▶続・山岳部主催 第2回『山岳映画鑑賞会』のパンフレット
野地 宏さん(高22期)が投稿された1950(昭和25)年10月28日に市民会館で開催された山岳部主催第2回『山岳映画鑑賞会』のパンフレットを拝見しました。叔父様(高5期)が1年生の時のもので、当時のクラブ活動を知る上で大変貴重な資料です。よく保存されていたと感心しています。因みに、第1回は前年の12月1日に『山岳映画祭』として、同じ市民会館で行われています。当時、市民会館はEMクラブ(https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/oldays/em.html)と汐留駅(現、汐入駅)の間にありました。
【山岳部主催 第2回『山岳映画鑑賞会』のパンフレット】
https://kiongaoka.sakura.ne.jp/blog/2019/04/23/sangakubu/
山岳部の活動については、2006年発行の6期生古希記念文集「横六清適」に、岡田兼修さん(高6期)が寄稿されています。戦後、教育の民主化により自治会活動が奨励され、今日に残る多くのクラブが復活や創部を果たしています。当時のクラブ活動が活発化した要因と時代背景、記念文集の岡田兼修さんのエッセイをご紹介したいと思います。(高10期 上田 寛)
1)クラブ活動が活発化した要因と時代背景
●敗戦
1945昭和20)年3月10日、死者が10万人以上となった東京大空襲、8月6日広島、9日長崎に原子爆弾が投下された。8月15日、日本は敗れた。横中生のほとんどは、勤労動員先で天皇陛下の玉音放送(戦争終結の放送)を聞いた。
●民主化を急ぐ
1946(昭和21)年1月、新日本建設の方針と天皇神格化否定の詔書が発令される。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部・司令官ダグラス・マッカーサー)は、日本における第一の目的として、まず軍国主義の排除と教育の民主主義化を急ぎ、生徒の自治会活動が奨励された。3月には、特に教育の面で6・3制を勧告し、教職員適格審査を行った。そして、11月3日、戦争を放棄した日本国憲法が公布され、翌年5月3日に施行された。
●横須賀中学から横須賀高校へ
1947(昭和22)年4月、新学制による小学校、中学校が発足。続いて1948年4月、新制高等学校が発足、6・3・3制の学制ができた。この時の県立旧制中学校は10校、高等女学校は9校、実業学校10校でスタートした。1950年4月、6・3制で育った世に云う「新制っ子」400名が(女子52名を含む)入学し、横高5期生として男女共学がスタートした。
●活発化する自治活動
学校内での生徒の自主活動は、占領軍の主導もあったものの、校内活動をはじめ、運動部の対外試合など他校との交流も含めて活発な様相を示した。全体の学校数が少ないため、すぐに県大会、関東大会に出場した。生徒たちに無い物は食糧で、まだ校庭も裏山も畑であったから、どこからでも運んできて腹を満たしていた。民主主義は、したいことが何でもできるように見えた。
●横須賀高校創立40周年
1948(昭和23)年10月、本校は、創立40周年記念を迎え、生徒の生徒会組織も整い、記念行事も校内に留まらず、音楽会・記念講演・演劇など校外での開催も盛会であり、市民からの反響も大きかった。また、翌年にかけて、運動部・文化部の活躍も目立った。特に、文化部の機関誌の発行は目覚ましく、「横高新聞」の創刊が校内の世論をリードする一面も見られた。
2)記念文集の岡田兼修さんのエッセイ
●山岳部主催『山岳映画会』(6期文集「横六清適」岡田兼修「私のなかの『あの日』から抜粋)
私は晩秋の季節ともなると落ち着かない日々となる。なぜなら、先輩より引き継いだ伝統の「山岳映画会」開催の準備に追われる季節になるからである。当時はテレビも一般家庭には充分に普及していない時代のこと、“山登り''や“冬山スキー"の紹介、普及、PRには映画会が欠かせなかったからである。
