▶押し葉で作った『腊葉(さくよう)標本』と横中・横高生物部
NHK連続テレビ小説「らんまん」で、すっかりお馴染みとなった押し葉標本ですが、横須賀中学では1年生の夏休み課題『中等博物』で、昆虫採集や植物採集が課せられていました。生徒の作品を見ると、腊葉標本(押し葉標本の正式名)は、戦時中を除き横中2期生から横高5期生の頃まで作られています。(上田 寛 高10期・元生物部)
■ 腊葉標本と横高生物部
横高生物部の創設者は、久里浜に新設された市博物館の柴田敏隆氏(初代学芸員・ナチュラリスト)と河原孝忠氏(国立遺伝研)で、共に横中36期卒業生です。
財団法人「育てる会」機関誌に載る柴田氏の「腊葉標本」から、当時の様子を紹介します。
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昭和20年8月。戦争が終わり、我々も学徒動員先の海軍工廠で軍艦作りに専念させられていたが、解除され母校に戻つた。先生方は自失してほとんど呆然状態であつたが、「我々はこれから好きな事が出来る時代がきた」といって、生き物大好きの河原君と、課外活動に生物部を作り、生物教室に隣接する準備室にある膨大な量の標本や文献類の整理を始めた。担当の先生は歓迎こそすれ、私たちの自由に任せて下さったので、夕方暗くなるまで下級生の部員と、わいわいしながら整理と学習に励んだ。その過程で、見事な出来映えの植物の腊葉標本が見つかり、これを分類し標本用の引き出しに収めた。私が今日携わる仕事の原点は、生命尊重にあるが、この腊葉標本は、それを触発させた要素の忘れ得ぬ一コマである。
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※注 木造校舎時代の生物準備室(現在の記恩館前あたり)は、後に理科標本室としてC棟に移り、創立100周年時、校史資料室として改修されています。
■ 腊葉標本と校史資料室
2007年、暮れも押し詰まったある日、市博物館から後に館長となられる林公義(高17期)学芸員をリーダーに、植物と海洋生物担当の2人の学芸員が校長室に集まった。三浦秀文校長(高19期)から校史資料室の開設するにあたり、標本の評価と今後の対応について意見を求められていた。同時に、生物部OBにも学校や100周年実行委員会から要請がきていた。
横高標本室の特徴は、教材として購入した標準標本を中心に、生徒や生物部員が作った植物標本、諸先輩が寄贈した標本等に分類される。在学当時、それらの中に南方系の剥製が数点あったのを見て、「軍とのつながりが深かった横中の歴史でもある」と解説してくれた先輩がいた。事実、標本台の裏には墨跡があり、それを物語っていた。今では教材として利用されなくなった標本類も、当時は生物の授業をはじめ、部活動や文化祭等で大活躍をしていた。
膨大な量の標本類は、3人の学芸員の指導のもと学校教職員、部活生徒、OB達によって多くはセミナーホールに運び込まれた。中でも数千枚におよぶ腊葉標本は、害虫や保存環境による劣化が激しく、標本室隣の教室へ移動し一枚ずつクリーニングを行うこととなった。生物部OBでもある林公義学芸員、石渡裕之氏(高7期)、中島公雄氏(高11期)、上田 寛(高10期)は、50年ぶりに対面する剥製や腊葉標本に興奮を覚えていた。
■ 幻の腊葉標本を探そう!
柴田氏の文章にある「南方洋上で艦もろとも撃沈された先輩、若命宗雄(中28期)海軍少尉が横中1年の時に採集・作成した腊葉標本」を探そうとしていた。限られた時間内で膨大な標本や文献の中から幻の腊葉標本を見つけ出すことは出来なかったが、標本引き出しの中からは横中2期生の岡本傳之助氏や横高5期生の島田章三氏の標本が見つかった。他にも中学生の作成した腊葉標本としては採集データがしっかりしたものが多数あり、経年変化はあるものの三浦半島の植生や、今では絶えてしまった植物なども分かり大変興味深い。
標本のクリーニングは、前記の3人に生物部顧問の故・金田平先生の奥様英子(高10期)さんも加わり、ほこりの中での作業は一週間近くにわたった。市博物館への寄贈申請書に約1900枚と記載した。
■ 市博物館で甦る腊葉標本
市博物館への搬入にあたり、段ボールごと直接館内に持ち込むことは禁止された。何故なら、標本につく害虫や卵を駆除するため、1箱ずつ冷凍庫に3~4日間入れるという。正直、保存状態が良かったとはいえない標本だが、「採集年月日、場所、採集者など、標本として必要な情報が記入され、三浦半島の植生が分かる素晴らしいもの」と評価され、標本保存ボランティアの手により修復されることとなった。破損した台紙や折れた植物等は、別の標本台紙をあてがい、紙帯などで補強し腊葉標本として甦らせるという。
■ 大谷茂学芸員は横高教諭だった?
市博物館・初代植物担当大谷茂学芸員の経歴の中に、1951(昭26)年、神奈川県立横須賀高等学校教諭とあることから、以前、石渡さんが「横高の標本は牧野先生のご指導があったのではないか」と推察されています。ただ、石渡さんも言われているように、どの名簿にも在籍された記録がないので、結論としては分からないのです。
以下は、私の推測です。どなたかご存じでしたら教えて下さい。
・1951(昭26)年は、金田平先生が新卒で着任されています。80周年記念誌の中で、「当時の生物科には粕谷英治先生と谷口森俊先生がおられた」と記されています。物理科には他の先生もおられますが、大谷茂先生のお名前が見当たらないのです。
・1951(昭26)年横高教諭の前は、大津高校の教員や不入斗中学校の校長等を歴任されています。大谷先生は多くの学校教育に携わっておられますが、横高は1年間の在任で、翌年、逗子中学校の校長になられています。
・全くの推測ですが、非常勤講師か臨時教員、講演会の講師、生徒研究発表へのゲスト等、何らかの関わりがあったと考えられないでしょうか。
【腊葉標本とクリーニング作業写真】
※注 珍しい植物名の由来は、植物図鑑で調べたものです。
1.岡本傳之助
①「くさよし」明治43.6.9 公郷町で採取
※注 和名は草葦(アシに似ているが、より草っぽいことから)
2.島田章三
①「いぬがんそく」昭和25年
※注 シダ植物(胞子葉がガンの足に似ていることから)
②「へらしだ」昭和25年 三浦半島
※注 シダ植物(単葉の葉をヘラに見立てたことから)
③「おおいたち」昭和25年
※注 大型のイタチシダの意 植物図鑑によると牧野富太郎博士は、葉柄に黒褐色の鱗片が密生するからであろうと推測されています。
④「ひめわらび」昭和25年
※注 ヒメシダ科のシダ植物
⑤「やぶそだ」昭和25年
※注 オシダ科 アツバオニヤブソテツ(厚葉鬼藪蘇鉄)ではと推測。
3.腊葉標本のクリーニング作業
[引用・参考資料]
・財団法人「育てる会」機関誌『育てる467号』 2007(平成19)年
・80周年記念誌、100周年記念誌『百年の風』 2009(平成21)年
・『金田平先生を偲ぶ会』生物部同窓会 2007(平成19)年
貴重な資料だったのですね。
詳しいお話をありがとうございました。ちょっと感動しました。
横中時代は、理科教育にも力を入れていたようですね。
柴田敏隆氏は「軍都横須賀にありながら、太平洋戦争勃発まで、極めて自由であり、英語の教師は英国人を起用していたリベラルな中学校であった」と述懐されています。