▶ある古い戸籍謄本を見て(高22期 松原 隆文)
【三浦郡西浦村佐島○○番地 甲崎乙助】
本籍の変遷は以下の通りである。
・昭和10年7月1日、土地の名称変更により、三浦郡大楠町佐島に更正された。
・昭和18年4月1日、行政区画の変更により、横須賀市佐島と更正された。
要するに、西浦の地名も大楠の地名も消失したのである。
三浦半島は、「浦」のつく地名がまことに多い。三浦市自体が、「浦」を使っている。三方を海に囲まれているから当然とも言えよう。そして南下浦、北下浦、浦賀、安浦、長浦、浦郷、田浦、これらの地名は全部東京湾側だ。相模湾側には「浦」のつく地名が残っていない。
小生が若い頃、父親が、西浦の何々さん、とよく言っていた。西浦とはどの辺りだろうか?と漠然と思っていたが、この戸籍を見て、地図を広げ、大楠小学校から佐島の辺りを指すのであろうことが分かった。相模湾側で唯一「浦」のつく地名であった。大楠の名は大楠小・中学校、大楠山が有るから、今でも我々に親しい。しかし西浦の名は全く跡形がない。西浦屋というそば屋さんが芦名に有るから、この地名を今に伝えているのであろう。
地名にはそれぞれ由来があり、歴史の宝庫である。例えば小生が住む上宮田という地名は、海南神社の社田が有ったと言うことだ。下宮田は隣村である。金沢区にある朝比奈の地名も、強力無双の朝比奈が一夜で切り通しを開通させたことにちなんでいるそうだ。
考古学と違って地名は捏造が出来ない。以前詩人の谷川健一が、平成の行政による地名の乱造を嘆いていた。三浦半島でも、やたらと葉山、湘南の名を使いたがる人が多い。例えば湘南山手、これ湘南でもなければ山手でもない。
横浜に泥亀(でいき)という地名があるが、若い人たちがこの名を使いたがらないと聞く。ダサいというのであろうか。以前、湿地帯で泥亀が沢山いたということだろうが、とても愉快な地名ではないか!
もうこれ以上、地名を勝手に変えてもらいたくないものだ。
横浜の金沢文庫の近くの泥亀というところは、亀がたくさんいて、子どもの頃、亀を捕まえて遊んでいました。今でも横浜市金沢区泥亀という地名が残っています。残してもらいたいですね。好き嫌いで地名を勝手にいじってもらいたくないです。
ごめんなさい。タイトルをなんが間違えてしまいました。正しくは「ある古い戸籍謄本を見て」です。
「泥亀」で真っ先に思い出すのは22期4組担任の井上隆道先生です。チロリン村に「じろーり」の泥亀編集長が出ていた頃、京浜急行で横浜方面に向かうと金沢八景駅と金沢文庫駅間の車窓から大きな沼地が見えました。車両基地ができる前でしたが、あそこに泥亀がいたのでしょうか。地名は「どろがめ」ではなく「でいき」だったんですね。
馬堀や大津や走水や浦賀には、西竹沢、東竹沢、矢津、高尾、新宿、蛇沼、伊勢町、上町、中町、芝生町、紺屋町、蛇畠などカラフルな字名がありましたが、バス停や町内会名に多少残っている程度です。一方で「◯◯台」だとか「◯◯ヶ丘」などの町名が増えました。
「上宮田」は京浜急行が久里浜駅の先に延伸される前の「油壷」の一駅手前の仮駅名だったと記憶しています。でも「三崎口」になってしまいました。
そういえば、北久里浜の駅名は以前、井田?だったですよね。
「湘南井田」でした。吉井と池田の造語かな? 戦前は「昭南」でしたが。
「逗子・葉山」なんて良くないですね。「新逗子」も良くなかったけど。「逗子海岸」のままで良かったのに。
「六浦」もお忘れなく、横浜ですけど(笑)。
「井田」もですが、「大津」「馬堀」「走水」なども味わい深い地名です。
それと、京急にも苦情をひとつ。それは「県立大学?」、「安浦」が先だったか「公郷」が先だったか忘れましたが、どちらかに戻してもらいたいなあ。
「汐留」はもう遅いけど、「逸見」「安針塚」「田浦」「追浜」どれも良い響き、決して変えてはなりません。
横須賀公郷→京浜安浦→京急安浦→県立大学です。
横須賀汐留→汐入も。
軍需部前→安針塚や鳴神→新大津は戦前なので現在のままで良いですが。
金沢区にも六浦、福浦、幸浦と浦のつく地名が残っています。六浦は、地元の人は、「むつうら」でなく「むつら」と呼んでいました。
「泥亀」を忘れてました。37年前に六浦に越してきたとき、4組の担任が住んでいる! とは思いませんでしたが、変わった地名だなあ、と。
