▶馬堀小学校と馬堀中学校の思い出

12月20日 高22期6組 高橋揚一
(YouTube 高橋揚一チャンネル)

【馬堀小学校の思い出】
横須賀市立馬堀小学校は1951(昭和26)年に横須賀市馬堀町に開校しました。この年度は13期生が生まれた年度です。学区はおもに横須賀市馬堀町全域と横須賀市大津町2丁目でした。当時は馬堀海岸が埋め立てられてなく、横須賀市馬堀海岸という場所はまだありませんでした。それ以前は横須賀市立大津小学校の学区でしたが、1期から6期までの生徒はたち開校日には皆で行進して転校してきたそうです。隣接する横須賀市立馬堀中学校は1947(昭和22)年に開校しています。

現在の校舎配置
1963年の木造旧校舎

開校当時の校舎は横須賀市立馬堀中学校とともに戦前からの陸軍重砲兵学校の流用でしたが、1970(昭和45)年前後から鉄筋の新校舎建設が始まり、現在の状態に至っています。中学校はベビーブームの時代には1学年14クラスで教室の後ろまで生徒の机が並ぶほどでしたが、小学校の児童数は少なく、もとは中廊下式だった校舎の教室の片側を撤去したため、教室の幅より広い廊下で悠々とした空間がありました。卓球台を置いたり、夏休みの工作や年始の書き初めなどの展示を行う場所にもなっていました。

校舎の脇には中学校の運動場があり、小学校は、現在は中学校校舎が建っている一段高いところにありました。朝礼台の脇にあった「アオギリ」の木は、現在は新校舎の脇にその2代目がそびえています。旧校舎の裏手の階段を登ると「学園」と呼ばれた建物がありました。小講堂と2部屋の和室と食堂などがあり、希望者はクラスごとに1週間泊まってそこから通学することができました。小講堂の奥には昭和天皇が立ち寄った部屋があり、隣のトイレとともに立入禁止の開かずの間になっていて昼間でも薄気味悪い空間でした。

「学園」に泊まると裏の防空壕の探検や夜中の肝試しなど、ワクワクすることの連続でした。夕食後は職員室の先生方の机を使って当直の先生による特別授業と家庭科室でのテレビ視聴で、週1回だけ狭い桶風呂に皆で入浴するのです。目の前に遠浅の海岸が広がっているので夏休み前には水泳教室が開かれました。終了時に振る舞われる薬缶から注がれる生温いカルピスの味は忘れられません。最終日には遠泳大会も催されました。

最寄駅は京浜急行馬堀海岸駅で徒歩約10分。1966(昭和41)年頃から始まる埋立工事以前は、駅前の海岸が海水浴場として賑わっていました。著名人は、入学後半年も経たずに山梨に転校した歌手の田原俊彦氏くらいでしょうか。
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8110/sisetu/fc00000385.html

【馬堀中学校の思い出】
横須賀市立馬堀中学校は1947(昭和22)年に横須賀市馬堀町に開校しました。隣接する横須賀市立馬堀小学校は1951(昭和26)年に開校し、当初は、おもに横須賀市立馬堀小学校、横須賀市立山崎小学校、横須賀市立大津小学校、横須賀市立走水小学校から進学する中学校でした。

ベビーブームの時代には1学年14クラスで教室の後ろまで生徒の机が並ぶほどでしたが、その後、近隣に他の中学校が創設されて、現在はおもに横須賀市立馬堀小学校、横須賀市立走水小学校、横須賀市立望洋小学校の一部からの進学となっています。

開校当時の校舎は横須賀市立馬堀小学校とともに戦前からの陸軍重砲兵学校の流用でしたが、1966(昭和41)年の秋から鉄筋の新校舎建設が始まり、現在の状態に至っています。開校当時の面影はほとんどありませんが、現在プールのある、もとの校舎裏手には、塀の一部や怪談話が伝わっていたレンガ造りのトイレの壁の一部が残っています。

