▶ぶらり散歩「田浦小学校と長浦小学校」(高22期 高橋 揚一)

【田浦小学校運動会に参加の田浦保育園園児競技(昭和32年)】


■ 散歩の経路:田浦山盛福寺 → 市立田浦小学校 → 市立長浦小学校 → 田浦港(3月19日)

彼岸墓参帰りに昨年と同じ菩提寺の田浦山盛福寺からスタート。近くに京浜急行と横須賀線との交差地点がある。接続駅があれば街は大きく変わっていただろうが周辺には通過音が轟くのみ。

田浦町は谷戸の連なりで寺のある5丁目からは盛福寺管路トンネルを通って逗子市沼間に出ることができた。しかし遠い昔に閉鎖されて5丁目からは4丁目を抜けて国道16号線まで出なければ3丁目や2丁目にも至れない。

横須賀市立田浦小学校は3丁目。私は昭和33年に田浦小学校に入学したが1年生2学期の始まりに馬堀小学校に転校している。今年は創立100周年。にもかかわらず児童数減少のため市教育委員会はあと1年で廃校を決定した。

かつては商店が並び日常の買物をほとんど済ませることができた3丁目も2丁目も今は高齢者タウンと化している。3丁目の奥の田浦大作町や2丁目の奥の田浦泉町へは道幅の狭い路地が続き自動車のUターンするスペースも少ない。

田浦町2丁目から国道16号線のトンネルを3本抜けると長浦町2丁目。横須賀市立長浦小学校は次の吉浦トンネルの上に建つ。かつて山だったところが新興住宅地となっている。

徒歩には辛い距離と坂道のためJR田浦駅からタクシーを使った。駅前タクシー乗り場に待機車はなく迎車依頼は500円との表記。駅のトイレを使用中に運良く1台到来したので長浦小学校までの代金800円のみで済んだ。

平成4年完成の立派な校舎と広い前庭とグランドとプールが完備されている。しかし児童数はこちらも減少してほとんどの学年が1クラスの現状らしい。そこで田浦小学校との合併となった。最寄りの京急安針塚駅からは長い坂道が続く。田浦小学校の元児童は狭い路地と排気ガスと騒音のトンネルを抜けてからこの坂道にたどり着かなければならない。

移転する前の長浦小学校は安針塚駅前だった。長浦小学校跡地は公園と消防署とコミュニティセンターとなって周辺は綺麗に整備されている。

安針塚駅改札口の向かいに「Basil And Clove」というイタリア料理店があった。昨年と同じく田浦町2丁目の梅林食堂で昼食の予定が臨時休業で閉まっていたため空腹状態での思わぬ出合い。感じの良い若夫婦による雰囲気の良い店で料理も美味だった。手作りケーキや三浦半島の野菜も販売されている。

「Basil And Clove」で爽快になったので安針塚駅から帰るのをやめて田浦港方面に向かった。ちょっと歩いたところにネコバス停留所。「アラベスク音楽教室」の壁画のようだ。

国道16号線と横須賀線の踏切を越えて住宅街が途切れると横須賀市立田浦保育園。私が在園した頃は田浦の国道16号線を跨ぐ横須賀線ガード近くにあったが移転していた。敷地の一部が土砂災害特別警戒区域に位置するため近隣に再移転して数年後に民営化されるという。

田浦保育園を過ぎると道の右側は海上自衛隊の施設となり塀越しに吾妻島の山肌が見えるが雰囲気は物々しく戦争の痕跡が窺える。道の左側にはしばらく住宅が並び比与宇トンネルに至る。トンネル入口には「トンネル内線路注意」の表示が消えずに残っていた。戦争中はトンネル内に貨車を停車して弾薬を積み込んだという。

トンネル内の線路はかなり以前に撤去されたようだが線路の上から舗装したのだろうか。線路の位置がわかるような路面。果たして線路はトンネルを出た先に埋まっていた。十字交差があるではないか。並んで2ヶ所も。

昨年は田浦駅港口からこちらに歩いて吾妻橋手前で引き返してしまったため気付かなかった。もう見ることができないと勘違いしていた十字交差が待っていたとは。父親の漕ぐ自転車に乗って頻繁に訪れていた懐かしい場所にようやく邂逅できた。

    ▶ぶらり散歩「田浦小学校と長浦小学校」(高22期 高橋 揚一)” に対して2件のコメントがあります。

    1. 高橋克己 より:

      何度も頷きながら読みました。
      大人になってから子供の頃に親しんだ通りを歩いて、「こんなに狭かったか」と驚いた経験が私もあります。
      母校の青葉小は、今は「さくら小」になってしまいましたが、3倍も生徒の多い坂本小の学区を飲み込んだので、少し誇らしい。
      揚一さんの写真にある校舎は、移転してかどれも立派ですが、さくら小の校舎は60年前に創立10周年だった当時のままではなかったか(そんなはずはないですね)。
      コロナの最中、衣笠のむかし並木座だったライブハウスに、月に数回バンド練習に通いました。汐入駅からのバスが「次は坂本小学校前」というので、隣のご婦人に「坂小はなくなったのでしょう」と私、「『元』坂本小学校前」といっていますよとご婦人。少し恥ずかしかった。
      私の父も自転車に私を乗せて、しばしば金星劇場に西部劇を観に行きました。ベース勤めの父がさては英語の勉強をしていたか、と気付いたのはかなり長じてからでした。

      1. 高橋揚一(高22期6組大西昭先生学級) より:

        コメント有難うございます。
        小学校1年生の夏まで田浦町2丁目に住んでいました。商店街の今はなきパン屋さんでピーナッツバターを挟んでくれた丸いパンが直径30cmくらいあったように記憶していますが、おそらくマックのバンズくらいの大きさだったのだろうと思います。

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