▶インドネシア紀行
2016年に仕事でインドネシアに行った時の記録です。観光旅行ではないので「素」のインドネシアを見ることが出来ました。町は新旧ごちゃ混ぜ、人々は素朴で良い人ばかりでした。この紀行文はインドネシアでも「バリ島」の事が主です。首都ジャカルタはここよりずっと近代的ですが、マフィアの勢力が強い地域も多々あるそうです。「バリ島」は交通の便は最悪ですが、それはそれで、日本では考えられない面白い物が見られます。食事はアジアでは最も日本人に向いているでしょう。(2023年1月23日 高22期 伴野明)
■ 紀行文の目次
① 初の海外からの受注・・・『通訳J』さん、『仙人B』さんが来日
② インドネシア入国からホテルまで・・・入国時に思いがけないトラブル
③ 現地到着・・・スロットカー設備のためにわざわざ新築した建物に行く
④ さあ、作業開始・・・『イルワン』君登場
⑤ 作業二日目・・・スタッフの一人が体調不良に陥る
⑥ 作業三日目・・・『缶詰K』さんの工場見学
⑦ 作業四日目・・・スロットカー設備は完成し、試走会
⑧ ジャカルタへ・・・帰路の途中で凄い物を体験
① 初の海外からの受注
「ちょっと来てくれる?」2015年の5月ぐらいです。図面を整理していた私を、弟が呼びにきました。弟はスロットカーの店を経営しており、私は同じ建物で部品製造をしています。弟が卸し、小売りを、私が製造を担当している関係です。「お客さんが、『スロットカー設備を作ってもらえないか?』と言っているんだ」と、弟はいつになく不思議そうな顔をしている。
設備の受注、それ自体は我々の本業であり頻繁にある事ではないが、珍しくもない。弟の顔は何だろう?部屋を出ると、外国人の男性が二人、こちらを向いて立っていました。一人は中肉中背のアジア人、もう一人は髭面に髪がボサボサな小柄な人、60歳ぐらい、一言で言うと『仙人』のような風貌の方でした。「すみません、はじめまして、私は『J』、こちらは『B』さんです」。『J』さんの日本語はそこそこ上手で、雰囲気もいい人です。このあと『J』さんを『通訳J』さん、『B』さんを『仙人B』さんと呼びます。
『通訳J』さんが挨拶の後、話し始めました。「あのー、これ、この設備、羽田空港で見ました、同じ物、作ってほしい、出来ますか?」なんと、初めての外国人からのサーキット設備の製造依頼でした。
詳しく聞くと『仙人B』さんは、インドネシアの実業家で日本にも住まいを持っていて、年の三分の一は日本に居るのだそうです。私が作った羽田空港国際線のスロットカー設備が気に入って製造元を探していて、今日、ここに来ました。ということでした。
早速「設計、見積しましょう」となりました。「建物の図面、送っていただければすぐ掛かります、まずはそれをお願いします」というと、「図面、ありません」と通訳の人。「じゃぁ、申し訳ありませんが、実測していただいて、寸法をいただければ大丈夫です」と返すと、通訳の人はちょっと困った顔をして『仙人B』さんと英語で会話、「スロットカー設備図面、先にください」というのです。
「あぁ、いくつか候補地があって、合う建物に置くのですね」と私は理解して、「いくつでも無料で設計、見積はいたします、まずは建物図面を……」と私が言うのを遮って『通訳J』さんが、「ノーノー」と首を振って「設備に合わせて建物を、新しく作ります、だからまず、スロットカー設備の図面が先なんです」と来ました。「ガーン」です。古今東西、スロットカーが発祥して以来、「スロットカー設備に合わせて建物を新築した」なんて話は聞いた事がありません。
話は弾み、羽田空港の設備より一回り大きな物にすることになりました。「じゃ、すぐに見積を……」を、また遮られて、「見積はいりません、掛かっただけ払います、もう、すぐにも取りかかって結構です」でした。
スロットカーコースレイアウト 世界的にも最大級の規模です
製作は、約三ヶ月で終了、船便で出荷の後、私を含めて四人でインドネシアに向かいました。
