▶オッペンハイマーと「原爆スパイ」(高22期 高橋 克己)

『オッペンハイマー』© Universal Pictures. All Rights Reserved.

映画「オッペンハイマー」がこの11日の第96回アカデミー賞で、作品賞や監督賞など最多7部門を受賞しました。米国では昨年7月に公開されて、今般のオスカー7部門の受賞に見るような好評ぶりですが、日本では、誰が何を憚ったか、ようやく今月29日から公開されるようです。

もちろん私も未見ですが、Wikipediaには「赤狩りの嵐が吹き荒れる1954年、核兵器技術など機密情報の漏洩を疑われたオッペンハイマーが公聴会で追及を受けるところから物語が始まる」とあります。配役を見るとソ連の「原爆スパイ」の名前は「シュバリエ」と「エルティントン」しか見当たりません。

となると、この「物語」の主たるテーマは別にある様ですが、本稿ではオッペンハイマーと「原爆スパイ」との関連を書きます。オッペンハイマーの講演録「原子力は誰のものか」(中公文庫、以下「講演録」)と「ヴェノナ」を参考にしました。

「ヴェノナ」とは、1930~40年代にモスクワと在米スパイとの暗号通信約3000通を解読した米国の極秘作戦の名称です。私は400頁ほどの原書を取り寄せて約1000時間掛け、辞書と首っ引きで原稿用紙800枚に翻訳したことがあります。16年のことでしたが、実は邦訳が出ていたのです(トホホ)。

■「講演録」
「講演録」の「付録」にある、訳者の手になる「『オッペンハイマー追放』の経過」はこう書き出されています。

オッペンハイマーが、ニコルズ米国原子力委員会事務総長立ち合いの下で、国家機密からの遮断に関する行政処分を、原子力委員会委員長ストローズから口頭で伝達されたのは、1953年の12月21日のことである。

「講演録」は45年11月から56年9月までに彼が行った講演と論文、そして「付録」を収録しています。筆者はむしろ「付録」のオッペンハイマー宛の「ニコルズ少将の書簡」(53年12月、「書簡」)とニコルズ宛の「オッペンハイマーの弁明」(54年3月、「弁明」)に興味があります。

なぜなら「書簡」と「弁明」に名前が出てくる、オッペンハイマーとの関係が疑われる「原爆スパイ」らの活動は、当時はまだ明確な証拠が不足していたはずですが、95年に公開された「ヴェノナ」の記述によっては、オッペンハイマーと「原爆スパイ」との関りが裏付けられる可能性があるからです。

「書簡」と「ヴェノナ」の両方に名がある「原爆スパイ」は、弟フランク、アイザック・フォルコフ、スティーヴ・ネルソン、トマス・アディス、ルディ・ランバート、ジョセフ・ワインバーグ、クラレンス・ヒスキー、ハーコン・シュバリエ、ジョージ・エルティントン、ジョバンニ・ロマニッツ、ポール・ピンスキーの11名です。

「弁明」でオッペンハイマーは、この11名について大要以下のように述べています。

私はランバートとアディスとスペイン内戦*の支援を通じて知り合った。医学者のアディスとは友人になり、フォルコフを紹介された。アディスは米国共産党(CPUSA)と関係があるフォルコフに資金を援助していたが、37~38年当時、私は共産主義が危険だとは考えていなかった。

*筆者注・・スペインでの共和国側とフランコ反乱軍との内戦に共和国側で参戦した義勇兵(国際旅団orリンカーン大隊)には、コミンテルンの呼び掛けで各国から多くの共産主義シンパが参加し、万単位の戦死者を出した。後にそのパスポートの多くが偽造され、KGBに隠れ蓑として利用された。

弟フランクとその妻ジャッキーは37年にCPUSAに入党したことを私に話した。41年秋にフランクはバークレーの放射線研究所に勤務したが、もう党員ではないといっていた。46年元旦に弟の家族を訪ねた時、弟宅への訪問者の中にピンスキーがいたかも知れないが、偶然だった。

シュバリエ夫妻は、私が結婚した40年当時交際していた物理学者や大学職員の中にいた。43年初めごろ私を訪れたシュバリエが、エルティントンから技術的な情報をソ連の科学者に伝えることができるか聞かれたとの話をして来たが、私は強く拒否した。彼が私の仕事に気付いていないと確信している。

大学院生のワインバーグは知っているが、ヒスキーは知らない。ネルソンはスペイン内戦を通じて妻と親しく、家族で何回か訪ねて来た。が、41年以降は会っていない。機密に関わる私の仕事についてネルソンと議論したことはない。ワインバーグもロマニッツもロスアラモスに雇われたことはない。

■「ヴェノナ」
では「ヴェノナ」がこれら11人をどう描いているかといえば・・・

アディスの記述はありません。が、ランバートは、CPUSAカリフォルニアの労働運動の代表で党保安委員会幹部だったとあります。未解読部分の多いあるKGB通信は、ランバートがウラニウム鉱床についてのソ連スパイの情報源であったことを示唆しています。

