江戸しぐさ第七講 江戸の危機管理

【江戸のエコロジー】
江戸のエコロジー草主人従。草主人従という言葉は、ほとんどの方がご存じ無いでしょうが、私も江戸しぐさで初めて知ったんです。加賀の千代女の作った句に、「朝顔に、つるべ取られて、もらい水」というのがありますよね。私たちが学校で習ったときは、千代女の女性らしい優しさがよく表現されているなんて教わったんですが、江戸町衆のリーダーたちの解釈にはひと味違った深い意味があったことを知らされたんです。彼らには、草主人従、自然が主人公で人はそれに従う、という考え方を持っていたんで、そのことを背景にしてこの句を読むべきだと言うことなんです。

もう大分前ですが、阪神大震災では、自然の力を思い知らされたわけですけど、現在は、自然への畏敬の心があまりにも無いような気がしています。また、この句は、寺子屋の教材だったんだそうですよ。この句で、いろんな事を教えたんですって。まず、朝顔に支えの棒をしなかったんですね。朝顔は、必ずつるを伸ばすものなのに支えの棒をしなかったのはこれはうかつだと、うかつさへの反省です。商人がうかつだったら、商売ができないわけですよね。これを厳しくいったそうです。朝顔のつるを外すと枯れちゃうでしょ。だから自然が主でそれに人間は従う、そっとしておくわけです。そして、水をくめないから借りに行くでしょう。当時では水は非常に大切なものだったんです。大変、神経を使ったし、人からものを借りると言うことは、必ず返さなければいけないということなんです。それを教えたんです。

なんですか、今は、大企業のお偉いさんが、借りたものを返さなくて良いなんて冗談じゃないわよ。この句を題材にしてこのようなことを教えたんだそうですよ。西洋人は自然を征服したくて人主草従ですが、日本人は草主人従なんです。人間は自然に従うべきだと言うエコロジー的な考えがあるんです。寺子屋のお師匠さんは、子供たちに、小さな地球のなかで生きとし生けるものは全て相互関係があるということを教えていたそうなんです。どうして地球が小さいことが分かったか知りませんが、すごい発想をしていたもんだと思います。

【寺子屋のべからず立て札】
寺子屋のべからず立て札というのは、江戸の寺子屋の路地には、「ここにゴミ捨てるべからず」「ここに小便するべからず」という二本の立て札がわざと立ててあったというんです。今のべからずの意味と違って、立ち小便がいけない、というべからずではないんですね。そうすることは、おかしいことなんだよ、という非常に優しい表現なんです。すなわち、江戸の起業家、商人の子としてゴミをすてたり、立ち小便をしたりして、公共の場所を汚すことは、悪いこと、おかしいこと、こんなことをしたら商人として、相手にされないよ、ということをいってたんだそうです。

頭からするなっというんでなく、江戸商人の子供としてのプライドを自覚させて、刷り込みをしてたんです。江戸の寺子屋って言うのは、親がお金を出し合って師匠を雇った公塾のようなものだったんです。義務教育じゃありませんから、登校拒否なんかもないでしょうし、子供たちは、嬉々として通っていたそうです。読み書き算盤だけを教えるのは田舎寺子屋で、江戸寺子屋は、「見る聞く話す」を教えたんだそうです。江戸寺子屋は、男あるじ、女あるじの卵、つまり、人の上に立つ人を養成していましたから、「見る聞く話す」の次に考えるまで、「見聞話考」を教えたんだそうです。初午の日が寺子屋の入学日と知られていますが、江戸寺子屋の入学日は、七夕なんです。

何故かというと、もちろん、当時は旧暦ですから、七夕は8月、真夏で親たちが暇な時にしたんです。親たちと一時、2時間じっと師匠の話を聞くんだそうです。それに耐えられるのが入学試験だったそうです。今の学校と寺子屋の大きな違いがあるんです。今の教育は子供たちに知識を一方的に詰め込むんですね。寺子屋は、自ら考えて行動して自発心を付けさせるということを主眼にしたそうです。想像力を使って人と人との付きあいを基本としたそうです。また、肩書きなどに頼らないで人を見抜く力を付けさせたんです。

