▶思い出の二人の少年(小川省二先生)
昭和二十三年、当時、私は横須賀高校の野球部の監督をしていました。その頃、県商工(神奈川県立商工高等学校)に練習試合でこちらにきてもらったことがあります。
その商工チームで一際、がっしりとした体格の選手に私が「君、名前は」と聞くと姿勢を正して大沢と言いますと答えました。と、商工の監督が、柄は大きいんですがあいつは、まだ中学三年(旧制)なので今年の大会(全国高等学校野球選手権大会)には出られないんですと笑いながら話してくれました。
試合になって、彼の打球は二打席ともグランドの柵を超えて隣接する住宅の屋根に落ちてゆきました。三打席目に彼は私の所にきて、次ぎは左で打ってもいいですかと言う「いいよ」と言うとピョコンと頭下げ左打席に入り、一振りすると打球は今度も柵を超え遥か彼方に消えていったのです。
練習試合が終り、差し入れのふかし芋が出ると「こいつはうめえー、ありがとうござまーす」と両手に芋を持って誰か大声で叫んでいる。大沢君でした。昭和二十五年、投手で四番打者の大沢君が高二の夏、県商工は念願の甲子園出場を果たしました。
大沢啓二。高校、大学、プロ選手、監督と波乱に富んだ彼の野球人生の中でつぎつぎと起こす破天荒な行動、言動を耳にする度に私は、両手に芋を持って踊っているヤンチャなあの時の顔を思い浮かべるのでした。暮れなずむ校庭を泥のついたユニホームのまま、悠然たるガニ股歩きで校門まで行き、くるりと振り返って深々と一礼して去って行った大沢少年の後ろ姿を今でもはっきりと覚えています。
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昭和二十五年、私は横須賀高校の野球部からすでにバスケットボール部顧問に変わっていました。四月、体育館に集まった新入部員の前でコーチが、今日から一週間、君らの体力、気力の程度を知るために、いろいろなトレーニングをするからと申し渡しをしていました。
当時の男子高校生の頭は殆どが丸刈り、イガ栗頭でした。この新入部員の中で唯一人だけ身長は中ぐらい、やや小太りの長髪の生徒がいました。さまざまなフットワーク、指立て、腹筋運動、短距離走、中距離走、長距離走、どのステージでも長髪君はイガ栗頭達の後塵を拝してビリ穴でした。負けん気で歯を食いしばり、時には泣きそうな顔で頑張っているのですがどうしても一つも二つも遅れをとっていました。
でも、授業が終わって、体育館へ 一番先に現れるのはきまって長髪君でした。そして、ちょっとでも時間があればコートを黙々と走るのです。1日の練習が終わり、コートの床拭きが済んで体育館を最後に出るのも長髪君でした。
入部から1週間が経って、そのミーテングで長髪君が突然、立ち上がると「僕は、慶応高校を受験していました。先日、合格発表があり合格しました。明日が入学式なんです。ですから今日で皆さんとお別れです。滑り止めでここにきていました、済みません。でも、この1週間、皆さんの僕への励ましは決して忘れません。ありがとうございました」と一礼し、私とコーチのところにきて姿勢を正すと「お世話になりました」と丁寧に頭を下げました。実に礼儀正しい、爽やかな態度でした。私が「あっちでもしっかりな」と言うと「はい」、ニッコリと微笑んだ笑顔を今でも鮮明に思い出します。
さて、この長髪君があの石原裕次郎、裕次郎少年であったことを私が知ったのはそれから長い年月が経ってからのことでした。(昭和60年 小川省二)
一時期とは言え、石原裕次郎が、横高生だったとは知りませんでした。
廣瀬さん、遅いですよ。
八期の仲間の殆どは知っていますよ。
さすがに、八期のみなさんですね。他にも、おもしろいエピソードをご存知でしたら紹介してください。
石原裕次郎は、横須賀高校に入学してたら6期生になると思いますが。私は11期の先輩から。石原裕次郎は高校1年まで横須賀高校にいて。2年生になるときに慶応高校に転入したと聞きました。その先輩は、自宅が裕次郎と近かったので。本人から直接聞いたと言ってました。26期山崎正幸
慶應義塾農業高校、今の慶應義塾志木高校に転入されたようですね。生きていたら九十歳近い年齢ですが、直接、本人に聞いてみたかったですね。