捜してみたのだが、芭蕉の句の中にはどこにもそのようなものは見当たらなかった。真相を聞きそびれてしまった今は、これは、面白半分に語った父の創作であったのだろうと思っている。
暇さえあれば、読書していた父は時々、私の部屋にすっと、入ってきて、本を、ぽんと置いて「これ、面白いよ」と言って出て行くことがよくあった。父の口癖は人間生涯学生、「わしは今、社会大学五十何年生」「六十何年生」ということであった。
昭和四十八年三月一日、身体が弱って入院していた父を、私は見舞いに行った。「今日は早いね、どうしたの」「今日は卒業式だったので早く終わりました」「ああ卒業式ね。ところで、わしの卒業式はいつだろうね」それから十二日後に、父は静かに息を引きとった。その日が社会大学八十六年生の父の卒業式当日となった。(小川省二)
・神奈川県立高等学校退職校長会 平成十一年記(有朋)掲載