それにしても井上隆道先生の綽名として実に「言い得て妙」ですね。今は「ウミガメ」と呼ばれている岸田政権の林芳正官房長官が後を継いでいます(総理後継は?)。
六浦駅の線路はかなりレアです。
金沢八景の総合車両製作所(東急車輛)から神武寺までの上り線の三線軌条の狭軌線を使う列車が六浦駅のホームに接触しないようになっています。
なんか地名でこれほど盛り上がるとはね。川向というのは、特殊な意味があるみたいです。
それから堀之内や堀内はお城だけではなく遊郭をも意味するみたいですね。東京の地名が小田原と重なるのは、江戸の町作りをする際、小田原を参考にしたんですね。だからダブるんですよ。
以前、小田原でタクシーに乗ったら、東京が真似た!と言われました。小田原市民は町名に誇りがあるんですね。
私も、川向というのは、遊郭のあった場所ではないかと思います。昔、木場に遊郭があったのですが、江戸っ子の人たちは、川向(かわむこう)と言っていました。確かに隅田川の向こう側ですからね。
小田原は、「総構え」に代表される難攻不落の城ですからね。マネしたくなるのも分かりますよ。
戦国時代の都市人口は、一位京都、二位博多、三位小田原だったと記憶しております。
当時の大都会ですね。
同時代の外国は、中国を除けば、多分イスタンブールが一位で、たしか60万くらいですね。
この盛り上がりが「談話室」の真骨頂です、はい。
おっと、ここまで来て不入斗(いりやまず)を忘れていませんか、全国の読みの難しい地名に必ず出てきます。私の勝手な思い込みですが、「はぁ、……これ、何と読むんですか?」に対して地元の人は「ははっ、これは(いりやまず)、と読むんです」とちょっと優越感みたいなものを持ったのではないでしょうか。
という私はこの地名の謂れを知りません。知っている方、ご教授ください。
それと汐入~横須賀駅付近が港町と呼ばれていた記憶があります。これもどなたかご存じでしょうか。
不入斗という地名は、横須賀だけでなく東京や千葉などにも点在するらしいですね。ヤマトタケルの東征に由来するとの説もあって、謎の多い地名のようです。
https://protoplastico.wordpress.com/2012/03/16/不入斗とは何なのか-10/
ホテル・ハーバーの裏に港町公園がありますね。
港町や汐留も昔の字名だったのでは。
不入斗は、文字のとおり、米の収穫のない土地だったと記憶しておりますが。
Wikipediaによると免税地だったらしいですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/不入斗
地名校消滅の話も忘れてなりません。
我が青葉小は1954年、坂本小と汐入小の縄張りの一部を譲り受けて開校しました。ベビーブーマー対応でしたが、少子化の煽りで45年後に親分筋の坂本小と合併し、桜小になりました。地名校が一つ消えた訳です。
中学では我が坂中は健在です。かつて常葉台中(今は常葉中というらしい)を分家し、少子化下にあっても桜台中の縄張りを引き受けました。
高校では逗子高が逗葉高に吸収されるようですが、校舎が新しい方へ移るのは道理としても、校名は歴史のある方を残すべきではないかなあ。逗葉も地名だ、という論もあるでしょうけど。
私立では三浦学苑や逗子開成、鎌倉学園などの地名校が、創学館(旧横浜商工)のように改名で過去の白紙化をせず頑張っていて、運動のみならず偏差値でも横高を凌駕しつつあります。母校の奮起を促したいところです。
平成の初めのバブル期に人事で採用をしていたことがあり、ちょうど今ごろ北海道から九州まで全国の駅弁大学を周って、連夜担当教授の接待したものでした。これら国公立大の多くが今も地名を冠していますが、これは外国もほぼ同様。考えてみれば国や地域の誇りの一つなのでしょう。
採用で大学周りですか。私もやりましたよ。技術系の学生を求めて、北は北見・北大・室蘭、南は沖縄まで・・・といっても、全てを回ったわけではなく、人事部の幹部社員総動員で、割り振りをして行きましたよ。連夜接待とはすごいですね。そんな予算はないから、簡単なグッズを持って、いかに印象づけるかを考えました。電気と機械学科を回りました。懐かしい思い出です。
地名は重要ですよ。勝手に変えて欲しくはない。「逗子・葉山駅」なんて最低ですね。
時々小田原市民をうらやましく思いますね