▶伊能忠敬が歩いた金沢八景

毎日新聞に「伊能忠敬を歩く」という連載があります。36回目は、「金沢八景 松並木の海岸線 今は昔」と題して六浦や野島の話が出ていました。(高25期 廣瀬隆夫)
【毎日新聞連載 伊能忠敬を歩く 36 金沢八景 松並木の海岸線 今は昔】
https://mainichi.jp/ch180515653i/没後200年・伊能忠敬を歩く
https://kiongaoka.sakura.ne.jp/blog/wp-content/uploads/2021/10/伊能忠敬の記事.pdf


伊能忠敬は、千葉の九十九里の生まれ(1745(延享2)年) で、55歳から日本全国を測量を行い、17年かけて『大日本沿海輿地全図』を完成させました。今は、人生100年と言われていますが、当時は人生50年の時代ですから大変な人だったんですね。彼は、「測量日記」というものを付けており、まさに足跡を残しています。200年以上前に伊能忠敬がこの辺りを歩き回っていたのかと思うとロマンを感じます。
【伊能忠敬の測量日記】
https://www.inopedia.tokyo/database/diary/
【伊能忠敬の生涯】
http://www.sawara.com/tadataka/syougai.htm

その日記の中に、金沢区の町屋村を早朝に出発し、村役人の案内で野島や六浦を通り浦郷村に泊まり、そのとき、「一覧亭」または「四方亭」という場所に上って測量し昼食をとったという記述があるそうです。金沢八景には、金龍院の裏山に「九覧亭」という見晴らし台が残っています。ここから、金沢八景の八つの名所と富士山を合わせて九つの景色を見ることができたそうです。

「一覧亭」は、金沢八景を一望できる場所だったそうです。大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)には、確かに「一覧亭」の名前があり、洲崎の対岸のように描かれていますが、野島や夏島、烏帽子(えぼし)岩の位置関係や海岸線の変化を考慮すると室の木のあたりと考えられるようです。

横浜金沢観光協会のホームページによりますと、室の木の辺りは、江戸時代には眺めの良い場所として「四望亭」と呼ばれる所が近くにあったと書かれています。この「四望亭」が、忠敬が日記に書いている「一覧亭」または「四方亭」ではないかと推測できるのです。
【横浜金沢観光協会のホームページ ジープ山】
https://yokohama-kanazawakanko.com/course/course_list/course006/

横浜金沢みてあるきのホームページ(http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/)には、四望亭眺望圖 (新編武蔵風土記稿)という絵が出ています。この手前のこんもりした山には人が描かれており、ここからであれば、金沢八景が一望できたのではないかと思います。
【横浜金沢みてあるきのホームページ 四望亭】
http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/muronokian.html

「四望亭」だけでなく、野島の近くは、戦時中、山々は崩され、海は埋め立てられてしまいました。烏帽子岩の海軍航空隊の飛行場建設のため切り崩されてしまいました。野島にも、飛行機を格納するための大きな横穴が掘られています。「四望亭」があった室の木の辺りは、ジープ山と呼ばれており、戦後、進駐軍の兵隊がジープを乗り回していたところからこう呼ばれるようになったそうです。

戦争がなかったら、金沢八景の美しい景色が残っていたのかと思うと残念でなりません。金沢、横須賀には、人類の負の遺産である戦争遺跡がたくさん残されています。二度と戦争などという愚行を繰り返してはならないと思います。

    ▶伊能忠敬が歩いた金沢八景” に対して3件のコメントがあります。

    1. 測量日記および伊能大図にある「一覧亭」の謎が解けました。
      享和元年四月十日(1801.05.22)の解読文です
       五ッ頃町屋村出立(6時半頃)。村役人案内、洲崎村持の野島より測量、右役人も案内、泥亀新田(野田文蔵御代官所)、それより瀬戸明神(則、三崎明神神領百石)、六浦(平分村、社家分村、寺分村三分という)。惣名主北川武左衛門案内、家作もよし。神領の役人も案内、六浦の内三艘を通り同室木へ出、一覧亭(一に四方亭という)上り測量し室木にて昼食をなし、浦郷村に至り(此所、松平大和守陣屋あり)、同村持鉞(ナタ)切、深浦、榎戸、日向、四ヶ所を測、立帰て浦郷村に止宿。陣屋付村々の役人宿、市左衛門という甚悪き宿なり。此所より相模国三浦郡なり。

    2. 廣瀬隆夫 より:

      記事を書きました廣瀬と申します。詳しい解説文をご紹介いただき、ありがとうございました。町屋を6時半に出て、室の木で昼を食べたということは、かなり、いろいろなところを歩いたということですね。普通に歩いたら1時間もかからないと思います。私は、寺分村の大道という所に住んでいますが、ここにも足を運んだ可能性もありますね。ロマンが膨らみますね。この解説文を記事で引用させていただいてもよろしいでしょうか?

    3. 令和の伊能大図をつくる会 横溝 より:

      室木集落から一覧亭に登り、冨士山などを測量し、下って昼食していますね。
      酉3分(換算値、271.5度)の方位値です(山島方位記 第1巻)。冨士山が見えたのですね。
      冨士山以外のデータは不明。伊能忠敬記念館の下図には記載があるかも知れません。
      注)忠敬さんは例外なく「冨士山」と表記しています。

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