この前、ある土木関係のシンポジウムに行きましたら、若い人なんですが偉い肩書きの名刺をばーっと出されて、どんな人かと思ってびっくりしちゃったんですけど、話してみましたらみんなジェントルマンで良い人でしたけどね。そういう肩書きを先に出されちゃうと、なんか色眼鏡で見るようになるんです。本当に真の人間を見抜けないことがあるんです。寺子屋は、人を見抜く洞察力を養成したんだそうです。江戸のべからずの立て札を見た薩長の占領軍が、立て札の意味を禁止令だと思って、あっちこっちに立て札を立てたということが、「異新珍聞」という当時の風刺的な新聞に書かれていたそうです。

【江戸の危機管理】
次は江戸講中の危機管理システムについてお話します。「地震雷火事親父」というのは私が子供の頃にも聞きましたが、こわいもの順にあると思っていましたよ。しかし、江戸衆の解釈ですが、この親父の意味は筆頭ということ、すなわち、「地震雷火事の中で火事が一番こわいですよ」という意味だったんだそうです。だから気を付けろということだったんです。江戸の町は、非常に火事が多かったと言われていますが、防ぐための町のレイアウトもしてたんだそうです。広小路なんかは、火伏せの道路だったし、火の用心の当番は、二時間おきに頻繁に見まわりをしていたんです。また、江戸の地震というのは「ナマズの天地返し」と言って、上下動、いわば、直下型の地震だったそうです。六十年に一ぺんくらいあるとみんな思っていたそうです。ナマズではなくナマスと言ったそうです。西洋のように石で家を造る技術はあったのですが、地震で倒れたときに片づけが簡単に出来るように家は木で作ったそうです。

土台は石、家は木に決めていたそうです。お堀の石垣なんてすごいじゃないですか、コンピュータも何にもない時代にあれだけの技術はあったんです。大名屋敷には地震部屋、町方では、避震部屋、家の補強に、はすかいを入れて江戸では、地震に備えていたんです。このような地震などのときは、「飛び越ししぐさ」で、どんどんボランティア活動を自主的にやったそうです。阪神大震災の時にあったじゃないですか。手続きが出来ないからどうのこうのっていうのが。そうしないと自分たちの命が助からないと言うときは、ちゃんと危機管理のための「なます講」などというボランティア組織がさっと出来たそうです。天下太平の江戸の町ですけど、城下町ですから、いつ戦争がおこるかわからない、それに備えて、米を蒸し、つぶして棒状にのばして浴衣とか帷子に縫い込んでおいたそうで、明治、大正、昭和になっても、味が変わらなかったそうです。

【江戸町衆の一日】
最後に、いきで素敵な江戸の一日についてお話しましょう。「働く」というのにもバリエーションがありまして、先ず、朝飯前というのがあります。朝、ご飯を食べる前にはご近所のお付き合いをしたんだそうです。ご老人や母子家庭に何か手助けすることがないかとか、そういうことを、朝飯を食べる前にやってたことが朝飯前だそうです。午前中は3時間ぐらい身すぎ、世すぎのため働くわけです。だから、江戸っ子は3時間くらいしか働かないというのは、そこら辺を言っているようです。そして、お昼を食べて、午後は傍、周りの人を楽にする働きなんです。町のためのボランティアみたいなもんです。夕方は、明日に備える、明日備(あすび→あそび)明日に備えてリクリエーション、それで、人間として一番評価されたのは、午後の傍を楽にする働き、というお話でした。

今日のお話はここまでに致します。時間を大変オーバーして、時泥棒をしてしまいました。ご静聴、ありがとうございました。

⇒ 「いきで素敵な江戸しぐさ」講演録(第一講 芝先生のこと)

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