▶青春の「1年4組バンド」(高22期 高橋 克己)
横高から始まった私の「武」と「文」、それらを回顧した三部作は本稿で完結です。(高22期 高橋克己)
初めてベンチャーズを耳にしたのは中学1年の時、曲は「Walk don’t run」だった。私と佐々木滋(高22期、歯科医兼ライブハウス経営)の目の前で、小学校からの同級生ヒロッチが弾くそのイントロを聞いた途端、彼に後光が差した。以来60年経つが彼とのギターの師弟関係は変わらない。
「Walk don’t run」:https://www.youtube.com/watch?v=hIuIIqbyEIU
少しマニヤックな話になるが、そのイントロのコード「Am→G→F→E7」は「霧のカレリア」などと同じ定番進行なのだが、Am(短調)が実はA(長調)だと後年に知った。メロディは短調で始まるからちょっと変わったイントロといえる。ベンチャーズのヒット曲はこのほかにも「パイプライン」や「十番街の殺人」など、他バンドの曲やスタンダードのアレンジ曲も多い。
「霧のカレリア」:https://www.youtube.com/watch?v=E8p3GHVhRks
で、私と佐々木とヒロッチに杉山純也(8組)らでバンドの真似事を始めたが、親にフォークギターらしきものを買って貰うまでは手持無沙汰だった。少し弾けるようになってからの思い出は、中3の2月に出来たばかりの「横須賀市歌」にコードを付けて、講堂でバンド演奏を披露したこと。
坂本小学校出身の佐々木は合唱で鳴らしたし、私も青葉小学校の鼓笛隊で指揮をやっていたので音楽の才が多少あったかも知れぬ。今改めて考えると、自宅は不入斗中前なのに佐々木は坂本中で、私は坂本小の学区なのに青葉小だった。そんな二人は横高でも偶さか同じクラスになった。
日本でのエレキ普及にはベンチャーズと加山雄三と寺内タケシの貢献が大だが、同じころ世界中で旋風を起こしたビートルズの長髪の影響もあり、当時エレキを弾く若者は不良と見做された。が、横高は67年秋の文化祭でエレキバンドの演奏を認める粋な校風で、図書館を喫茶店に見立て、文化祭の2日間だか3日間バンド演奏を許すというのだ。
佐々木と私はこれに出ないでどうするかと、4組でメンバー集めを始めた。腕に覚えがあるか、楽器を持っているのを募ると、ギターに坪井謹治(サッカー部)と小林高平(帰宅部)、ベースに加藤能弘(世界Jr.レスリング4位)、ドラムに市堀俊一(バスケット部)が集まった。弾けないけれどもギターを持つのが上手な山際英男(柔道部)がボーカルに加わった。
エレキが欲しい私は親を口説き、「クレジットの緑屋」の2500円10回払いでグヤトーン「テルスター」を手に入れた。当時、水曜日の夜TV放映していた「勝ち抜きエレキ合戦」のチャンピョンバンド「ザ・フィンガーズ」の成毛茂が使っていた24フレットのエレキで、手の小さい私に細いネックがフィットした。きっとフェンダー「テレキャスター」のもじりだろう。
佐々木はベンチャーズの愛機「モズライト」のコピー「モラレス」(これももじり?)を一旦買ったが、「テルスター」に買い替えた。坪井は確かその「モラレス」で、高平はフェンダー「ストラトキャスター」風のギターだった。アンプを先輩から調達した加藤の下宿(平坂上の自宅菓子屋の裏)で練習開始と相成った。
曲はベンチャーズと加山雄三とグループサウンズだった。が、タブ譜(コード譜)などない時代だから、ドーナツ盤が擦り減るほど繰り返し聴いて、耳でコードをコピーし、難しい個所は適当にそれらしくアレンジ(ゴマカシとも言う)して、10数曲だったかを何とか恰好を付けたように思う。
参加バンドはOBも入ったとても上手なビートルズバンド(ドラムがジョンのパートを歌っていた)と3年生のエレキバンド、そして我が「1年4組バンド」。当時の名前は「Summits」だったが「1年4組バンド」になった理由は後述する。大して緊張もせず、図書室の俄か喫茶店「横高サロン」での演奏を楽しんだように思う。