最寄駅は京浜急行馬堀海岸駅で徒歩約10分。1966(昭和41)年頃から始まる埋立工事以前は、馬堀海岸駅を出ると目の前に海岸が広がり、海水浴場として夏は大賑わいでした。著名人では、元内閣総理大臣の小泉純一郎氏、洋画家の島田章三氏、シンガーソングライターの渡辺真知子氏が卒業しています。

この校歌は、4番まである正調バージョンです。
https://schoolnet.edu.city.yokosuka.kanagawa.jp/schoolnet/juniorhigh/213mabori/index.html
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8110/sisetu/fc00000330.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/横須賀市立馬堀中学校

以前投稿した横須賀市立馬堀中学校校歌は通常歌われてきた1・2番の歌詞のみで作成しましたので、元来の1番から4番まであった校歌の正調メロディで作成し直したバージョンに差し替えました。正調メロディの楽譜は横須賀市立馬堀中学校校友会鵜飼恵会長の協力と横須賀市立馬堀中学校現校長斉藤民夫先生からいただいた情報から得ましたが、そこには応援歌の楽譜も添えられていました。

応援歌は横須賀市立の新制中学校が開校当初の8校だった頃の対抗試合の際に歌われていたようですが「聞け万国の労働者」とほぼ同じ古くさいメロディだったのでこの詞の意図を尊重して新たに勝手に作詞作曲しました。ご批評をいただければ修正も試みますが、現役生やOBOGや教職員の方々に親しんでいただければとも期待しています。

なお、ご協力いただいた横須賀市立馬堀中学校校友会は全国でも珍しい公立中学校の公式同窓会で、小泉純一郎元首相やシンガーソングライターの渡辺真知子さんもOBOGで正式会員です。現在の役員の多くは高齢者(70~80代)のため、若い(といっても40~50代程度)の方々に運営を引き継いでいただけると大変有り難いです。横高OBOGや他高OBOGやその友人知人の方々で横須賀市立馬堀中学校校友会の運営に携わっていただけそうな方がおられましたら、是非ともご協力よろしくお願いいたします。

    ▶馬堀小学校と馬堀中学校の思い出” に対して10件のコメントがあります。

    1. 饗場元二 より:

      馬堀中学8期卒業の饗場元二です。高橋揚一さんが馬堀中学卒業とは奇遇ですね。私は、山崎小学校を卒業して馬中に進学しました。私は当時、三春町に住んでいましたので電車通学で、堀ノ内駅から馬堀海岸駅まで行き徒歩で学校まで通っていました。雨の日も風の日も天気の日も毎日休まず通学し卒業式には、皆勤賞を頂きました。我々が通学していた頃の校舎は木造の汚いものでした。
      中学時代の苦い思い出は、2年生の時に弁論大会に出て当時の国語の先生に原稿をうまく読めば良いと教えられその通りにしたところ、やじが凄くて私の言いたいことは皆に伝わりませんでした。私の勉強不足で、その当時の悔いを今現在も引きずっています。
      私が3年生の時に、小泉純一郎氏が1年生に在学しておりました。小泉純一郎氏とは、山崎小学校、馬堀中学校、横須賀高校とずっと一緒でした。「世界の文化広くとり」から始まる馬堀中学校の校歌を拝聴いたしました。
      ありがとうございました。

      1. 高橋揚一(高22期6組大西昭先生学級) より:

        コメント有難うございます。饗場元二先輩も馬堀中学校でしたか。12年先輩ですね。皆勤賞とは熱血でしたね。雨の日の海岸沿いの道路は歩きづらかったですからね。当時私は学校が嫌いで息で温めた体温計を親に見せて仮病で時々サボっていました。2学年上に饗場さんという陸上部のすごい先輩がいましたがもしかしてご兄弟または親戚の方でしょうか? 私をご存知ないと思いますが、運動会で活躍されて女子たちから騒がれていました。弁論大会ありましたね。私は英語の弁論大会に無理やり出されてふてくされてしゃべった記憶があります。小泉純一郎先輩とは叔母が同級だったようで「じゅんちゃん」と呼んでいました。先週亡くなった「勝利を目指し」作詞者の中村齊先輩は馬堀中学校で英語を教えておられたことがあったそうです。私の在学時には山田茂雄先輩と同期の横高11期秋元紀之先輩が数学と技術家庭を教えておられました。2年次の担任は陸上部の顧問の細谷虎夫先生でした。山側の教室で窓の下には怖い話が伝えられていたレンガ造のトイレがありました。

