江戸しぐさ第六講 江戸の段階的養育法
【江戸しぐさは江戸っ子のブランド】
江戸しぐさは、町衆たちが生きていると言う喜びの合図なんですね。常に生かされていると言うことを感謝しているんです。言葉だと長くなるけど、それを一瞬のうちに傘をかしげるだけで相手に気持ちを伝えてしまうんです。江戸っ子同士だったら慈しみあう、全然知らない人だったら、相手に敵意を持っていませんよということを表現しているんです。安心しますよね。タクシーの運転手さんでも、ここに行ってくれと言っても、黙っていて、はいとも言わないでいられると、とても怖い思いをしますよね。こう言うときにちょっとしたリアクションで敵意をもっていないというしぐさをしてくれれば良いですね。
これは信号だったんですけど、もうひとつは江戸っ子のブランドだったんです。最近の若い子はルイビトンだとかそんなブランド品を持っていますね。女の子が7人ぐらい歩いていると5人くらいがブランド品を持っているんですね。あれも、ブランドを持っているという誇りなんだと思いますが、江戸しぐさは、ソフトですから、これはメッキがはがれない江戸っ子のブランドだったんですよね。これをやっていないのは江戸っ子じゃないんですよ。しぐさをみてスリが、あいつはぽっとでだ、と狙ったそうなんです。江戸しぐさの面白いのは、ちゃっかりしているということなんです。そろばん勘定すると最後は得をしたというのがあるんです。これが21世紀向きだと思うわけ。
それを今の若い人に説いたら、結局、得だわということになるんで、そういう攻めかたもあるんじゃないかと思っているんです。しかも、これは江戸商人の子供の3歳から9歳ころまでのしつけのごく初歩のものなんですよ。子供の初歩のパントマイムでお初しぐさ、稚児しぐさができないと商人を継げないよってことなんです。師は、ほうれん草を売るためにポパイのまんがを作ったのに、ポパイだけが売れちゃって、ほうれん草が人気が無い、と同じように江戸しぐさは形だけだと捉えて本当の考え方が伝わらないのは残念だといつも言っておられました。
【江戸の段階的養育法】
ここで「三つ心、六つしつけ、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる」という江戸しぐさのハイライト的なものをご紹介します。
草柳大蔵さんなんかもすごく誉めていましたね。三つ心、心が三つもあるんですかと言う人もいますが、そうじゃないんです。これは、江戸の段階的養育法なんです。もう遅いという顔をしておられる方もいますが、お孫さんのことを考えてください。江戸では一方的に教える教育という言葉より、養育とか鍛育という言葉の方が使われたんですね。教育というと上下が出来てしまう。自発的な発想が育たないというんですね。自分で判断させて育てるためには、教育という言葉はふさわしくないということなんです。だから養育法なんですね。
三歳の子供に天才教育をするという記事がありましたね。リビングルームは英語の歌をかけておいて、食堂には中国語とか世界中の言葉をどこでも聞けるようにしているんです。そんなことじゃないと思います。真の人間形成のためには、成長に合わせた養育が、全人教育が必要だということを示唆しているんです。江戸の賢者は人間は脳と体と心の三つからなっていると考えたんです。心を脳と体を結ぶマリオネットの糸と考えたんです。これは素晴らしい比喩だと思いますよ。心は、頭にあるとか、胸にあるとか言われていますが、それを糸と考えたんです。心はマリオネットの糸ですから、その操り方でどうにでもなるんです。数え年の3歳までに、この見えない心の糸をしっかり張りこまなければいけない。蜘蛛の巣が緻密なほうが良いように、綿密な用意周到さで張り巡らさなければいけない。
一日一本として3年間張れば、1000本の糸が張れるように心がけたと言われています。これが片親だと500本の糸しか張れないから、と言ったらそれは差別用語だと言われたことがあるんです。でも、それはおかしいんです。その言葉を使わなければ、そういう子供はいないということになっちゃうんです。そういう片親だから余計に周りが注意しなければいけないし、コミュニティのみんなはそれを手助けしなければいけない。江戸には、そういう考え方があったんです。女手がいなければ女手、男手がいないところには男手を差し伸べる、という裏付けがあったから、片親で500本しか張れない子供は、心して育てなければいけないということなのです。
心は本当に大事で、忙しいと言う字は、心を亡ぼす、と書きますね。忘れるもそうです。江戸人はお忙しいですかと聞かれると顔を青くして怒ったと言われています。自分が忙しいと言うのはいいんだそうです。でも、相手に聞かれたら怒るんだそうです。心を亡くした木偶かなんかと言われたと思うんだそうです。非常に心と言うものを大事にしたんだそうです。心としぐさの仕組みを3歳の子供にどのように理解させたかというと、知識として教えたんではないんです。結局、親のしぐさを見せるんです。子供はまねをしますよ。親の通りに良いことも悪いこともまねをしますよ。見取らせるということ、見取り図というのは、江戸教育用語だそうですけれど、見習わせる、見取らせる、要は、見ようみまねをする。今は、この見ようみまねの手本になる大人がすくなくなっちゃったというのが問題なんですよね。
三つ心は、三歳までは愛情深く子どもに接するということです。これは現代で言われていることにも通じますね。存分に愛を与え甘えさせることで、自分を受け入れて他人への信頼感を根付かせることが出来るんです。決して甘やかすではありませんよ。たっぷり愛を注ぎ、肌に触れ抱きしめ、美しいものに触れさせ、良い手本を示して心を豊かなものにすることから子育ては始まるんです。
六つしつけ、というのは六歳までに、体と脳味噌を結びつけるこころの糸の操り方を教えると言うことなんです。手取り足取り真似させて、何度も何度も繰り返すトレーニングなんですね。現在はエデュケーションばかりで、このトレーニングがおろそかになっているんです。何でもやってみるしかないんですよ。傘かしげだって、肩引きだって、何回も何回もやるしかないんです。食べ方とか箸の使い方など日常茶飯事のしぐさもそうですが、何回もやらせて教えるんです。子供も六歳くらいになると、意思が半分くらい目覚めて大人のしぐさをするようになるそうです。
九つ言葉というのは、これはみんな商人のことですから、挨拶が出来るようにするということなんです。挨拶と言っても大人の挨拶なんです。世辞が言える、「左様でございます、暑いですね、お加減はいかがですか」とかきちんとした言葉なんです。どんな人にも失礼にならないような挨拶ができるように躾けたそうです。江戸商人の才覚とか商才はこの言葉で決まっちゃうんです。江戸講師は、全国を回って、商人として才覚がある九つの子供を引き抜いてきたそうです。
十二文、これは主の代書が出来るようにしたんですね。注文書、請求書、弁解書、苦情処理まで、まがりなりなりにも書けるようにしたんだそうです。万が一、主が亡くなってもすぐに代行できるようにしたんです。今で言うところの簿記のような仕事も任せられるくらいしっかりと教え込んでいたのですね。
十五理というのは経済とか物理とかサイエンスとかケミストリイとかが、暗記でなく理解できること、それまでは、いくら覚えたって訳が分かっているんじゃなくて暗記なんです。本当に理解できるのが十五歳なんだそうです。物事の仕組みや意味、時に訪れる不合理などを、ただ知識として知るだけではなく、これはこういうものなのだと深く理解することです。
ここまで来ると、本人の行く末がきまる、ということです。商人に不適当な子もいますし、抜群に聡い子もいるんですよ。本当の個性を尊重し人間の適材適所を振り分けていくという大役を担っていたのが寺子屋の師匠や江戸講の講師だったそうです。