▶不沈戦艦武蔵(高22期 松原 隆文)
https://gunkanmusashikai.org/musashi_history.html(軍艦武蔵会ホームページ)
数十年仕事をしていると、稀にではあるが長く記憶に留まる案件に出会う。もう二十年以上前のことだ。ある自治会の会長が、登記手続きの依頼に来た。内容は「土地を寄付して貰うので、その手続きをして貰いたい。尚、所有者たる地主は、この件を了解している。書類等の授受に行って貰いたい。」ということであった。
数日して、指定された場所へ行った。ビルの奥の一室の広いスペースに案内され、品の良い老婦人が出迎えたくれた。この方が寄付者である。早速名刺を差し出し、自己紹介をした。広い部屋のソファーの上の壁に、畳大の大きな写真が飾ってあった。見るともなく目にすると、巨大な軍艦の写真であった。甲板に天幕が張ってあり、記念写真であろうか、正装した多数の軍人が威儀を正して、写っていた。私はすぐこの軍艦が分かった。「〇〇様、武蔵ですね。」と言った。老婦人は大いに驚き、「よく分かりますね。知っている人でも大概、『大和』、と言いますよ」と仰った。
大和型戦艦の一番艦が大和で、二番艦が武蔵である。見ても区別はつかないが、当時の連合艦隊の旗艦は武蔵であった。また、旗艦は艦上で行事(これは妥当な言葉ではないかもしれないが許されたい)などを行う為に天幕を張るので、私は、これが武蔵だと分かったのである。撮影の場所まで当てた。「トラックですか?」と。先の大戦における連合艦隊の基地はトラック島であった(停泊地の景色から内地でないことは容易に想像された)。老婦人は更に驚いていた。
それから、老婦人の話が始まった。ご主人が海軍士官で武蔵に乗っていた。結婚したばかりで、横須賀港に武蔵が停泊しているとき、妻を武蔵の近くまで案内して、「『見ろ、この武蔵を。不沈艦だ。絶対沈まないから、安心しなさい。』と言われた。この巨艦を見て、夫の言葉にうなずき、安心していた」と仰った。 しかし、武蔵は沈んでしまった。 運良く助かったご主人は、「一度なくした命だから」と、この商店街(実は横高に近い)の建設に心血を注いだ、ということであった。
その後10年以上もあとのことである。新聞紙上で戦艦武蔵の発見記事が記載され、話題になったことは覚えている人も多いのではないか。いずれにしても、戦中・戦後の激動の時代を生き抜いた人達は、偉いですね。この写真は、二人の輝かしい青春の思い出なのでしょう。
さすが「ディレッタント」の面目躍如、雑学は身を助けますね。三番艦の「信濃」は空母に改装されたんですよね。ホントかウソか確かめていませんが、亡父から俺は「信濃」の生き残りだと聞いたことがあります。
最近読んだ「総員起こし」(吉村昭)にトラック島が出てきます。「伊号第三十三潜水艦」が二度沈んだ話です。これと、同じ吉村の「深海の使者」を海上自衛隊で潜水艦に乗っていた友人に紹介したら、普段は読書などしない彼が貪るように読んでいました。
実は大和型戦艦は6隻建造する予定だったそうですね。
神奈川新聞で、伊東潤という作家が大和建造の小説を書き始めていて、これ実証が優れていて毎日読むのが楽しいんですよ。当時の日本の造艦技術の全てが詰まっているんですね。
その技術は戦後の巨大タンカーなどの建造に役だったのでしょうか。私は知るよしもありません。
「信濃」の生き残りの人と20年以上前に一緒に民生委員をしていました。同じ部会で仕事をし、私の上司のような存在でとてもも温厚な方でした。その当時は「信濃」の乗船員だったことは知りませんでしたが、数年前NHKが「信濃」についてのドキュメントを放映して彼が生き残りの船員達の同窓会のまとめ役をしていたことを知りました。その番組の中で撃沈の模様を話しておられ大層苦労されたこと、思わず涙し彼の温厚さの原点を見た思いがしました。
再コメント。
我々にはなじみの横須賀の書店信濃屋さんは、空母信濃にあやかって店の名前を付けた、と誰かから聞いたことがありますが、真偽の程は分かりません。