▶横高の名物親父の思い出(高8期 近藤礼三さん)
記恩ヶ丘ホームページに掲載されているトーマス・野口氏の文章を読んでいましたら、父の記憶が蘇ってきました。思い出すままに父のことを綴ってみたいと思います。(高8期 近藤礼三)
私が生まれ育った家は、野口氏の実家の野口医院から約100mくらいのところで、同じ町内でした。野口家があった場所は昔の松竹映画館の東側の通りを隔てた場所で、5年程前廃業した小さな映画館が確か野口医院の跡地ではないかと思います。この地域は若松町店街といい、父は一時期、商店街会長を務めており、野口氏と同じ横中OBでもあり野口家のことは父からよく聞いていました。
野口医院の跡地の映画館は「金星劇場」という名前でした。横須賀下町の栄枯盛衰をスケッチした横高OB8期ホームページの投稿欄、No.517、 2012年09月28日付、題名:栄枯盛衰、変わりゆく横須賀中央繁華街に写真に載せていますので参考にご覧ください。
yokohachi.com/yokohachi-hp-1/sub1043.htm
父は、近藤石蔵と言い、横中14期の卒業です。頭がハゲているのが特徴で高8期の多くの仲間の記憶に残っている名物親父でした。私の兄(高4期)、姉(高6期)、そして私(高8期)が横高に通っている時代にPTA会長でしたので、この年代の生徒には有名な存在であったかも知れません。
当時、横高は校庭の狭さから、最初は北久里浜の根岸に第2校庭を新設、続いて校舎裏手の校庭を拡張、さらにプールを新設していた時期でPTA会長として相当な熱の入れようで、横高の先生が絶えず家に訪れて2階で飲んでいました。当時、横高には土川泰光先生という漢文の教師(実家が葉山の寺ゆえに"土川坊主"というのが生徒たちの綽名)がおられまして、私の親父から私の兄弟5人の計6人を教えたことを自慢し、近藤の家はお父さんは優秀だったが次第に出来が悪くなりますね、と教室でぬけぬけと語ったセリフを高6期仲間の中には覚えている者もおり、今も時々云われます。
父は、昭和50年頃まで横須賀警察所の対面で近藤質店を経営していました。父のルーツをお話しますと、祖父が明治の中期、東京深川の木場から当地に来て材木屋を始め、今の市役所前の公園が岸壁であった頃に、そこに船を横付けして材木を積み下ろし材木商を営んでいました。関東大震災の復興などで相当な稼ぎがあったようです。父は男3人兄弟で、全員、横中へ行きました。父は東京商大(今の一ツ橋大学)を経て商社勤務で材木を取り扱っていましたが、材木商売の浮き沈みの激しさが性に合わず、安定した質屋業に転換したそうです。
20数年前の父の死後、実家とその土地を売却しました。実家の跡地は今も平楽の駐車場になったままです。当地の一帯は三笠通りと共に昭和40年代までは、さいか屋を核として横須賀商店街の中心として繁栄していました。しかし、西友が進出して商店街が打撃を受け、さらに汐入にダイエイが出来て追い打ちがかかり、京急快速による居住地域の変遷、その他時代の流れとさいか屋の崩壊とともに、横須賀下町の繁栄は過去の亡霊として消えたようです。
父は、金沢八景の大地主の相川トウベイさんのことを、生前に時々、口にしていました。父が呼び捨てに「トウベイ」と呼んでいましたので、多分、横中の同期ではないかと思います。<私の同郷に相川藤兵衛さんという人がいました。私が小学生くらいの時に六十歳くらいでしたので近藤さんのお父さんの同期のトウベイさんだと思います。実家は代々、味噌や醤油を作っていた地元では有名な旧家でした。昭和56年から昭和58年まで横浜市会の27代議長を務められました。横浜市会議員になられても、ハイヤーなどは使わずに、公共の交通機関を利用して偉ぶることはありませんでした。小学生の私がバスの中で挨拶をしても、ちゃんと挨拶を返してくれるような庶民的な人でした。(高25期 廣瀬)>
最後に、父のために綴った川柳をご紹介します。1991年4月13日に父が81歳で亡くなった時に、私たち兄弟5人が「父の想い出」と題して綴った川柳です。夫々の句は父の性格を良く捉えています。音頭取りの青木喜美は高6期、今年(2018年)4月、82歳で逝去しました。彼女は、この類の資料は沢山持っていたのですが、残念ながら散逸してしまったと思います。
【献歌】青木喜美(高6期)
1.桜花 今一塵の風と共に 去りし君を いたむらん
2.わらい顔 やさしき声のみが なぜか 思い出される ことのかなしさ
【兄弟5人の川柳】
1.前置きが 果てしなく続き 本題はいつも結論出ないまま
2.父と飲み 杯かわすも もう出来ず
3.増える酒 もう一本 もう一本が命取り
4.耳遠く 話はいつも 一方通行
5.長い前置き耐えかねて 口を挟めば 黙り込み
6.話し相手に見放され 母の犠牲が可哀そう
7.地理 歴史 父を凌ぐ ものは出ず
8.思い出に 誰もが認める お人好し
9.石橋を 叩いて 叩いて 遂に渡らず
10.最後の入院 誰もが忘れぬ タッパーウエアー
11.父からの 受け取る手紙の頻度こそ 父の健康のバロメーター 今年に入って めっきり少なし
12.この儘で 死ぬに死ねない 父哀れ
13.近藤に 残る明治は 母一人
14.入院の 二日前の晩飯を 逃げた後悔 生涯忘れぬ
15.近藤の 家長も思い出 残すだけ
16.我妻は 私が親父に 一番似てくると心配し
17.父の趣味こそ進学相談 この十年は煙たがれ
18.口では女を下に見る 父は心で女を敬愛し
19.父母残る家訪れば 帰るおり おかずを買えと小遣いよこす父こそ哀れ
20.年の暮れ お歳暮と豚肉を各家に分ける父こそは 昔の思いを 何時までも忘れず
21.危篤と言われた翌日に 誰もが驚く 持ち直し
22.駄々っ子の ごとくわめいた 一ヶ月
23.天国で 残した仕事を やってるよ
24.あの世のPTA 空から我らを 見張ってね
25.映画見て「きけわだつ、みのこえ」と読んで笑われ 後の解説生涯忘れず
26.駄々親父 母こそ最後の 当たりさき
27.嫁ぐ前 お前をこよなく愛する父と知り 母と求めた大徳利
28.恐慌を 芯から学んだそのために 当世においては 嘆く壮士が先行し
29.病院から 戻る気だけが先行し 遺言 伝達 全く残さず
30.冠婚葬祭 最も嫌った父だけど 11文字の戒名に変り 南無阿弥陀仏
写真1は、1968年11月21日の我が夫婦の結婚式の時の挨拶の写真より抽出。写真2は、横高卒業時のアルバムの最終頁に貼ってあったもので、1955〜1957年の横高卒、一浪、大学入学までの頃の写真で、父と2人だけの多分唯一の写真です。写真3は晩年の父です。
1995年の名簿を見てみると、中14期に相川藤兵衛(物故)としてあります。間違いないですね。
ありがとうございました。相川藤兵衛さんが大先輩だったんですね。
地元の名士ですので、たいへん光栄です。
横高の同窓生には、本当に、いろいろな人がいますね。