30年代から42年の初めまで熱烈な人民戦線リベラルで共産主義を支持していたオッペンハイマーは、その期間を通じてしばしばCPUSAに寄付をし、その多くはフォルコフを経由していました。当時、フォルコフはカリフォルニア共産党の上級幹部でCPUSAの西海岸のKGBとの連絡員でした。

フォルコフは、ウィタカー・チェンバース(*ソ連スパイからの転向者第一号で、「TIME」の記者になった)が39年9月にソ連の協力者と名指しした8人のうちの一人です。彼らはアルジャー・ヒスやラクリン・カリー、ハリー・ホワイトらの大物で、何れも「ヴェノナ」で裏付けられています。

*注・・米当局は転向したスパイから多くの情報を得ていました。他にもエリザベス・ベントレー、カナダのソ連大使館職員でGRU工作員のイーゴリ・グーゼンコなどが終戦までに寝返っていて、「書簡」には彼らの情報も用いられました。が、「ヴェノナ」は95年まで秘匿され、その裏付けに使われませんでした。

CPUSA幹部のネルソンも西海岸の地下組織のリーダーとしてKGBとGRUの両方に接点がありました。FBIは彼の家に盗聴器を仕掛け、42年10月にUCLAバークレー校の放射線研究所研究員ロマニッツがネルソンに、自分は極秘兵器の仕事をしていると原爆に言及したのを盗聴していました。

ネルソンは「ヴェノナ」通信で明確には特定されていません。が、43年初めにCPUSA地下組織トップのルディ・ベイカーはコミンテルン議長のディミトロフに、「我々は西海岸で一人の信頼に足る人物(暗号名「Mack」=ネルソンと推定される)を当地の全活動の責任者として任命した」と報告しています。

43年3月には、ロマニッツの同僚ワインバーグもネルソンを訪ねて同じ話をしました。ネルソンはメモを取り、数日後サンフランシスコ領事館次席書記を隠れ蓑にするGRU幹部ピーター・イワノフと会って、そのメモらしきものを渡したのを米防諜員が監視していました。

この若い放射線研究所の二人はCPUSA支配下の「FAECT」(産業別労働組合の下部組織)を研究所に誘致する推進派でした。ピンスキーは「FAECT」のCPUSA世話人で、KGB在米支部は43年8月、「進歩的な教授」(暗号名)という放射線研究所の幹部にピンスキーが接近していることをモスクワに通信しています。FBIは43年10月にイワノフがピンスキーの家を訪れたのを観察していました。

KGB(国家保安委員会)だけでなく、KGBが「Neighbor」と呼ぶGRU(軍参謀本部情報総局)にも、小規模ながら在米スパイがいました。GRUによるマンハッタン計画への浸透は、30年代後半に偽造パスポートで米国に入った非合法のGRU将校アーサー・アダムズを通じて行われました。アダムズはネルソンとも接触していました。

米防諜当局は44年までにアダムズをソ連スパイと特定していたので、アダムズが、KGBが接近を試みていたマンハッタン計画の科学者ヒスキーと会うのを観察し、ヒスキーがスパイではないかと疑いました。当局は44年半ばにヒスキーを徴兵し、アラスカでの兵役を課して無害化しました。

43年8月にオッペンハイマーは、シュバリエが43年初めに原爆情報を漏らすよう頼んで来た、と当局に知らせました。シュバリエに「私は強く拒否した」と「弁明」で述べた件です。「ヴェノナ」は、彼がなぜ半年以上経ってから急に知らせて来たのか、と疑問視しています。

シュバリエは後にオッペンハイマーの話を否定し、エルティントンの件は何気なく話しただけだとし、イワノフに会ったことも、彼がソ連のスパイとは知らなかったと弁解しました。しかしシュバリエもエルティントンも隠れ共産党員であり、42年にエルティントンがイワノフと一度ならず会っているのを当局は監視していました。

■結語
「ヴェノナ」によって、「弁明」にある以上にこれら11人がソ連の「原爆スパイ」に深く関わっていたことが判ります。ですが「ヴェノナ」は、ロスアラモスの全てを知るオッペンハイマーが活動的なソ連の情報源だったら、ソ連が知ったことの質と量ははるかに大きかったとして、多くの証拠は彼がソ連の情報源として活動したことを否定している、と書いています。

同時にオッペンハイマーが、疑念を懐くに合理的な理由のある人々の行動を、大目に見ていた可能性が存在するともし、「書簡」もこう述べています。

高度に注意を要する機密情報に貴下が接している事情に鑑み、また以上の申し立てが貴下の誠実、行為、さては忠実に関して、反証がなされるまでは疑わしいことに鑑み、委員会は共同の防衛と安全を守る義務の遂行に当たり、問題が解決を見るまで貴下の身分保証を留保するしかありません。

実は、ソ連にとってより有用な「原爆スパイ」の活動は、縷説した西海岸というより、ジュリアス・ローゼンバーグと妻エセルを中心として、エセルの弟でロスアラモス研究所にいたデビッド・グリーングラス、マンハッタン計画にいたクラウス・フックスやセオドア・ホールらによって行われました。