② インドネシア入国からホテルまで
「空港からホテルまで」って、普通何も起きませんよね。ところが、そこがインドネシア、いろいろな事が起き、面白い物が見られました。まず空港で。入国の手続きを待っている我々に、警察ではない、『警備員風』の男二人がやってきて、「こっちに来い」と言うのです。(英語ですが)
船便には積めなかった小型工具など、機内持ち込みはOKだったのですが、どうもそれに目を付けられていたようです。別室に案内され、私を含めた三人は待機、切符の手配などをした者だけがさらに別室に呼ばれました。10分後、「何か調べられたら、どう対応しようか?と思案を始めた時、彼と『警備員』が笑顔で別室から出てきました。彼は無言で行く先を指さし「いいから、とにかく先へ進め」のサインです。だいたい見当はつきました。後で聞くと、「英語で何を聞かれているか分からないが、『一万円払え』と解釈し、黙って渡すと、親指を立てて『OK』だった、それだけ……」とのことでした。
先が思いやられる。迎えの人と空港で落ち合い、彼の車でまず現場へ向かいました。距離はそれほどないが、一時間ほど掛かるそうです。現地時間で午後三時ぐらいだったか、道は混み始めていました。ホテルに近づくに連れ、道路の混雑は、どんどん増加、幹線道路であるが片側一車線、日本で言えば昭和30~40年頃の感じです。違うのはバイクの数。ものすごい数です。道路は、左側通行で、バイク列、バイク列、車列、中央ライン、反対車線の車列、バイク列、バイク列。この六列が延々と続きます。
凄いのは「この列が交差点でどうなるか」です。驚きでした。「何も起こらない」のです。その混雑ですから平均速度は10km/hぐらいでしょうか、自転車並みです。その流れは交差点が近づいても遅くなりません。当然、交差点では、交差もすれば右折もする訳です。必然的にそこでは車の鼻の入れ合いが発生します。それが本当に「ギリギリ」のタイミングで実行されるのです。『芸術的』と言えるレベルです。
あれは日本人には出来ません。それでいて滞在六日間で事故は一件も目撃していません。事故ってケガをしたら救急車は機能しませんから、どうなるんだろう?と思いましたが……。道路際にバイクがズラッと並んでいるところがありました。(写真はありません)その後側の建物は見るからに学校です。バイクにまたがっている男女は、中学生に見えます。いや、小柄な高校生でしょうか。「中学生がバイク?」と運転手に聞きました。「YES」でした。免許制度はあるが、乗っている人で実際に免許証を持っているのは半数だそうです。学校も黙認。事故で保険が下りないだけで、自己責任だから構わないとのこと。
道路に沿った町並みを見ていました。ヨーロッパ車の店がありました。ここ、インドネシアは左側通行で、日本車がそのまま使えるので、大半は日本車とその中古車です。「一応ベンツの販売店もあるんだ、リッチな人もいるよな……」と思っていると、ちょっと車の流れが遅くなって、凄い店を目撃しました。「いくらなんでもこれは無いだろう」と思いました。このギャップがインドネシアか。……
この少し先には。幽霊が経営しているような店が……。これ、何屋ですかね?看板はどちらも傾いているし、垂れ下がった物、椅子の壊れ具合といい、ここまで来ると演出的に作った怪談映画のセットみたいな感じです。
③ 現地到着
ほぼ時間通り『仙人B』さんの自宅に着きました。黒い塀に囲まれた、日本だったら暴力団事務所みたいな感じでした。(それは建物のイメージだけで、『仙人B』さん自身は、すごく温厚な方です)入り口は電動扉になっていて、自動で開き、警備員らしき人が二人出てきて挨拶をしてくれました。ちょっと遅れて「こんにちは、よくいらっしゃいました」と『通訳J』さんが、続いて『コンビニG』さんが「にっこり笑顔」で出てきました。『コンビニG』さんとは、インドネシアで三番手の規模の大手コンビニチェーン店の社長さんです。
