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高校時代はとても忙しかったというのが一番の思い出かな。
そうですね。私は、体育祭で巨大なパネルを徹夜で作ったのが印象に残っています。あとは、文化祭で竿燈を作ったことですね。
1組から8組迄のたいこうせんと、パネル作り、佐渡おけさを踊ったことです。
前年まで、修学旅行は、関西でしたが、党学年は球種へ夜行で行ったことです。
やはり、あの巨大なパネル作りですね。でも、燃えてやってましたね。若かったですね。私も夜行で行きました。今だったら、新幹線か飛行機ですからね。夜行の方が、記憶には残りますね。
とにかく、試験試験で厳しかったとの印象ですが、それでいて、修学旅行や体育祭などをきちんと組み入れてあり、勉学をしっかりする、遊び?もしっかりやる、という横高の方針が横高の価値を高めていたと思います。
私の小、中,高、大のなかで、いまでも最も誇れる学び舎です。
普通の進学校ではなかったですね。勉強もやりますが、体育祭や文化祭になると命をかけるような学生がいましたね。横高の同窓生にはユニークで自分の意見をしっかり持った人が多いのは校風なのかもしれませんね。
「記恩が丘」、もちろん知っていますよ。あれは我々が在校時に整備されたもの。吉田庫三先生の銅像の除幕式にも参加しました。
「記恩が丘」という呼称は当時の校長、中川鋭三郎先生が好きで、校歌を作るときに作詞の三好達治氏にこの呼称を入れるよう、態々頼んだと仰言っていました。
我々は、偶々一年足らずでしたが、中川校長から直接英語を教わりました。その英語は今から思えばいさゝか古いものでしたが、授業はとても熱の入ったもので、熱すぎて辟易した生徒も少なくなかった。
関西への修学旅行は楽しみで、事前に数名で集まって下調べをし、それを小冊子にして配りました。なかなかユーモアにあふれた傑作でしたよ。
「記恩が丘」は在学中に縁のなかった方も多いようですが、愛を語り思索に耽りトレーニングに励むのに格好の場所でした。
新制高校初代校長中川鋭三郎先生から直接英語を習われたのですね。
私は主宰されていた「向学会」という塾で小学6年から英語を教わりました。
定年退官されてからのお歳でしたが熱血ぶりが伝ってきました。
チョークの粉の着いた手で肩を握られて「君の個性を生かして励みなさい」と言っていただきました。
新制高校校歌作詞が学内コンペで高7期三和義彦先輩の「天がける白雲」に決まった際、次点作品が中川鋭三郎先生だったそうですが、どのような作詞だったのか、ご存知の方がおいでになったら教えていただけると有り難いです。
是非読んでみたいです。
パネル作りは文化祭じゃなくて、体育祭の一部だったのでしょうか? 忘れました。
「全員が製作に関わる事に意味があった」のですね。パネル作りはどなたの発案だったのでしょう? 良いアイデアです。今でも続いているのでしょうか?
体育祭です。今でも続いていますよ。
https://kiongaoka.sakura.ne.jp/blog/2017/09/09/2017taiikusai/