▶同窓会研究「小田原高校・校史展示室の見学」
▶神奈川県立小田原高校訪問記2
2年ほど前に、小田原高校(以下小田高)を訪問して神奈川県立小田原高校訪問記を書きましたが、その時は、校史展示室がお休みで見学できませんでした。今回、小田高の同窓会の方と意見交換会がありましたので、それが終わってから、念願の展示室を見学させていただくことができました。ちょうど数日前に、校史展示室と教材展示室、図書展示室が複合施設として「中等教育史料館」としてリニューアルオープンしたばかりでキレイな展示室を見学させていただきました。小田原高校から委託されて、この施設を管理している同窓会の史料委員会委員長の仮野さんに展示物の説明をしていただきました。横高の校史資料室も、貴重な資料がたくさんありますので小田高を参考にさせていただき整備したらどうかと思いました。(2020年9月13日 高25期 廣瀬隆夫)
校史展示室は、小田高の歴史が俯瞰できるように、時系列で展示されていました。小田高の歴史は、1822(文政5)年に小田原藩主の大久保忠真が小田原城の三の丸に藩校の集成館を創設したところから始まります。その後、小田原講習所中学科を経て1901(明治34)年に神奈川県第二中学校として開校しました。
初代校長は、ご存知の吉田庫三校長です。その後、吉田庫三校長は、1904年11月に和歌山県視学官に転じ、引き続き奈良県に勤務されました。小田高の校長時代は3年10ヶ月と思ったより短かったのですね。そして、1908(明治41)年に神奈川県立第四中学校(現在の横須賀高校)に校長として着任されたことはご承知のとおりです。
小田高の校章は、樫の葉をデザインしたものです。なぜ樫の葉かというと、小田高は、元々は小田原の中心部にありましたが、小田原駅ができるため1919(大正3)年に、ここ八幡山に移転してきたのです。そこには大きな樫の木がたくさん生えていたそうです。今は伐採されていますが、昭和30年くらいまでは校舎の北側に樫林があったとお聞きしました。校舎の裏に鬱蒼と生える樫林が写った写真が展示してありました。
樫の木はドングリの仲間で、防風林としての機能もあり、腐りにくくて非常に硬いのでスコップや鍬の柄などに使われる利用価値の多い樹木です。戦国時代に城を守るために人工的に植えられたのかもしれませんね。展示室を出たところに、大きなクスの木の切り株が展示してありました。ざっと数えましたが、200年は超えている大木でした。小田高の近くには大きなクスの木が何本も残っていました。小田高は、樹木に囲まれた自然豊かな環境の中にあります。
八幡山というのは、1540(天文9)年に北条早雲の嫡子の北条氏綱(うじつな)が、鎌倉北条が滅んで衰退した鎌倉鶴岡八幡宮を再建した時に、その分霊をお祀りするために、小田原の地に八幡宮を建てたことに由来しているそうです。480年も前の話です。八幡宮は、今の小田高の東側に建っていたそうです。この八幡山が、私が良くお参りする鎌倉の八幡様と関係しているとは知りませんでした。横高にも記恩ヶ丘の近くに海を守る淡島神社という神社の祠があったことが分かっていますが、昔の県立高校は、このような由緒がある場所に建てられたのでしょうね。ちなみに小田高同窓会の会報の名前は「八幡山」です。
関東大震災で被害を受けた校舎の写真や、学徒動員、進軍ラッパの展示物などもありました。展示の中に渋谷寿光さんの企画展がありました。寿光さんは、県立二中(現小田原高校)から、東京高等師範学校(現筑波大)に行かれた方で、日本の陸上界にたいへん貢献された方です。箱根駅伝の創設にもご尽力された方で、東京から箱根まで自ら歩いて距離を測りコースを設計したというお話をお聞きしました。
小説家の川崎長太郎の始末書の展示も面白かったです。「ねじ式」などの作品で知られる漫画家のつげ義春が川崎長太郎の私小説を愛読していたことは有名ですが、川崎長太郎が小田原中学を退学させられた理由は長い間、封印されていたそうです。それが、今回、川崎長太郎の始末書を公開して退学の理由が明らかになったという話をお聞きしました。当時の足柄下郡の図書館にあった文芸百科全書の十七ページから四十六ページを破ったことが理由だと分かったそうです。30ページも破るとは大胆ですが、それだけで退学させられたのは少し可愛そうだったような気がします。
教材展示室には、貴重な昔の実験器具や動物の剥製、鉱物標本などが展示されていました。藩校らしく、昔の武将の甲冑の展示などもありました。図書展示室には、和綴の貴重な書籍や小田中時代の教科書、洋書の書籍棚、小田高出身の作家の書籍などの展示もありました。芥川賞作家の尾崎一雄の展示物もありました。
展示物の中に江戸時代初期(1592(文禄)年〜1652(慶安)年)の古活字本がありました。グーテンベルグが初めて活字本を出版したのが1439年ですから、それから100年後くらいに日本でも、こんなにキレイな活字が使われていたということは驚きでした。江戸時代は、版木を使った製版が主流でしたが、藩校の教科書など発行部数が少ない書物は、木の活字が使われたようです。
また、小田原らしく、二宮尊徳に関する書物もたくさんありました。吉田庫三校長は、自分の家柄や吉田松陰のことよりも、郷土の偉人の二宮尊徳の言行を教訓とすべきと力説していたそうですね。小田高の校訓の一つの至誠無息(真心を持って誠実に生涯を貫くこと)は、二宮尊徳の影響を受けたものかもしれませんね。
小田高の中等教育史料館は校史ガイド付きで見学することができます(予約が必要です⇒0465ー20ー3281)。横高の校史を担当している人たちや、歴史好きの人たちにも、ぜひ、見ていただきたいと思います。【校史展示室のご案内】
図書館の隣には、立派な弓道場がありました。横高にもありますが、キレイに整備されていました。帰りは、百段坂を歩いて帰りました。数えると120段以上あるようですが、下るだけでも大変なのに良く数えたなと思いました。百段坂を降りると小田原市立城山中学校がありました。ここの中学から小田高に進学する生徒が多く、生徒たちは百段坂の上の小田高を目指して勉強をしているというお話を聞きました。小田原駅につきましたら3時近くになってしまいました。それから軽い昼食をとり、アジの開きをお土産に買って帰りました。脂がのっていて美味かったです。電車の事故があったので時間を取られてしまいましたが、たいへん有意義な一日でした。小田高のみなさん、ありがとうございました。
【参考 小田高ヒストリー】
https://odako.org/history/history_odako_00
▶小田原高校同窓会「樫友会」と横須賀高校同窓有志の会「記恩ヶ丘の会」との意見交換会
https://kiongaoka.sakura.ne.jp/blog/2020/09/18/odako/
▶神奈川県立小田原高校訪問記
https://kiongaoka.sakura.ne.jp/blog/2018/10/23/odakou/