『仙人B』さんと『コンビニG』さんは、ビジネスパートナーとしてインドネシアで各種ビジネスを展開しています。『仙人B』さんの自宅は豪邸でした。平屋ですが近所では別格の広さ、部屋はいくつあるのか分かりません。ただ、いわゆる金持ちの豪邸的な金ピカなものは全くありません。地味でした。敷地の中央に四つの池があり、池ごとに違う魚が泳いでいました。日本好きな『仙人B』さんですから、当然、『鯉』の池もありました。一息ついてから『通訳J』さんが、今回の仕事の背景、『仙人B』さんのプロフィールなどについて詳しく説明してくれました。
『コンビニG』さんは前述したように、インドネシアで地道にコンビニチェーン展開をして、どんどん事業を拡大した苦労人、『仙人B』さんとは大学の同級生だそうです。一方、『仙人B』さんの経歴は異例です。なんと彼は元、ガルーダ航空のパイロットだそうです。パイロットを引退して、何を思ったか『缶詰工場を』作り、事業を始めた。「パイロットが缶詰工場??」周囲はあまりの事に驚いたが、奇想天外過ぎて誰も止めなかったそうです。唯一『コンビニG』さんだけが支援をした。すると事業は爆当たり、いまはインドネシアの缶詰食品でのシェアは20%以上だそうです。
次に『仙人B』さんがしたこと、それはゴルフカートの製造工場です。それも爆当たり、すでにインドネシアのゴルフ場のカートは、ほとんどで『仙人B』さん製品を使用、いま、台湾やベトナムに営業をかけ始めたところ、そんな風に『すごい商才』のある人だと『通訳J』さんは力を込めて語りました。そう、彼はそのゴルフカート工場の主任でもあるのです。我々としてはもちろん『スロットカービジネスのインドネシアでの展開』を聞きたかった。その時点では決定はしていないものの、大きな期待ができるものでした。
われわれが不思議に思った事、それはここに『仙人B』さんが居ないことです。「『仙人B』さんはここにいらっしゃると思っていたのですが、お忙しいのでしょうか?」と、私は単刀直入に聞きました。『通訳J』さんは薄笑いを浮かべて答えました。「『仙人B』さんは、いま、日本にいます。彼はここ最近、日本でリゾート開発をやっていまして、トラブルがあったので、あなた方と入れ違いで日本に飛んだのです、まだ公開出来ないですが、北海道でのリゾート開発です」あの小柄でひょうひょうとした『仙人B』さんが……、私は言葉が出ませんでした。
現地に着くと、スロットカー設備のための建物は予定通りに出来ていました。エアコンがまだ間に合っていないが、明日、早朝には使えるようになります。とのことで、今日の作業はなく、ホテルに向かいました。-日が暮れ始めたので気温は25°ぐらい、日本だと夏日ですが、全然辛くありません。蒸し暑くないのです。インドネシアは島国なので、日本同様に蒸すと想像していたので意外でした。ホテルの窓から見下ろすと、インドネシアらしい町並みが見えます。ホテルの裏側は閑散としていて、ほとんど通行人はありません。
気になったのは画面中央の『監視塔』みたいなもの。ここ以外にもあちこちにありました。どうやって上るか、何に使うか、聞き逃しました。隣はただの住まいではないですね。でも店にしては「何もなさ過ぎ」、不思議な町並みです。それとどこもなぜか屋根の勾配が強すぎです。まるで雪国の屋根のようです。
④ さあ、作業開始
翌朝、朝食を終えた頃、『通訳J』さんが迎えにきてくれました。それともう一人、30歳ぐらいの、ちょっと華奢な青年が一緒です。彼は『イルワン』君、彼だけが本名OKです。なぜか?彼は日本が大好きで、「もし今後日本で、あなたが何か書く事があったら、ぜひ私の本名を載せて欲しい」と懇願されていたからです。覚えておいてください、『イルワン、クリステンセン』です。彼は日本語が話せます。『通訳J』さんは、急遽日本へ出張する用事ができたので、代わりの通訳に『イルワン』君が抜擢されたのです。
