▶吉田庫三校長と父のグローブ

父・近藤石蔵(中14期)から聞いた横中に纏わるエピソードを書いてみます。(高8期 近藤礼三)

【その1、父が寄宿舎に入寮した理由】
京急中央駅から横高までは、今はバス利用が常識ですが、当時は勿論バスはなく徒歩が当たり前。我々高8期の頃ですら当時の中川校長は歩けと云うぐらいでした。横高は本来質実剛健が校風ですから珍しいことではありませんでした。父の家は横須賀下町の中心ですから、歩いて通える距離ですが、横中入学と同時に寄宿舎に入寮したのは以下の理由のようです。

横須賀は海軍の城下町、遠洋航海から戻ると、家族を呼び寄せ久々の逢瀬(おうせ)を楽しんだり、あるいはあちらの欲求を満たすのは必然事項です。それらの場所は階級で自ずと決まっており、兵隊クラスは安浦、佐野や浦賀の赤線へ、将校以上はプライド上、旅館や小料理屋を利用するのが常道で、下町には大は小松、魚勝と云った大料亭から旅館や小料理屋が沢山あり、近藤家の周辺は場所的に待合と云われた小料理屋が多く、その環境を堅物の吉田庫三校長が知り、「教育上相応しからぬ、お前は寮に入れ!」と命じたのでしょう。今では考えられませんが、どうもこれが理由のようです。

【その2、横高野球に熱烈な応援】
横高の硬式野球部は昭和30年前後が最も強く、その頃、我が父はPTAに熱を入れており、当時の甲子園大会神奈川予選には、殆ど毎回のように応援に出掛けて真っ赤に日に焼けて戻って来ました。特に横高野球史に残り折々語られる例の試合、我が記憶は不正確ですが、その試合は横高は奇跡的に準々決勝まで進み、強校相手に9回表まで6-0でリード、あわや勝利かと皆が期待したその裏に、7点を入れられ逆転負けした試合がありました。父は、死ぬまで当時の野球部監督の志賀先生を、野球を知らない、志賀のバカ、バカとぼやいており、それほど悔しかったのでしょう。(志賀先生のご遺族には大変失礼ですが)。
父が亡くなって二十数年経ちますが、今でも、時折、語られるエピソードが沢山あり、酒の好きな良い親父でした。

【その3、父のグローブの思い出】
横高創立110周年を迎え、初代吉田庫三校長への礼賛の言葉ばかりが聞かれますが、亡き父の見方は必ずしも礼賛だけではなかったようです。死後20数年を経過した父が、生前に、吉田校長について語ってくれた横中時代の物語を書いてみます。

私の父は明治生まれで、横須賀下町の諏訪小学校を卒業し横須賀中学に入学、即寄宿舎に入りました。父が語ってくれた横中の思い出は数々ありますが、そのなかでも多いのは寄宿舎と野球のことでした。

終戦後アメリカからジャズが伝わり日本の若者が夢中になったと同様、当時アメリカから野球が伝わり、日本の若者がその魅力に取りつかれ、横中にも野球熱が広がっており、他ならぬ我が父も野球熱に侵されつつあったようです。

時の校長は小田原中学校長の任務を果たし、小田原の後、横須賀の片田舎に作られた横須賀中学を天下の横中にするべく力が入っている吉田庫三校長でした。参考:神奈川県立旧制中学の設立順 第1中学校:希望ヶ丘 第2中学校:小田原 第3中学校:厚木 第4中学校:横須賀

吉田校長は何を根拠にしたのかは分かりませんが、野球は不良の遊びである、野球をやるものは即退学との校則を設け、吉田校長の在任中は野球厳禁であったそうです。中学4年の時に、吉田校長が退任後に、リベラルな思想の山岡校長が赴任し、野球がはれて公認となり、即、野球部が作られ父もその一部員となったそうです。<吉田校長は、小田原高校の頃も野球に対しては厳しく対外試合は一切禁止だったそうです。(高25期 廣瀬)>

当時のグローブが我が家に残っており、終戦後の我々が小学校のころ野球に夢中になりながらも満足な用具が無かった時代に、その用具が結構役に立ちました。

父は横中の14期ですが、我々高8期の松井哲三、若原伸安、金塚彰夫の父君、そして、昨今は横須賀もすっかり街替わりし、今はありませんが、平坂途中の加藤医院、上町の関口薬局の創主が、父の同窓仲間でした。

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