▶ベトナム訪問記 番外編(高22期 加藤 麻貴子)
私が訪ねたのは友人や防大留学生の住むベトナムの北部ハノイやハノイ周辺の人達である。水田や畑など日本の風景と良く似ている。938年に中国の支配から脱したので言葉の奥には漢字がある。
19世紀にフランスの植民地となり漢字を捨てた、或いは捨てさせられベトナム語はローマ字表記となった。留学生は日本語を習い始めると同じような言葉があることに気づくそうだ。器用なことや年長の者や先祖を敬うことも日本人に通ずるものがある。
社会主義の国ではあるが滞在中それを意識することは殆どなかった。急速に変化している国であると思う。財閥のビングループがEV車生産など工業をリードしており、お金持ちの豪邸はあるし、一般の人達も豊かな生活を享受し始めている。田舎で行ったH君のような結婚式は稀になり、T君のようにホテルで式を挙げる人も増えている。
ハノイでは若者たちはスマホやタクシーのアプリなど便利に使いこなし、街は活気に溢れていた。他方H君やT君の故郷(ハノイから車で2時間)では60歳から70歳台の父母世代が彼らのコミュニティや伝統を守りながら農業に勤しんでいる。しかし、子供世代はハノイなどの都市部に移り住み農業から離れていく。50年前の日本の姿ではないか。
ベトナムは中国、ラオス、カンボジアと接する南北1650㎞、東西は幅が最も狭い部分では約50㎞の長細い国である。北部、中部、南部では言葉や文化が違うことも多い。日本との関係は古くは8世紀の阿倍仲麻呂がハノイ滞在、14世紀から16世紀にかけては琉球王国との貿易が活発で中部のホイアンの日本人町には数百人の日本人が居住していたこともある。また1905年には反仏独立運動家のファン・ボイ・チャウが武器援助を求めて来日している。
だが1940年に日本軍がベトナムに侵攻、日仏のの2重支配を受けるようになる。戦後は1945年9月2日に日本から独立し、その時のホーチミンの独立宣言では日本の帝国主義を非難することもあった。
その後フランス軍が再び侵攻、第一次インドシナ戦争に突入する。当時766人の残留日本人がおり、仏軍に参加したものもいるが多数がベトミン(ベトナム独立同盟)に合流、中には陸軍士官学校を創設してベトミン士官を養成した元日本軍将兵もいる。1954年のジュネーヴ協定成立までに47名が戦病死した。ジュネーブ協定に寄って150名が日本へ帰国したがその他はベトナムに留まったようである。1973年には国交も樹立した。1986年には8名の元日本兵がベトナム政府から表彰を受けた。
2018年9月28日には国交45周年を記念してベトナムのフリゲート艦チャン・フン・ダオが日本初寄港で横須賀港に海上自衛隊を訪問、停泊した。歓迎行事のレセプションに私達も招待され、H君は緊張しながらも誇らしげにベトナム側の通訳を務めた。1970年代のベトナム戦争を思うと感慨深いものがある。歴史は動いていると実感する一瞬であった。
2023年は、国交樹立50周年を迎えた。両国の友好関係がこれからも続くことを願っている。(おわり)
我々の世代は、テレビや新聞で毎日のようにベトナム戦争の報道に接していました。南ベトナムという匡があったことを知らない若い世代も増えているようですね。
三浦の農家ではベトナム人がかなり働いています。彼らの住居を確保するために家を借りたり買い取ったり、私のところにも関連した仕事が来ます。農家さんが一様に言いますが、ベトナムの人はよく働く、朝早く来て日が暮れるまで働く、というのですね。勤勉なのでしょうね。
三浦はベトナムの人が多いのですね。
ベトナムの人は本当に勤勉で良く働きます。20数年前、フンさんは就労ビザを持っていたので近所の介護施設で働いていました。よく働くし入居者のご老人の評判も良く、そこの経営者が私を斡旋業者と間違えてベトナムの人を紹介して欲しいと頼んできたことがありました。
働きながら勉学もしたいと来日するベトナム人は相当の努力をしないと勉学を続けることは難しいようです。
松原さんのコメントにある通り、最近は日本で働くベトナム人も多いですね。台湾屏東ではパイナップルの収穫を出稼ぎベトナム人*がしているし、昨年10月のハマスのテロでもイスラエルのキブツで、レモンもぎのベトナム人が大勢犠牲になりました。フィリピンと並ぶ出稼ぎ大国です。
*https://agora-web.jp/archives/230925062831.html
近現代の東亜の偉大な政治家を3人挙げろと言われたら、私は、ホー・チミン、リー・クアンユー(李光耀)そして李登輝と答えます。二人の李は共に客家で血縁、ホー・チミンも漢字では胡志明、父の姓は阮(グエン)で中国系と判ります。南ベトナムにもグエン姓の将軍がいました。
ホー・チミンは宗主国フランスと戦い、血を流して独立を勝ち取ったし、米国との戦争でも負けなかった。鄧小平・江沢民・胡錦濤が築いた基盤の上でえばっているだけの習近平とはモノが違う傑物です。
ベトナムはその中国や北朝鮮と同じ共産党一党独裁国家ですが、そこからの留学生を防衛大学校が受け入れているところに、ホーを父と仰ぐベトナム・ベトナム人の強かさを感じます。そのベトナムの今を体験した話、興味深く読ませてもらいました。
ベトナムの多くの人はホー・チ・ミン氏をポー(父)ホーと呼んで敬愛しています。2019年12月に何かのお祝いで招待された時、大広間の横1,5畳くらいの静謐な部屋に彼を祭ってあり、精神的寄りどころのように感じました。ベトナムの人の名前はグェンを始め、大体漢字があります。ロンは龍、ソンは山、ホアは花、ニュウは如のようにです。赤ちゃんが生まれると寺に行って名付けてもらうそうです。
そういえば、我々が中学、高校の時は、毎日のようにドンバンミン(ズオンバンミン)、グエンカオキ、グエンバンチュー、グエンカーン等の名前が新聞に出ていたね。この名前が面白くて覚えました。
汪精衛やチャンドラ・ボース、アウンサウン将軍などは悲劇の人だね。
現代では、ネルーやスカルノの評価はあまり高くないでしょうか?
大東亜会議でも、汪精衛とチャンドラ・ボースは一目置かれる存在だったようですよ。最後は東条もボースにぞっこん惚れ込んでしまった。
アトリー英国首相は、インドの独立を認めた経緯を問われて、「チャンドラ・ボースのせいで英印軍のインド兵が英人指揮官のいうことを聞かなくなったから」と答えています。「ガンジーの影響は?」との問いには「ごくわずかですよ」と(「インパールを超えて」国塚一乗)。
つまり、ガンジーの「無抵抗主義」よりもボースの「武装闘争」の方が効果があったということ。今日に国際情勢に照らしても頷ける話ではないかと。
こういう話だとつい盛り上がってしまうので、この辺でやめておきます。
大変勉強になりました。