『イルワン』君の本業は溶接工です。たぶん『仙人B』さんの仕事のうち、建築に絡む人材の中に彼がいたのでしょう。数年前、彼は仕事で日本に行き、九州に10ヶ月いたそうです。その間に覚えた日本語ですが、まずまずです。漢字は無理だが、「ひらがな」なら大丈夫。なかなか楽しいヤツで、今回の我々スタッフ全員が「日本に連れて帰りたい」と思ったほどです。
スロットカー設備のために新築した建物は『仙人B』さんの敷地内にありました。インドネシア風のプレハブとでも言ったら良いのか、柱のない、「ガラン」とした建物です。作業を開始し、日本から送った資材の木箱をバラし始めたころ、『イルワン』君が大量のペットボトルを持ってきました。「あのー、皆さん、これ飲んでください。水とジュースね。……あの、注意があります。外に水道、ありますけど、飲んじゃダメ。インドネシアの水道、飲めません。手を洗うだけ、です」
「もうひとつ、……トイレです。インドネシアのトイレ、紙、ないです。日本と違います。インドネシアは、シャワーみたいの、あります。それで、こう、洗います」と『イルワン』君がトイレの仕草を実演、皆はそのリアルな仕草に吹き出してしまった。「なぜ笑うの?」、『イルワン』君は自分の説明が悪いのかと思って、もう一度、もっとリアルに表現しようとしている。「分かった、分かったよイルワン、もういいから」と私が止めにはいりました。一瞬吹き出した私ですが、「ここは押さえないと」と「普通の顔」を作るのが辛かった。
その日は一日スロットカー設備の組立です。組立作業のエピソードを書くと、それだけで10ページぐらいになってしまうので、それは別の機会にします。午後4時を過ぎた頃、『コンビニG』さんがやってきました。「いつ今日の作業が終わりますか?」と尋ねられたので、「今日はできるだけ追い込んでおきたいので早くても6時ぐらいですかね……」というと『コンビニG』さんは、困った顔をして、「5時ぐらいに夕食を準備しているので、切り上げてもらえませんか?」と言うのです。
我々は初日にもっと追い込んでおきたかったのですが、「特別に気を使ってくれているとしたら申し訳ない」と思い、5時前にその日の仕事を納めました。『コンビニG』さんと向かったのは『クタのレギャン通り』でした。ご存じの方も多いと思いますが、そこはバリ島で最も有名なナイトスポットです。『仙人B』さんは、なんとその通りの中央付近に自分の経営するレストランを持っているのです。通りに面した側にスポーツ施設の観客席のような横に繋がった席が段々になっている。派手なこの通りの中でもひときわ目立つレストランです。我々は最高レベルの接待を受けている。改めてそう感じました。ところが『イルワン』君の元気がないのです。全く口をきかず、「ショボン」としている。
違和感を感じた私が「イルワン、疲れたの?元気ないけど……」と聞くと、「ちがう、うれしい、私、嬉しい」とボソッと言いました。後で聞いた話ですが、「こんな所で食事できるなんて、永遠にないと思ってた。いま自分は夢の世界に居る。それを味わってるんだ」そう思っていたそうです。
⑤ 作業二日目
翌日、我々のスタッフの一人が、朝から体調不良の訴え。「昨日寝れなくて、今日はフラフラで仕事になりそうもない」と、青い顔をしているのです。「病院、行きましょう」と直ぐさま『イルワン』君が車で彼を連れて行ってくれました。代わりに来たのが『仙人B』さんの経営する缶詰工場の工場長である『缶詰K』さんです。彼は日本語はダメですが英語が話せるので意思は伝えられます。『イルワン』君の代わりに、用事があったら何でも言ってください、と彼専用の竹の椅子に座って終始ニコニコしています。彼はどんな人かというと「生きてるだけで幸せです」と顔に書いてあります。かなり古いけど、皆さんなら分かりますよね。『柳家金語楼』そっくりの人です。
昼前に『イルワン』君は帰ってきました。体調不良のスタッフは、すっきりした感じで「もう大丈夫っす」と体操を始めました。「ハハーん、二日酔いじゃねーの」とバレバレですが、立ち直ったなら良しとするか。そうこうしているうちに、昼休み。『イルワン』君が、「お昼はどんな店がいいですか?」と聞くので、「地元の人が行く、普通の食堂に行きたいな」と希望すると、「分かりました、ボクたちが行く店でいいですね」と、『イルワン』君は嬉しそうです。
