▶横須賀らしい「昭和な写真」(高22期 高橋 克己)
私が1951(昭和26)年7月に母の腹から産まれ出たのはヨゼフ病院だったそうだ。近所(金沢八景)の3つ上の友人にその話をしたら、「僕は産婆を呼んで家で生まれたよ、高橋さんとこは進んでたね」と言う。
疾うに時効だが、汐入町の母の実家で両親と兄と妹とで暮らしていた母は、17歳で海軍に入った下宿人の父と昭和23年に、今でいう「出来ちゃった結婚」したのだから、確かに「進んでいた」。4年前に必要があって取り寄せた戸籍謄本を見たら、入籍が姉の生まれる2ヵ月前だったのだ。
終戦になっても下宿先に居座った父は、虚弱な粋人だった母の父と兄に代わって、家の力仕事を一身に担う存在になっていた。年頃の男女が一つ屋根の下で暮らせば、他の家族がいようがいまいがそうなるのが必然、思わず頬が緩んだ。祖母が後妻だったことも判り、やはり「進んでいた」かも知れぬ。
斯くて家族4人は母の実家で、総勢8人で暮らしたのだが、そこは谷戸の階段を100段近く登った山の上だった。母によれば、大空襲で赤く染まった東京の空が夕焼けの様だったそうだ。門の前に防空壕があり、夏にはスイカやビールが冷やしてあった。
生後半年の私が米兵に抱かれている。右は58歳ですでに隠居の祖父、後は左から母(25歳)、祖母(48歳)、父(25歳)。ベース勤めの父は家にしばしば米兵を連れて来た。時あたかも朝鮮戦争の最中、ハーシーのチョコや500cc牛乳パックのような四角い箱に入ったアイスクリームが手土産だったそうだ。
近所には後に「団塊の世代」と呼ばれることになる子供たちがウヨウヨいた(S22年生=269万人)。後列真ん中が3つ上の私の姉、中列左の3輪車と右から2人目は双子(S21年生)、三輪車の右とその後ろ、そして姉の前と前列左の私の横は兄弟(両方S21年生と23年生)だ。
陽当たりの良い道端で撮った写真。後列の一番背の高い子だけ誰だか記憶がないが、それ以外は名前や住まいもすべて判る。私は前列右端、隣は一つ上(次の写真の左端兄弟の3番目)、その隣は3輪車、左側の立っている子と座っている子は姉の同級生、後列右の二人は姉妹だ。
これは実家の裏で撮った兄弟姉妹4組の一枚。左の二人(S21年生と23年生)と真ん中二人(21年生と23年生)はそれぞれ兄弟、左から3人目と右から2人目が姉妹(21年生と25年生)、一番右が私の姉で一人置いて私。姉妹は早くに他所に引っ越した。兄弟二組の4人は鬼籍に入っている
子供たちの格好から判るように、終戦から数年しか経っていないこともあり、どこの家庭も貧しかった。日本中そうだった。近所の親たちの中には戦後、職を求めて地方から横須賀に流れて来た者も少なくなかった。上野のガード下の靴磨き仲間だったという夫婦もいた。
が、この写真に登場する親たちの世代は、敗戦からの復興・立て直しに懸命に腐心した。子供らの屈託がない表情は、そうした親たちへの信頼のせいだったのではなかろうか。いま子や孫を持つ歳になり、果たして自分はどうだったか、と「昭和な写真」を前に改めてそう思う。
最後の一枚。母の膝の私は「兄弟姉妹4組」の写真と同じ服装だから、きっとその日の撮影だ。卓上には見開かれたカタログらしき外国雑誌、そして洋モクと舶来カメラが置いてある。横須賀らしい「昭和な写真」の最後の二枚は、米兵がこのカメラで撮ったに違いない。(おわり)
確かにあの頃は近所の子供達で毎日泥だらけになりながら遊んでいましたね。しかも兄弟を連れて、ガキ大将というリーダーに守られて近所の原っぱでおふくろが呼びに来るまで遊びほうけていましたね。克己さんとは2年しか違わないけどまったく同じ風景でした。ただ一点違いは、写真が沢山残っていることですね。家族のそれは少ないですが、ありますが、近所の子供達のそれは無いです、当時我が家にはカメラはありませんでした。カメラだけでなくテレビも車もありませんでしたね!
「昭和な写真」ということでひらきました。まさにそうですね!私は兄、姉、私の3人兄弟で、父は子供をとてもかわいがる人で、よく三笠公園や夏は猿島のバンガローでキャンプをするなどあちこちに連れて行ってくれました。そのときは必ずカメラを携えて撮っていました。あるとき貴重なカメラをバス停のベンチに置き忘れ、母にひどく叱責されていたことも思い出しました。昭和な写真”もありますが随分前から押入れの奥にねむっています。これを機に押入れを家探ししてみようかと思っています。