▶吉田庫三校長没後100年記念校史資料展示説明会の報告

■ 聴講報告:高22期 高橋揚一
■ 日時:2022年10月29日(土)午前10時開催
■ 場所:横須賀高校 記恩館にて講演後、校史資料室に移動して説明
■ 講師:高10期 上田寛氏
■ 参加者:10名程度(OBOG、教員9名程度と高77期 在学生徒会長1名)

■ 講演概要
横高の前身の神奈川県立第四中学校は1908(明治41)年開校で今年は114年目にあたります。横須賀市が発足した1907(明治40)年の1年前、三浦郡立の中学校構想が予算化されたことが契機となって開校に至りました。開校の最終決定に際して県では、終了期限の深夜0時を過ぎても時計を止めて討議を重ねたという逸話が残っています。対立候補の現神奈川県立湘南高校とは僅差だったようですが、神奈川県立第四中学校は横須賀に置かれることになりました。軍の施設が多くあった横須賀で、その子弟を教育することが当初の目的でした。

吉田庫三校長は、本校に赴任する前は小田原にあった元藩校の神奈川県立第二中学校(現神奈川県立小田原高校)に勤務していました。横須賀に赴任した最初の印象は「三浦半島の子どもは風儀が悪い」とのことで、これを正す厳しい教育が実践されました。本校赴任以前から教育には厳しかったようで、95名ほどの入学生のうち卒業できたのは半数程度だったようです。

横須賀の下町から学校までの道のりには歓楽街があったため「寄宿舎」を創設して学生の風儀を正す教育を続けました。「生徒心得」を記して自らも「修身」を担当して教壇に立ちました。校長以下、先生方も学生服を着用して服装の乱れを防いでいます。父母からは学生と先生方の見分けがつかないと指摘されて先生方は髭を生やすように指導していたようです。私生活は羽織袴ではなく袴のみの着用で良かったのですが、公の場では先生も生徒も学生服に学帽が基本でした。銭湯のすぐ近くに自宅のあった学生には、近くに行く時でも袴は着用しなさいと指示していたそうです。自転車や野球や万年筆の使用も禁止でした。その反動で2代目校長は自転車や野球や万年筆の使用を許可しています。

吉田庫三校長について以上のほか、吉田松蔭の妹の千代の子息で吉田松蔭の甥にあたることや、吉田庫三校長の葬儀は霊柩車のない時代で、不入斗の斎場まで遺体は担がれて運ばれ、学校講堂からの長い行列が続いたことなども解説いただきました。

また、上田寛氏の高10期までは木造校舎のみで、高11期から徐々に新校舎へと移行していったことや、元理科標本室にあった校史資料室が昨年の校舎耐震工事終了後C棟2階で見学可能となり、現在の横高新入生は4月のオリエンテーション期間にクラスごとに担任の案内で15分程度見学することになっていることなど、多くの興味深い情報を伺えました。高10期上田寛先輩には貴重なお話を有難うございました。

講演終了後、横高の構内や周辺をうろついて懐かしい場所の写真を撮ってきました。

    ▶吉田庫三校長没後100年記念校史資料展示説明会の報告” に対して2件のコメントがあります。

    1. 上田 寛 より:

      お忙しい中、ご参加いただき有り難うございました。
      吉田校長時代の14年間は、自ら作った「生徒心得」で、勉学と精神生活を厳格に律していました。厳しい中にも「愛」があったようで、退学、退校させられた生徒たちが、20年後「曹源寺会」という第二同窓会を作り、当時を懐かしんだと言われています。
      10期生は、昔の瀟洒な木造校舎で3年間学んだ最後の生徒です。
      創立50周年の昭和33年9月から、本館(A棟)の工事が始まり、逐次コンクリート校舎に改築されていきます。
      拙い説明をお聞き頂き、有り難うございました。

      1. 高22期高橋揚一 より:

        厳しい中にも「愛」があって、退学、退校させられた生徒たちが第二同窓会を作られたとの補足を有難うございます。
        聞き漏らした情報も多かったかも知れません。
        拙いまとめで失礼しました。
        帰路に懐かしいところを巡ることもできて充実した1日となりました。

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です