そこは庶民の食堂でした。厨房のある建物の周りに5〜6人掛けぐらいの椅子やテーブルがたくさん置いてあり、すだれみたいな屋根が覆っている。そんな店の中でも、ちょっとリッチな人が利用する、裏手の畑の中にある別テーブル、『イルワン』君はそこを確保してくれました。「ここ、ちょっとお金持ちがすわるとこ、ちょっとだけね」確かにそこは他の雑然としたテーブルより綺麗でした。
「何にします?あの、インドネシアの料理、辛いから注意してね」と、『イルワン』君が警告を発してくれました。といっても『インドネシア料理』はだれも食べた事がないので『イルワン』君に任せました。「おいしい!」、だれもが納得、『インドネシア料理』は完全に日本人に合います。後で調べたら定番の『ナシゴレン』と『アヤムゴレン』だったようです。辛さも問題なく、『海洋民族』に向いた味だなあ、と感じました。私は中国とヨーロッパへ行ったことがありますが、料理がおいしいと思えたことはありません。二、三軒先に、オモチャ屋がありました。どんな感じかちょっと見学。見た通り、看板以外はただ雑然とオモチャが置いてあるだけの店でした。
⑥ 作業三日目
当初の遅れを取り戻し、少し余裕が出てきたのを見て、午後三時ごろ『缶詰K』さんが「作業OKか?」としきりに話しかけてくるのです。どうも彼の『缶詰工場』を見せたいらしい。工場は近く、車で20分ぐらいの所にある。「一度見に来てくれ」とのことで、仕事を終わらせ彼の工場へ。年代物の正門と、古い古い感じの工場の建物、いくら何でも古すぎないか?と聞こうと思ったら『缶詰K』さんが向こうから話してくれました。それによると、これらの建物は『旧日本軍の倉庫』だったのだそうです。それを『仙人B』さんがまとめて買い取って工場にした。――なるほど。
残念ながら工場の写真は撮れませんでしたが、その大半は冷凍庫となっていました。缶詰の内容物の保管に使っています。数件だけ、天井の高い建物がありました。それが缶詰の缶自体と、それに内容物を詰める機械というより『プラント』ですね。チェーンやベルトコンベアが複雑に絡んだ設備です。それは中国製だそうです。彼が言うには、こういった設備は日本製がベストで、導入したいのは山々だが、値段が高くてまだ、手が出ないとのこと。こちらは聞いていないのに彼は一方的に話します。「中国製は、最初は良いがすぐ壊れる。私は分かっているので、プラントが動き出した翌日から作業チームを作り、予定を組んで全てのボールベアリングを交換した。それが賢明なやり方なんだ」と拳を振っての力説です。缶詰ビジネスはインドネシアでは成功した、日本にも売り込みたいのだが、無理だ、工場の設備の衛生面で、まだ到底日本に出せる水準にない、と彼は「カクッ」と頭を下げました。
工場の裏手に行くとそこには『コンビニG』さんの事務所がありました。その脇には、日本で言うところの『お宮』みたいな屋根付きの小さな構造物がありました。『イルワン』君によると、インドネシアは『イスラム教』の割合が多い国だが、ここ、バリ島は『ヒンズー教』の人が圧倒的に多いのだという。「ぼくらはヒンズー教で、『コンビニG』さんも『仙人B』さんもそう」国内で宗教対立は特にないのだけど、イスラムには過激派がいて怖いのだそうです。このあたりの感覚は日本人の平均的な意識と近いのではないかと思います。
⑦ 作業四日目
スロットカー設備は完成し、試走会を行いました。奥にいるのが我々スタッフ、赤青の制服の人はここの警備員、右の黒シャツが『イルワンクリステンセン』君。皆、満面の笑顔です。見ただけで人格が分かる写真です。「イルワン、お前の名前、日本ではカッコイイぞ」と言ったら、「ほんと?」、「ほんとに?」、「もう一度日本に行きたーい」と叫んでいました。もし、観光でバリ島に行く人がいたら『イルワン』君を紹介します。彼は「本当にいいヤツ」です。
