▶ぶらり散歩「懐かしの田浦」
■ 散歩の経路:田浦山盛福寺 → 市立田浦保育園跡 → 旧浦賀道 → のの字坂 → 田浦港(5月14日 高22期 高橋揚一)
昨年12月に他界した母親の母の日墓参帰りに、懐かしい田浦町内を散策。菩提寺の田浦山盛福寺からスタート。今は改築されたが、山門入口の門扉は鍛冶屋をしていた祖父が依頼されて戦前に制作したものだった。当家はその縁で檀家になった。山門脇には六地蔵と46体の石仏群が並んでいる。
近くに京浜急行と横須賀線がほぼ直角に立体交差する地点がある。ここに駅があればとても便利なのに過疎化した田浦町にはスーパーもコンビニもない。
途中腹ごしらえにと覗いた「隅田川本店(旧志んどう)」は大正12年の創業。うな重は並でも2,600円だったので素通り。国道16号線の上を通る横須賀線の高架近くにあった母校横須賀市立田浦保育園は跡形もなく現在は長浦町に移転。
国道16号線沿いに上り田浦郵便局の角を左折すると横須賀線の踏切手前に田浦神明社。盆踊りや夏祭りで賑わった。以前近くに納豆工場があって大豆を茹でた香りが漂っていた。田浦郵便局向かいの基督教社会館。小学校一年生一学期までは脇の路地裏に住んでいたが当時の家は今はない。
谷戸に向かって進んで右に入ってすぐの「梅林食堂」は創業約50年。横須賀名物サンマーメンは580円。この近くに京浜急行の駅の新設計画があったようだが地元民の反対で廃案となったらしい。
梅林方面に進んで西林山長善寺の先の路地を入ると急な坂になり途中から狭い階段となる。旧浦賀道の大田坂(おったさか)を登り切ると月見台。右に進むと十三峠や安針塚山に至る。保育園では時折ハイキングの日があり、ここまで何度か来た懐かしい場所。当時はおとぎの国のような深い森の中で林のトンネルや狼の家だと勝手に思っていた一軒家があっただけ。
月見台から下るとすぐに「のの字坂」。昔は小豆をこし餡にして売る店が一軒あった以外何もなかったが今は斜面一面住宅街。
のの字坂を進むと右手に「ながかまトンネル」。ここ田浦町1丁目は古くは失鎌(しっかま)と呼ばれ、鎌が壊れてしまうほど雑草の繁茂する地だったとか。「ながかま」は隣町長浦と失鎌という意味。上り下り別の国道16号線を越えるとJR田浦駅。
横須賀側に並ぶ3本のトンネルは「七釜トンネル」。七釜(しっかま)は失鎌の別表記。左から昭和、明治、大正の築造で日本遺産の構成文化財に認定されている。昭和のトンネルのみ複線で田浦港への貨物引込線用だったが今は使われていない。
以前はこのトンネルを抜けると田浦駅常備のタンク車が連結されて港に向かうカーブに停車する光景が見られた。
田浦駅港口にあった貨物線ヤードは全廃されてマンションの敷地になっている。一部残った線路の真ん中に架線柱が立っていた。港口を出ると相模運輸倉庫や横須賀海上保安部の建物などが並ぶ田浦港。父親の漕ぐ自転車に乗って頻繁に訪れた懐かしい場所。引込線の線路が所々に残る。
当時は手動の転轍機が触れる状態で放置されていて吾妻橋を渡った先には線路が直角に平面交差する地点が2ヶ所あり鉄道マニアには垂涎の聖地だった。鍛冶屋の祖父が線路敷設の一部を請け負って作業の途中で軌間を間違えたことに気づいてやり直したという逸話が当家に伝わっている。
小学校一年生一学期に描いた引込線の風景が「さいか屋」に展示されて鉄道好きの自覚と絵が得意という思い込みが身についてしまい偏った人生を歩む契機となってしまった。
いっきに拝見しました。幼い時の懐かしい思い出の地を巡る。写真、文章ともにすばらしい。
行ってみたくなりました。横須賀には組曲「横須賀」(栗原一登作詞、團伊玖磨作曲)に出てくる「谷戸」が沢山あり、歩いてみると味わいがありますね。
コメント有難うございます。
5月14日は雨模様でしたので天気の良かった5月10日に行ってきました。
田浦町は京浜急行から見放されているのか昭和30年代の活気が遠のき高齢化と過疎化が進んでいます。
それだけに懐かしい風景への想いがつのります。
駅の新設計画に反対しなければ良かったのにと梅林食堂経営の老夫婦が嘆いていました。