「横高サロン」の前だったか後だったか忘れたが、せっかく弾けるようになったのにもったいないとばかりに、修学旅行用に歌集を作り、伴奏を加藤の下宿でカセットテープ2本に録音して九州まで持って行った。ラジカセは山田裕康が持参した。今でいうカラオケだが、走りまくりの演奏で歌いにくいと不興を買った。で、テープは2本とも西鉄バスのガイド坪根次子さんに贈呈したのが悔やまれる。
2年になって1年生向けのクラブ紹介コンサートにも「1年4組バンド」は出演した。会場は体育館で、「ハワイアン同好会」に所属していることにしての出演だったから、写真はない。メンバーはうろ覚えだが私と佐々木と市堀と加藤、そして1組の平井明美さんにボーカルで入ってもらったと思う。
何しろハワイアンなので平井さんに「ブルー・ムウムウ」と何かを歌ってもらい、加山雄三「アロハレイ」もやったが「お嫁においで」は難しいのでパスした。後は佐々木がタイガース「花の首飾り」、私がビージーズ「ホリデー」を歌った。長らく私が「花の首飾り」を歌ったと思っていたが、後年佐々木に訂正された。
その舞台で「2年6組バンド」(本当のバンド名は知らない)も演奏した。曲はビートルズの「Nowhere man」だったが、同世代にこんな上手いバンドがいるのかと驚嘆した。ハイトーンのハモリが素晴らしかった。これには敵わないと思った訳ではないが、「Summits」のバンド活動はそれきりになった。
そして48年の時が経った15年11月、歯科医になった佐々木経営のライブハウス「Younger than yesterday」で「Summits」が復活した。還暦も数年過ぎ、足腰や手口が動くうちに、横高の同級生に観客として集まってもらい、皆で青春の1頁を思い出してみようとの試みだった。
その年の初めから練習を始めて、昔「横高サロン」でやった曲を中心に20曲、懸命に練習した。佐々木は半分商売で音楽を続けていたし、私も社会出るまで佐々木とフォークデュオ「Tell a Tale」を組んでいたのでほぼ覚えていた。が、後のメンバーは何十年振りのことだから、練習には三桁近い時間を掛けたはずだ。
8月に公開練習をやり、その様子を新開和寿(6組、柔道部)が録画してDVDに仕上げてくれた。そして11月の本番、同級生や親類縁者ら約90人が参集してくれた。4組女子の森田清子隊長以下、秋元雅江、金井純恵、牧野喜枝子(全て旧姓)ら「親衛隊」が広報に受付にと大活躍してくれた。
「1年4組バンド」公開練習*
https://youtu.be/GeGUPFHtJqw
https://youtu.be/qaEkGnD1i-0
ところで「1年4組バンド」の由来だが、MC兼リードボーカルの山際がオープニングに「1年4組バンドThe Summits、48年振りの復活です」と叫んだことに起因する。それから3年経った18年9月28日、山際が大腸がんで他界した。見舞いに行って聞いたら、最初の下血は15年の夏頃だったと。
「1年4組バンド」本番*https://www.youtube.com/watch?v=n29wIkuDJUQ
その後、下田純一(6組)の勤め先の忘年会と納涼大会で2度ばかり演奏したのを最後に、山際の物故もあって流れ解散となった。その忘年会では千葉在住の加藤能弘に代わって、佐々木と私のギターの師であるヒロッチが、急な「トラ」*にもかかわらずベースを軽快に弾く姿が映っている。*代役のこと
「1年4・6組バンド+H」*https://www.youtube.com/watch?v=FfpCd0iGXSc
青春真っ盛りですね。
2年6組バンドは今は亡き猪俣達夫たちだと思います。
当時の横高は文化祭が3年に一度で、22期は1年次だったので、2年次のステージは横高サロンでしたね。
僕は水泳部で毎日練習だったので参加できませんでしたが、猪俣達夫が2年後輩として同じ大学に入学してきて所属していたフォークソング部に入部してくれたので、2人で開放チューニングを練習してCSNYなどをコピーしていました。
佐々木滋さんとは当時流行したスロットカーの縁で、ご自宅まで行って遊んだことがあります。
その後、私はスロットカーに填まり、滋さんはエレキに填まったんですね。
滋さんのそれに関するエピソードが知りたいですね。