彼らの活動によって、ソ連は米国に遅れることたった4年で核実験を成功させました(49年8月29日)。トルーマンは、ポツダムで会議中の45年7月16日にアラモゴードでの核実験成功を知らされました。が、同じ会議に参加していたスターリンにもほぼ同時にその報が伝わっていました。

オッペンハイマーは「原子兵器とアメリカの政策」(1953年2月)と題した講演で、「10年先のことを考えたら、ソ連が4年遅れていることは大した慰めになりそうもない」と述べています。開拓者が先行し続けることは、それが何であれ難しい。「スパイ」が介在するなら尚更のことでしょう。

本稿が、映画「オッペンハイマー」を観る時の一助になれば幸いです。(おわり)

    ▶オッペンハイマーと「原爆スパイ」(高22期 高橋 克己)” に対して2件のコメントがあります。

    1. 高22期伴野 明 より:

      この映画が原爆の何を描いているか分かりませんが、原爆を巡る情報戦や原爆の被害を想像するオッペンハイマーの苦悩を描いているとしたら的外れの愚作です。ウイキによると何人かの識者がこの作品を賞賛しつつ、「原爆投下の被害の悲惨さも描くべき」としています。
      となると、どうやらこの作品ではそこには触れていないようです。原爆の悲惨さにオッペンハイマーが苦悩するのでしたら話は通りますが、それ無しの原爆映画はあり得ません。
      周知の通り、核はすでに世界中にあるのですから、「いかにして核のボタンを押させないか」それしかないのです。そのためには全ての国が原爆の悲惨さをトコトン理解するしかありません。
      この映画は好評のようですので、それに乗じて日本は「原爆の悲惨さが描かれていない」と声を大にして訴えるべきです。

    2. 高橋克己 より:

      このコラム、もう少し背景の説明がないと理解できない、とのお叱りがあったので以下に補足します。

      オッペンハイマーは原爆開発を成功させたロスアラモス研究所の所長でしたが、戦後は原水爆に懐疑的になります。また彼には共産党員だった過去があり、ソ連スパイとの関係が疑われる隠れ党員や研究者と接点もあったため、原子力委員会の顧問を外されたのです。

      さて、日本はポツダム宣言を受諾して連合国に降伏、国民は45年8月15日正午に流された玉音放送を聞いて敗戦を知りました。米国によって45年8月6日に広島、9日には長崎に原爆が落とされ、8月8日未明にはソ連が満州に侵攻しました。これらが宣言受諾のきっかけになりました。

      ポツダム宣言は45年7月、ドイツのポツダムにトルーマン米大統領、チャーチル英首相(途中でアトリーに交替)、ソ連のスターリン首相の3首脳が集まった会議で決められ、7月26日に発出されました。署名は、まだ日本に参戦していないスターリンではなく、会議に出ていない蒋介石がしました。

      米国の原爆開発はルーズベルト大統領政権下の41年に、ニューメキシコ州のロスアラモス研究所で始まり、オッペンハイマーが研究所所長に任命されました。原爆実験が成功したのは4年後の45年7月16日で、その報告はポツダムにいたトルーマンに伝えられました。

      当時の米国には、ソ連大使館員などを隠れ蓑にしたかなりの数のスパイがいて、米国共産党員や共産主義に傾倒する米国の協力者と情報源を使って様々な情報を盗取していました。米人協力者らは、ルーズベルト政権にいた300人もの情報源とソ連スパイとの間に介在しました。

      中でも原爆の情報はソ連にとって最も価値あるもので、スターリンは在米スパイからの情報で、トルーマンと同じタイミングで米国の実験成功を知っていました。ローゼンタール夫妻らの協力者からの情報のお陰で、ソ連は米国に遅れることたった4年の49年8月に核実験に成功したのです。

      ソ連スパイと米人情報源の間に介在した協力者の数名(チェンバースやベントレー等)は30年代後半から45年までにFRIなどに寝返っていたので、米防諜当局はソ連によるスパイの情報をつかんでいました。原子力委員会の「書簡」の情報もそれです。

      またこれらの情報によって、50年代に赤狩りまたはマッカーシー(上院議員)旋風といわれるスパイ摘発も始まりました。その一環でオッペンハイマーにもスパイの嫌疑が掛かり、原子力委員会の公聴会にかけられ、追放されたという訳です。

      一方、「ヴェノナ」は、30年代後半に始まった在米ソ連スパイとモスクワとの暗号通信を解読する秘密作戦です。40年代に解読に成功し、赤狩りで名前が挙げられた人物の多くが暗号通信に「暗号名」で登場していて、スパイと裏付けられました。但し、オッペンハイマーを特定する通信はありません。

      米国はソ連崩壊後の95年まで「ヴェノナ」を秘匿しました。このため罪を逃れたスパイも大勢いて、死刑になったローゼンタール夫妻の助命運動が起きたほどです。が、米国は「ヴェノナ」の存在を隠して暗号通信を解読し続ける方が国益に適うと考えたのです。

      私の論考は、原子力委員会からオッペンハイマーへの質問「書簡」と、それに対する彼の「弁明」に出てくるスパイの名前が、「ヴェノナ」の中でどう記述されているかを検証したものです。

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