映画会は、当時の著名山岳写真家塚本氏を東京銀座の事務所に訪ね、開催目時、謝礼、送迎要領など、先輩からの引き継ぎ事項に従い、打ち合わせ、折衝を重ね開催準備が始まる。開催目が決まると会場の予約、ポスター、チケットの印刷、販売などが待っていた。チケットの販売では、運動部の仲間や山岳部のよき理解者、クラスメイトや6期諸氏を中心に購入の依頼をしては、協力をお願いしたものである。
チケットが予想以上に売れて、税務署から事情聴取を受けた年もあるが、売り上げは謝礼やスタッフの交通費の他、ザイル、ハンマー、テント等の山岳用具購入に健全支出している、との証明で理解願い事なきを得た。
映画会は当時の市民会館(今の文化会館)で開催、塚本氏の挨拶につづき16ミリ映写機による本邦有名山岳の紹介や冬山スキーなど一本30~40分程のフイルム数本をステージ上で、画面を観ながら弁士よろしくの名解説と、スタッフが映写機を操作しながらシーンにマッチしたBGMを、SP盤で巧みにかけ替えながらの楽しい映写であった。
今まで登山や冬山スキーに関心のなかった観客や朋友の満足そうな笑顔や感動が伝わり、何ともいえない達成感と充実感を味わったものであった。そして伝統の学校行事、「記念祭」も終わる頃ともなれば、北海道の大雪山や北アルプスなどから雪の便りも聞かれ、待ちに待ったスキーシーズンの到来となる。
当時、他の高校山岳部ではスキー用具の調達不足から冬山スキー行が遅れていたようだが、横高山岳部は部員の大半が貸し靴、貸しスキーにキャンバス生地で作った自作のリュック、まるで引き揚げ者のようなスタイルで上野駅から雪国へと出発して行ったのであった。したがって、我が横高山岳部の活動は、まだ用具が十分に普及する以前から、物不足を克服してのスキー行きの計画、実行で、当時の先端を歩んでいたのだと自負する次第である。(高6期 岡田兼修)
【参考資料】
・6期生古希記念文集「横六清適」
・百周年誌『百年の風』年表
昔、鷹取山に行った時の写真がありましたのでアップします。(高25期 廣瀬隆夫)
私も横高山岳部のOBです。
私は八期(昭和28年入学、同31年卒業)で同期では三浦利彦、鈴木廣義等がおり、2年先輩の元朋友会会長の元文氏が幅を利かせており、汐入の市民会館で行われた映画祭は、私達も在校時に引継ぎました。
当時の部活は週末の鷹取山がメインで夏休みの丹沢山の沢登や縦走なども盛んで、塔ヶ岳の山小屋は在校中に神奈川県で国体が行われた時に改修され、我らの横高も麓からの資材運びに協力、そして三浦が横高代表として出場しました。
山岳部とは卒業後、すっかりご無沙汰していたところ、今から約20年程前に西丹沢の中川温泉でOB会があり、檜洞丸に登山をした想い出があります。
高校22期の野地です。
廃棄寸前であった資料に 貴重なコメントありがとうございます。 当時はこのような高等学校の倶楽部活動や市民へ公開された映写会等の校外活動が単に学校行事というだけでなく 地域社会の戦後の混乱期からの復興の役務をも担っていたことが良くわかりました。 ありがとうございました。
話は変わりますが、昭和50年頃、たまたま泊まった尾瀬の山の鼻小屋で横高山岳部の人達と同泊したことがありました。
懐かしの山岳部の部室
木造校舎の我が八期の在学時には、通称“馬小屋”と呼ばれた部室群の一画が平屋建ての校舎から集会場へ向かう右手にありました。
終戦までの一時期は恐らく実際に馬小屋として使われていたのでしょうが、我が記憶では入口が約8mで奥行きは15m程度かと思いましたが、中央に2m程の通路を挟み約10室、運動部をメインとした部室がありました。
入口から見て、一番奥の右手に山岳部、左手に水泳部、その手前が相撲部か、その他は忘れましたが、女生徒は勿論、真面目な生徒は近寄り難い一画で、時には授業時間にサボリ青春を謳歌する溜まり場でもありました。
この通称“馬小屋”や毎週生徒全員が床上の座り、各部活の対抗戦の報告を聞いた集会場は入学式と卒業式しか縁の無かった講堂よりも鮮明に我等同期の記憶に残っています。