    2. 饗場元二 より:

      2学年上の饗場は、私の弟で饗場信です。1964年の東京オリンピックの時に聖火ランナーとして、横須賀市内を聖火を持って走ったのが自慢話によく出て来ます。追浜高校に進学して、大学で教員の資格を取得して、母校追浜高校の体育の教師になりました。その後陸上競技部の顧問になり
      陸上競技の選手を育成してたようです。私も、10歳年下の弟も、現在も陸上競技に関わっています。横須賀陸上リトルスクール(小学校5,6年生)で、子供たちに陸上競技の指導者として、頑張ってております。

      1. 高橋揚一(高22期6組大西昭先生学級) より:

        そうでしたか。当時中学生なのに紫色のタンクトップ姿でグランドを走り、運動会では観客世に手を振って人気をさらっていました。私は繋がりがありませんが、山崎小学校出身の井上好彦という友人が陸上部だったので、よく知っていると思います。彼は進学した逗子高校でも陸上部で、当時記録を持っていました。現在は仕事はリタイヤして短歌を沢山詠んでいて歌集を何冊も出版しています。当方のYouTubeは頻繁に開いてくれていて、今回の馬堀中学校校歌と馬堀小学校校歌も昨夜の公開直後から視聴して、五十嵐(青山)光子先生の「春の日の花と輝く」は特に賞賛してくれました。今日も朝から何度もメールのやりとりをしていましたので、弟さんの饗場信先輩について聞いてみます。

        1. 高橋揚一(高22期6組大西昭先生学級) より:

          馬堀中学校同級の井上好彦は弟さんの饗場信先輩をよく知っていました。横須賀市内に名を轟かせた最強の先輩で短距離界のスーパースターだったそうです。井上好彦の記憶はないかも知れませんがとのことですが、中長距離で口の小さいヒョロヒョロとしてもしかして覚えておられるかもと言っていました。饗場信先輩によろしくお伝えください。

    3. 鵜飼 恵 より:

      私達は、馬堀中学校の卒業生で、「馬堀中学校校友会」の運営に携わっています。
      全卒業生を対象とした任意団体として、創設以来15周年を経過しています。
      公立の中学校としては、全国的にもあまり、例を見ない、組織です。
      今回の「校歌」を対象とした御誌の企画は大変、興味・関心をもって拝見しました。
      機会がありましたら、卒業生である会員にこの企画を紹介したいと考えております。
      その際には、よろしくご指導など、いただけると幸いです。
      馬堀中学校校友会

    4. 高橋揚一(高22期6組大西昭先生学級) より:

      コメント有り難うございます。
      馬堀中学校校友会スタッフの方からコメントをいただき大変光栄に存じます。
      当方は昭和42年3月卒業で、所属の3年11組では長らくクラス同窓会幹事をしていました。
      昨年、馬堀中学校校長と音楽担当教諭宛に曲をお届けしましたが、1年経過して反応いただけない状況が続いています。
      馬堀中学校校友会とは是非ともかかわりを持たせてください。
      差し支えないようでしたら下記までご連絡いただけると大変有り難いです。
      tacss@pu3.fiberbit.net
      何卒よろしくお願い申し上げます。

    5. 鵜飼 恵 より:

      高橋揚一さん、

      先般は楽しい、ひと時を過ごせました。
      今年は、馬堀中学校校友会をよろしく、お願いします。

      馬堀中学校10期
      鵜飼 恵

    6. 鵜飼惠 より:

      高橋さん、

      新年になりました。

      ぜひ、お会いできる機会を作りましょう!

      横校 12期
      鵜飼 恵

      1. 高橋揚一(高22期6組大西昭先生学級) より:

        ありがとうございます。
        本年もよろしくお願い申し上げます。

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