⑧ ジャカルタへ
五日目、ジャカルタに飛び、帰国する前に、『コンビニG』さんが、「いい物を見せてあげる」といって空港からちょっと離れた倉庫街に移動しました。その途中、道路が渋滞していてなかなか進みません。「もう少し、あのビルの後ね」と『コンビニG』さんが言ったとき、渋滞している我々の左側の路側帯をけっこうな速度でパトカーが赤灯を回して、黒いベンツを引き連れ、通過して行きました。「事件か事故?」と、ちょっと驚きました。「何かな?」と『コンビニG』さんを見ると、薄笑いを浮かべて、手を顔の前で振って「ノー、ノー」の仕草です。彼が後で話してくれましたが、インドネシアでは、どうしても急ぐ時は、警官に賄賂を渡せば、あのように誘導してくれるのだそうです。だれでもその手を使えるのかは聞き損じましたが、空港での入国のトラブルを思い出せば、「然もありなん」です。
倉庫街に、ちょっと小ぎれいなビルがあり、中に入ると不思議な形の設備が二台ありました。『コンビニG』さんが「これ、何か分かりますか?」と指さしたそれは『フライトシュミレーター』でした。「ここにあるのは本物、空港には観光客用の簡易版があるそうです。本物は億単位の値段で、元、ガルーダ航空のパイロットである『仙人B』さんだから入手できた、と聞きました。残念ながらシミュレーター内部の写真は撮れませんでした。「自由に試していいです」と言われました。我々のスタッフの一人が「こういう物大好き人間」で、「ウワー、本物だ」と完全に操作にはまってしまい、私は試すことができませんでした。
インドネシアは正に発展途上国です。人口も4億人に達する。私の印象としては「バリ島」だけかもしれませんが、日本人との相性は良いです。食べ物がおいしい。もし観光旅行で行くなら、現地人を頼めば、大歓迎で凄く良くしてくれると思います。ただ、「現地でレンタカーを借りて自分で運転」、それはアメリカやヨーロッパでは「アリ」ですが、インドネシアでは文中に書いたように絶対不可能と思ってください。
インドネシア紀行はこれで終わります。もっと書きたいエピソードも沢山あるのですが、なにか別の機会があったらご披露させてください。
インドネシアには行ったことがないので、興味深く拝読させていただきました。
オランダの植民地だったインドネシアにはヨーロッパ風でありながら生粋のヨーロッパとは若干違った感じのメロディがあり、味わい深い民謡が多くあります。
日本ではマヒナスターズや梶光夫が昔歌った「可愛いあの娘」や小野リサのCDに入っている「ラササヤン」や「ブンガワンソロ」などは良い曲です。
でも『ヒンズー教』の人が多いバリ島は本土とは違うことが多いようですね。
蒸し暑くないとは意外でした。
桁違いの豪勢な人も多いようで、スロットカーコースに合わせて建物を新築するとは日本では考えられません。
「見積はいりません、掛かっただけ払います」ですか。
元パイロットの施主はジャカルタの空港に『フライトシュミレーター』を提供しているとはすごいですね。
豪邸の四つの池にそれぞれ違う魚が泳いでいるんですか。
でもトイレに紙なくてシャワーみたいなもので洗うのはちょっと引きます。
そんな国でも空港の警備員は一万円払えと賄賂を要求してくる格差は日本と違いますね。
バイクの車線が2車線もあるとは、これも日本と違いますね。
中学生までバイクに乗っていて、しかも半数は無免許で、学校も黙認とは驚き。
25年ほど前に中国の武漢に行ったことがありますが、沿道には写真と同じような幽霊が経営してそうな店が並んでいました。
武漢にも旧日本軍の建物が残っていました。
昭和30〜40年代頃の感じですか。
『柳家金語楼』そっくりの人がいるんですね。
今後もインドネシアに行く機会はないと思いますが日本人に合うようなので『インドネシア料理』を食べてみたいと思います。
以上、長くなってしまいましたが、感想と概要をまとめてみました。